「3.11」後の比較教育社会史研究、討論と批判

もうだいぶ時間が経ってしまって今さら感満載なのだが、やはりブログには残しておこうと思う。

比較教育社会史研究会という研究者ネットワークが今年で10年の節目を迎えた。毎年春と秋に研究会大会がある。毎年5月には『比較教育社会史研究会通信』なるものが発行される。メンバーにしか(それも定期的にネットワークに参加実績のある者にしか)渡らないものなので広くは知られていないだろうが、毎回なかなかの小文が寄稿されていて面白い。

今年も3月20・21日にお茶の水女子大学で第10回の記念すべき春季大会が開催されるはずであった。ロールズ『正義論』の翻訳出版から間もない川本隆史さんをお迎えした記念講演もプログラムに用意されて。

だが、「3.11」とその後の原発事故の影響で研究会大会は中止となった。

研究会第10回大会/『通信』第10号/『叢書・比較教育社会史』全7巻(昭和堂)完結を記念して、本研究会10年の歩みを回顧し、その到達と課題を明らかにするための「討論と批判」が特集として予定されていた『通信』第10号は、急遽、これらの内容に加えて「現下の状況」を一人の(比較教育社会史)研究者としてどのように捉え、いかに応答していくかを考えるという色彩を強く帯びる寄稿揃いとなった。

3部構成、全16本(執筆者17名)の小文。だがいずれも「力作」揃いである。震災直後という状況ともかかわって、学問のあり方や自らの学的営為の軌跡を振り返る文章が多くなっている。KGUR 関西学院大学リポジトリ(比較教育社会史研究通信・第10号)で見ることができる。ということで、みなさん、ここをポチっとやって読んでいただくのがよいと思うのだが、以下に各文を紹介して、簡単なコメントも付す。

1.比較教育社会史―研究のアリーナ

■望田幸男 「思想の「液状化」から「対峙」の思想への道」
比較教育社会史研究会は望田幸男氏の定年退職を機に出発した。そうして誕生した研究会をこれまで牽引してきた中心メンバーにとっての「師」である望田氏の寄稿。ドイツ史を専攻したご自身の研究歴を「戦後日本の思想状況における左右二重の「陣地戦」であった」と述懐する。その思考法は「新自由主義新保守主義の結合という特異な新潮流」が登場しても「対峙」のスタンスとして維持できたが、現在の政治・思想状況は、その「特異な思想潮流」のその後の自壊によって対抗潮流の不在が露呈したがゆえの混迷であると概括する。今次の大震災をうけ、これからの思想的「対峙」の基軸として――ドイツの思想的公共圏では定着したとされる――「緑の思想」の浮上を予言する。それは「予言」である以上に「期待」であるかもしれないが、「震災後」に「思考風土の底深い変動の契機」をみる言葉は力強い。それにしても「弟子」の寄稿依頼に込められた(たぶん)無言の要請に、かくも応える「師」の偉大さよ。

沢山美果子 「今、私たちに問われていることは何か」
日本近世の「捨て子」とその「いのち」を研究対象にしてきた沢山氏にとって、今回の震災と原発事故がもつ意味は格段に重い。「というのも、私の故郷であり、母、妹、弟夫婦、親族が暮らす「福島」は「フクシマ」となってしまったからである。それにくわえ、昨年から福島の郡山市に転勤になっていた長男は、放射能汚染を恐れて、着の身着のまま京都の実家に避難した妻と幼い子どもたちとの家族離散を余儀なくされたままである」(2頁)。そんな今だからこそ、沢山氏は「「いのち」を繋ぐ」というテーマの今後についてあらためて考察をめぐらせる。

叢書・比較教育社会史の第1巻『身体と医療の教育社会史』の寄稿者でもある沢山氏だが、現在の彼女が辿りついた研究上のスタンスと境地とは、むしろ後期・叢書が到達した問題意識・スタンスをもっとも象徴するものでもある。

