肯定すること

「教育」とは権力の作動であるとかの用語系で語る言説に、もはや新たなインパクトなど皆無であろう。だがそれでもなお、「教育」をそのようなものとして認識しつづけることには実践的な意義もある。

「自己肯定感」とか「自己効力感」というのは、人が成長していく際に不可欠の「土台」であると、とくに前エントリで紹介したような学校の子どもたちを見ていると、痛感する。彼ら/彼女らは、無条件で自分を受け止め肯定してもらうという経験を安定して積み上げていないのではないかという印象を強くもつ。「基礎的信頼」というか。それを積み上げさせるだけの「余力」のある大人が周囲に分厚く存在しない。「親」も生存を確保するためだけですでに手一杯だし、ギリギリの生活が継続するというのは、ただそれだけで、精神を摩耗していくものでもある。

この場合の「余力」とは主に社会経済的なそれを意味しているのだが。

そういう背景のもとで「自己肯定感」が希薄な子どもに対し、学校/教師が通常の教育スタイルで臨む場合、早晩、彼ら/彼女らは強い拒絶反応を示すようになる。それを見た教師やその他の大人たちは、「ああダメな子だなこの子は、やっぱり○○な子だから...」という形式の納得の構造のなかに、この子らの存在を落し込んでいく。

しかし、なぜそれほどまでに「拒絶」するのか。

伝統的な教育社会学の諸研究は、主にそれを「階級文化」と「学校文化」の齟齬と葛藤という問題構成のもとで処理してきた。前者と「労働者階級」文化、後者と「中産階級」文化という対応図式をともなって。

もちろんそれはまったくのピントはずれではないと思うが、もっと素朴にこう思う。

「教育」とは、本質的に、教育対象である存在を_一時的に_否定する_コミュニケーション形式であるからだろう、と。

教師が子どもの成長を願って彼ら/彼女らと接するとき、教師(=教育する者)には2つの子どもが見えている。いまそこにいる当の子どもと、(教育コミュニケーションに首尾よく組み込まれることで)「成長」(変容)したあとの仮想上のその子どもと。そして、前者を「否定」することを通じて、後者へと導く働きかけの総称を「教育」とよぶ。その限りで、「教育」とはつねに、目の前にいる子どもの一時的な否定である。よくできたね_【でも】_○○を××したらきっと君はもっとできるよ。

基本的な自己肯定を既得の資源としている子どもにとって、このようなコミュニケーション形式で充溢した学校空間に身を投じることは、さして苦痛ではない。むしろ、「一時的な否定」を通じて達成される成長と、それがもたらすさらなる自己肯定とは、学校という空間と教育というコミュニケーション形式への深い肯定的意識、親和性へとつながり、高い教育達成にも通じやすくなるかもしれない。「資本(の増殖)」のアナロジーは、こういうときにこそ用いたくなる。

だが基本的な自己肯定感を学校空間の外/教育コミュニケーションの以前に獲得しきれていない子どもにとって、学校という空間の内部に充溢する教育という営みが、つねに「一時的な否定」からしか作動されないのだとすれば、それはなかなか苛酷な環境である。比喩ではなく、自分を無条件に受け止めてくれる場所、肯定してくれる大人など、この世界に存在しない。

前エントリで紹介した学校は、子どもの自由、自主性・主体性に準拠した教育方法を大胆に取り入れた学校改革と実践開発を進展させ、一定の結果を出してきた。さまざまな理由は挙げられるだろうが、一番根底にあるのは、その学校改革の基本思想が、まずは_子どもを_受け止めて、肯定的な自己像と達成感とを積み上げていく、というところに置かれていたからではないかと思う。

もちろん、そういうものを導入する際にお決まりの「抵抗」もあっただろうし、今も進行形で懐疑的な視線を投げかけられることもあるだろう。だが、「肯定」のないところに「一時的な否定」とそれを通じた成長などない。「子どもの自由」に教師による「教えること」の主導性を対置し後者を強調するスタンスや、「子どもの自由だの自主性・主体性だのに任せるなど“甘い”」という教育観に決定的に欠落しているのは、教育コミュニケーションが本来的に帯びる、この(一時的)「否定」性への感度である。

こうして彼ら/彼女らの学校/教育への「拒絶」の態度を、「階級文化」というテンプレートにはよらず、教育というコミュニケーション形式に内在する問題として把握すると、たとえば社会経済的には「余力」があり、しかし上記のような家庭とは逆に、過剰に教育的であることによって子どもを追いこんでしまう、というタイプの家庭の問題についても同じ地平で語ることができるようになる(それが適切かどうかは別にして)。

まあ90点のテストを褒めてもらおうと思って家に帰ると「どうして100点じゃないの?次のテストではがんばって100点を目指しなさい」なんて言われる家庭の問題ですわね。子どもは素直なので、それを親の期待と受け止めて応えようと必死になるわけだが、往々にしてこういうコミュニケーションが支配的な家庭ではそれが永続するので、どこかで子どもの側が「離脱」する、というかせざるをえない(「離脱」しない/できないのは、それはもう悲劇である)。そうなってから親は「私は子どもの成長を願って精一杯努力しただけなのに、それが間違っていたのかしら」とか思うのかもしれないが、そういう自分のコミュニケーション形式が目の前の子どもの「一時的な否定_の恒常化」を帰結していることへの想像力というのは伴わない。

なんだこの安い教育論。

「教育する家族」になりきれない家族の問題と「教育する家族」の機能過剰の問題(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書)とを、とりあえず、教育コミュニケーションに内在する否定の形式がもたらす同じ地平の問題として別言しているだけである。

人の能力を引き出し発展させるためには、その者をただそこに存在するということにおいて肯定する、ということから始められなければならない。はじめに、肯定すること、があるのである。

そういえば、前エントリで紹介した学校の公開授業研究会の席上で、一人の学生が発言した。つくば市の公立義務教育学校で育ったという彼女は、クラスで(いや学校全体で、だったかもしれない)ただ一人の日系ブラジル人だったという。

彼女は、その学校で行われている実践の形態上の革新性には触れずに――日本人の学生は逆にこちらにしか言及しない――、それ以前に、この学校の廊下や教室の壁や掲示板にあふれるポルトガル語の多さに感動した、と述べた。

「私が経験した学校教育では自分の身の回りにポルトガル語がありませんでした。それはなにか、つねに自分という存在がここでは認められていない、受け入れられていないという感覚でした。でもこの小学校が素晴らしいのは、学校じゅうにポルトガル語があふれていることです。これは、ブラジル人の子どもたちをものすごく勇気づける、とても素晴らしい取り組みだと思いました」

日本人の学生がこの点に反応しないというのは興味深い。自らのルーツとなる言語と文化が学校空間のなかで尊重されるということの意義が、たぶん、彼女ほどに鮮烈には実感できないのだろう(そういう私も、正直に告白すれば、この日本人学生たちとむしろ同類である)。

この小学校の改革も、革新的な実践手法の導入に先んじて、まず校長先生が全校集会でポルトガル語で挨拶する、会話にポルトガル語を交ぜて話す、掲示物や話の内容もブラジルに関するものを多くし、ポルトガル語で書かれたものを増やしていく、サッカーW杯で日本とブラジルが対戦したときには体育館をパブリック・ビューイングの場として保護者にも地域住民