私は、「近代家族」によって保護される子どもの対極にある前近代、日本近世の遺棄される子どもである「捨て子」の「いのち」について、具体的個別的な事例を手がかりに考察をすすめてきた。その際、とくにこだわったのは、匿名や無名の扱いをされてきた捨て子たちの姿を、固有名詞を持った存在として肖像画を描くように描き出せないかということだった。その試みの過程で、固有名詞の復権とは、一人ひとりのいのちの復権であるだけでなく、受身ではない、能動性を持った存在として、子どもを捉えなおすことに繋がることが分かってきた。また、固有名詞を持った捨て子の姿に接近しようとするなかで、実感させられたことは、親や社会が子どものいのちを繋いできた、そのことがあって、私たちの今がある、歴史があるという、いわば当り前の事実の持つ重みだった。(3頁)

「捨て子」と「フクシマ」とが、端的な事実性の次元で繋がってしまっている今のこの社会を如何せん。

■田村栄子 「「モダン」と「ポストモダン」の「積極的面」の継承―「自由と生存」の教育社会史」
第1巻『身体と医療の教育社会史』の編者の1人にして、『女性と高等教育』寄稿者でもある田村氏による寄稿。改めて20/21世紀転換期が「モダン/ポストモダン」問題の強い磁場圏内にあったことを痛感する。ドイツ史研究者として「「ポストモダン」をくぐった後に「モダン」の積極面をどう継承するかを考え続けたい」という田村氏は、たとえば「近代批判」の一変種たる「社会的なるもの」批判の陥穽を指摘する。その現代的事例として日本の休職教員の数/代替教員の補充数/教員の疾患の数/その子どもへの影響、を直列の等式で論じる部分には異議なしとはしないが、「「近代批判」の両義性と格闘」しようという知的姿勢には学ぶべきものが多い。

■八鍬友広 「比較教育社会史と教育史と」
その研究業績の一部を垣間見た私の眼には、八鍬氏は完全に「日本史」研究者として映っていた。それだけに「教育学的教育史」――それは後述の安原氏に象徴的なごとく「教育学部教育史」研究者にとって長く「脱却」の対象であったはずだ――の可能性に賭けようとする本文は印象的である。氏は「歴史研究の効力」について考える。例えば地震史研究の成果は地震予知研究に「直接的な有用性」をもちうるだろう。他方、地震などの災害の歴史を明らかにすることを通じて、その時代の「社会の在りようを解明する」ことに資するタイプの研究もありうる。その場合、研究の「一義的な目的」は端的に「歴史の解明」である。さて、「教育学の一領域としてある教育史研究」や、いかに。

・・・教育史の問題は、単に、有用性を求められるあまり、学問的な視野狭窄に陥っているなどというものではない。教員養成制度と関係して教育学的な有用性を求められるポジションにありながら、実際にはそのような有用性よりも、歴史学を志向してきたというあたりが、事実に近いのではないだろうか。そして、結果的には、どちらにも徹することができないまま、教育学に対する貢献と、教育を対象とした歴史学という、両方のベクトルに分裂しつつ、そのギャップに苦しんできたように思われる。(6頁)

比較教育社会史研究会は明らかに「歴史学」を志向し、「歴史学的な知見のなかに教育史を引きずり出そうとする方略」をとってきた。「いっそこの調子で、教育史を歴史学の世界にひきとってしまえば、ことは簡単かもしれない」(6頁)。八鍬氏はそういう比較教育社会史研究会の達成と今後の可能性を評価したうえでなお、「もっと教育学べったりの教育史研究があってもよい」と述べ、そのような試みが比較教育社会史のような「俯瞰的な位置から教育の在り方を考えなおさせる」試みと相互に高め合う未来を見据えている。

歴史学」のところを「社会学」に替えて読んでみるのも一興であろう。

■橋本伸也 「ディシプリンと比較教育社会史―時代に向きあうということ」
橋本さんはこの研究会を「(自分は)長くて10年しかやらない、それ以上やると“腐る”から(大意)」と言っていた。だから今から5年前には小田中直樹さんや今井康雄さんも招いた中間総括シンポジウム(「歴史のなかの教育と社会」@青山学院大学)が行われている。不肖・私もそこで何事かしゃべった。その柱の一つは「比較教育社会史」という学的営為を〈比較_教育社会_史〉として見る、という観点だった。しかし、これはおそらく【比較/教育/社会/(歴)史】にまで分割可能な複合語なのであって、その「複合」性はとりもなおさず、この研究ネットワークが既存の「ディシプリン」との関係性をどのように意識化してきたか――「方法的厳密さばかりを追求し、ジャーゴンで武装して分かった気になるディシプリンに縛られていては大事なことは見えてこない、という開き直り」「ディプリンに拘泥しその自己目的化をしていては目を曇らされる」(8頁)――ということを反映している。

初心者さんは、ここで彼がこのようなスタンスを「開き直り」と書いていることに留意。念のため重ねて引用しておくが、「ディシプリンとして開発されてきた技法をさしあたりは身につけなければ、実際には、そのことで知りうるところにさえ到達できない・・・だから、そのような制約のなかに生きる私たちが、すこしでもましな認識に到達できる条件があるとしたら、一方でそれぞれのディシプリンについてそれなりに熟達しつつ、その限界をわきまえてお隣や斜め向かい、できれば向こう三軒両隣か頑張って同じ町内のこと程度は、少しは聞きかじりをして見聞を広める、けれどもそれが安易にできることではないということだけは肝に銘じておく、このようなことしか手はない」(8頁)――懇切丁寧とはこのことだ。よく噛みしめるべし。

しかし、そんなスタンスにすら忍び寄る「形骸化」への不安。「比較教育社会史」というスタンスは、教育学の「教育」概念を、あるいは歴史学における近代社会認識を、それ以前の「ディシプリン」とやらに比して、一体どれほど豊かにしてきたといえるだろうか――そこからやや踏み込んだ学問観の開陳。

時折感じることなのだが、戦後教育学なるものが、論理的にはかなり無理のある、強引な枠組みを創り出した際の、あるいは大塚史学やマルクス主義が戦後史学の世界を席巻した際の、求心力・訴求力はいったいなにに由来したものなのか、このような個々のディシプリン内部の展開の動因となった、おそらく分野を超えて当時の社会に共通した「時代の力」にこそ、私たちは目を向ける必要があるような気がする。(9頁)

そこで問われているのは、「学問の切実さ」であり、時代に向きあう「思想性」である。

さしあたり戦後教育学と戦後歴史学の両者を「仮想敵」として展開してきた比較教育社会史は、それでは、いったいどのように時代の総体に向き合う中で己を鍛えることができるのか、このことを当然のこととして問われるように思う。(9頁)

その視線の先に、「「知識人」の復権」という反・時代的(?)な、しかし、まさに現下においてこそ痛感させられた(かもしれない)、時代の課題が姿を現すところでこの小文は閉じられる。

2.比較教育社会史研究会の10年―到達と射程

比較教育社会史研究会はその研究成果の独自性はもちろんのこと、それを生み出すことを可能にした「研究者ネットワーク」の柔軟な形成と維持・展開に成功してきた点で後世から評価されるであろう、というか、そうあってほしい(その中核にはつねに文字通り東奔西走してきた橋本伸也氏の献身努力があったことは安原氏の指摘にある通りである)。そうした点に言及した小文が6点。

■村岡健次 「比較教育社会史研究会発足のころ」
イギリス近代史の大家・村岡氏の寄稿。「大塚史学」退潮後の社会史研究の課題を模索するなかで、「ジェントルマンとは何か」「19世紀後半におけるブルジョアジーと貴族・ジェントリ層といった伝統的支配層との融合という事態をどう説明するか」という問いに直面し、その結果、伝統的エリート教育制度(ジェントルマン教育制度)の機能の解明という課題に辿りつくという、ご自身の研究上の軌跡を紹介している。日文研の研究会で教育社会学者たちとの出会いがあったエピソードが興味深い。やはり故・園田英弘先生は重要な人物であった。

■服部伸 「反省、そして展望:比較教育社会史研究会の可能性」
比較教育社会史研究会の出発は望田幸男先生の定年退職を祝う記念論集出版の話であった。その最初期から本研究会にかかわり、その展開のプロセスをつぶさにみてきた服部氏による報告。本研究会の性格をもっとも正確に映し出すことに成功している小文であろう。それだけに今後の研究会(を担うはずの若手研究者)への提言も適確である。「あちこちでやっている科研の研究会」とは異なる「学界全体に提案できるだけのスケールの大きいものを提示」するために必要な研究会運営上の「仕掛け」の必要性。そして、叢書・全7巻のうち『識字と読書』プロジェクトの試みが胚胎する今後の社会史研究の可能性への言及にはまったく同感である。

■菊池城司 「比較教育社会史研究会に寄せて」
教育社会学界の碩学の一人である菊池氏も叢書・第3巻『実業世界の教育社会史』の頃には本研究会に参加していた。研究上のタテ糸(特定の研究領域/テーマについての一貫した問題意識と事実発見の系列)とヨコ糸(異なる分野での同じような資料、考え方、理論、モデル、主張の系列)の喩から、ヨコ糸を紡ぐことに貢献してきた本研究会の功績を論じる。その成果を「誇るに足るもの」と評価したうえで、なお「領域分担型から問題解決型へ」移行できたか、「メタ理論の意識化と再構成へと向かう契機が生まれたのかどうか」を問う筆致は、厳しく響く。

■長谷部圭彦 「「イスラーム部会」へのお誘い」
研究会後期の一つの目玉は「イスラーム部会」が立ち上がったことである。すでに、オスマン帝国北アフリカロシア帝国下のムスリムのそれぞれに関して2つずつの報告がなされている。いずれも若手、そして教育学部以外の出身者による研究である。それは、いかにこれまでの教育学部における教育史研究が「イスラーム世界」を扱ってこなかったか、その一方で、近年の歴史学・地域研究においていかに教育が重要なテーマとして浮上しているかを映して余りある。日本を含む東アジアと「西洋」に限定されがちであった日本の教育史の視野を一気に拡張する可能性がここにはある。

■山名淳 「「ヒトデ」型組織としての比較教育社会史研究会―境界を越えるための集団について」
比較教育社会史研究会が会員名簿や会費の徴収、会長・理事といった類の役職、定期刊行雑誌、申込制による自由研究報告、総じてあれやこれやの堅牢な「学会」調の規約・慣習・しきたり・組織を明確に拒絶したところに成立したネットワークであったことは強調されてよい。山名氏はそれを「クモ」型組織と対比される「ヒトデ」型の特徴として指摘する。自身が試みたドイツの「追悼施設教育学」(追悼施設をメディアとして戦争の記憶を伝承しようとする教育的営為の理論と実践のこと)の歴史研究で痛感された領域を越境する必要性に触れながら、最後に現下の大震災のエピソードにも言及する行間からは「記憶文化の包括的な研究」を比較史的な枠組みのもとで取り組もうとする意欲も垣間見られる小文である。

■安原義仁 「比較教育社会史研究のゆくえ」
広島大学教育学部・教育学研究科で22年半にわたり「西洋教育史」を担当し、本研究会にも最初期からかかわった「教育史」研究者による寄稿。広島大学での自らの歩みを、「要するに私は「古い教育史」、「教育学部教育史」…から脱却しようと試行錯誤したのである。言い換えれば、歴史学ディシプリンをしっかり踏まえた教育史、教育学の世界に閉じこもるのではなく、他の隣接学問領域や教育以外の社会的営為にも広く開かれた教育史への転換である」(15頁)と振り返る言葉は、私のような世代/領域で好き放題やってきた者からすると「悲壮」にも映る学的決意表明である。その延長上に比較教育社会史研究会との出会いは必然であった、と。現在においてなお「教育史研究は一体、何のために、誰のためにあるのかについても、今一度立ち止まって深く考えてみる必要があろう」と自らに問う姿勢は鮮烈である。

また、もう一つ目を引くのは、研究会のこれまでのネットワークのあり方について好意的な評価の続く寄稿のなかにあって安原氏のそれが慎重であることである――「研究会のいわばゲリラ的な活動が、大学や学会など既存の学問研究の仕組みや枠組みにどれ程のインパクトを及ぼし、教育史研究の方向性と制度的基盤を再構築する契機たりえるのかについてはまだ定かではないし、今後の課題としてあるのだろう」(15頁)、と。記しておこう。

3.『叢書・比較教育社会史』(全7巻、昭和堂)―批判と課題

比較教育社会史研究会は出版社・昭和堂から全7巻の『叢書・比較教育社会史』を刊行している。ここでは、その叢書の到達点の評価と今後の課題に向けた批判的検討を行っている小文が5点。

広田照幸 「比較教育社会史の射程」
第3巻の編者による比較教育社会史研究会の歩みに関する総括。1・2巻をフーコー/アンダーソン的な「1980年代〜90年代前半のポストモダン的な知的磁場の延長上にある」成果、3〜5巻を「グローバリゼーションの展開が教育改革に強い影響を与えたことによる、1990年代からの知的磁場の変化を反映」した成果とみる。対して、6巻以降は研究上の深度ある転回が生起している(「まだない問題枠組みを作り出していこうとする、きわめてチャレンジングなもの」)と評価する――「国民国家の道具としての教育がもつ抑圧の側面と解放の側面とを両方手放さないで、いかにして歴史を書き直すか、という問いである。それは、いわゆる戦後教育学が作り上げてきた教育史像を克服する道でもある」(17頁)。そのうえで今後必要なことは、「比較」を本格的にやること、そのための方法論や視座をどう準備していけるか、ということだという。広田氏の「比較による大胆な類型の形成を」という提言が「慎み深い歴史家」の共感をどこまで得られるか。

■金澤周作 「叢書の教育社会史的分析?」
『チャリティとイギリス近代』の著者による叢書の全82本の論考にみる研究動向((1)対象地域、(2)対象時代、(3)対象テーマ)の検証。(2)については、圧倒的多数の19・20世紀への集中とともに、そこに共有されている「進歩主義的な近代教育発展史像の相対化」という底流とをみてとる。(3)については、「非制度的ないしは反体制的な教育のありかたに対して熱いまなざしが注がれていること」を見出す。(2)について、中世・古代の事例もまた重要では、という指摘はまさにその通りだと思うが、現在の本研究会・若手研究者の研究関心上の焦点は福祉国家形成過程における「福祉と教育」の境界線を問い直すという「現代史」的課題へとシフトしてきている。対象時代は「問い」と相関的にしか設定されえない。

■香川せつ子 「女性、ジェンダーと比較教育社会史」
第6巻『女性と高等教育―機会拡張と社会的相克』の編者自身による当該書の批判的検討。女性の高等教育機会が「留学生というシステムを通して」、また「植民地と宗主国という権力関係を介して」移植されていった世界規模の潮流の歴史的ダイナミズムを抉出した点への評価と、今後の課題として(1)高等教育機関/制度に内在的な問題の検討、(2)さらなるマイノリティ・グループへの接近、(3)比較対象国の範囲、といった点を指摘。それよりも、「毎年の教育史学会の大会では、ジェンダーによる差異を無視した報告が並び」だの、「比較教育社会史研究会は、ジェンダーを不可欠の分析概念とみなす(現在の日本では)数少ない研究交流の場である」だの、果ては本書の出発点において、「ジェンダーの教育史か女子教育史か」が初発のハードルとならざるをえなかったという教育史研究界の現況に嘆息。

■水谷智・駒込武 「『帝国と学校』における〈比較〉をめぐって」
第5巻『帝国と学校』の編者である駒込氏が「近年帝国の〈比較〉をめぐる問題に積極的に取り組んでいる水谷智」氏に対して依頼したコメントと(前半)、それへの駒込氏によるリプライ(後半)からなる。水谷氏は「〈比較する〉という行為は政治的な優劣判断とどうしても親和的であり、比較を通してある支配形態を批判すれば同時にそれが別の形態の免責につながる」ことの危険性を指摘し、むしろ研究対象である諸帝国それ自体が「比較の熱心な実践者」だった可能性と、それゆえに「比較自体を歴史学の対象にする必要性」に言及する。それをうけた駒込氏は支配側/被支配側双方の「比較の実践」(の比較)を今後の研究課題に据える見解を表明する。

■岩下誠 「『叢書・比較教育社会史』を「若手教育史研究者」としての立場から読む」
イングランド教育史・教育思想研究の俊英による叢書の到達点の総括。第三巻までの体系的な枠組み(1)アリエスフーコー的な「規律権力」論/2)ゲルナー=アンダーソン=スミス的な「国民統合装置としての学校」論/3)ブルデュー的な「階層構造再生産装置としての学校」論)からの脱却の試みとして第四巻以降の展開を評価。そのように後期叢書を総括したうえで、今後の課題として(1)「教育の社会的機能」という視点の再挿入の提起と、(2)「比較」の作業を実質化するためにも「ミドルレンジの命題の設定と検証」の必要性、とを論じる。モノグラフの蓄積からその体系化、教育社会史の全般的な書き換えへ、といったチャレンジングな提言は、前掲・広田の提言とも通底する問題意識である。

広田氏と岩下氏による総括は、ともに本研究会を牽引してきた橋本伸也氏による論考「歴史のなかの教育と社会―教育社会史研究の到達と課題」『歴史学研究』第830号を意識しつつ書かれている。橋本氏が研究会5年経過した時点で中間総括した本論文は、教育社会史研究を志す人は必読であろう。

それにしても。

教育史は教育学(であるべき)か、歴史学(であるべき)か、とか、「教育学部教育史からの脱却」とか、ってこれほど繰り返し(それもあるときは自虐、あるときは皮肉や揶揄の響きを濃厚に漂わせて)言及される図というのはなんなのだろう。完全に知識社会学的探究の対象である。「教育」のところを「経済」や「政治」や「医(療)」に替えても同じような図が見られるのだろうか。あるいは他の社会に行っても?

ある程度は「イエス」であろう。八鍬氏が述べるように「現実の教育における有用性を期待されるあまり、恣意性や視野の狭さをともな」うということは、領域や社会の如何を問わず起こりうることだし、実際に起こった(教育の場合、たとえば1950年代の英米でも)ことでもある。

しかし、それにしても「教育」にはある種の「過剰性」がないだろうか。

これはかの有名な「教育さん」問題に通じる問いでもある。すなわち、(日本社会において)教育を内在的に語ろうとするとき、人は誰しも「教育さん」になってしまう、それはなぜなのか、という問題である。

「教育」という対象から由来する普遍性の次元、というものは、たしかにある(気がする)。だがそれだけに限られない歴史的次元の要因もあろう。それも二重に、だ。一つは【近代_日本】に由来し、もう一つは【戦後_日本】に由来する。それが私の仮説だ。

こんなところに書くのは恥ずかしいことこの上ないのだが、はっきり言って、今の私のまじめな知識/歴史社会学的な問いである。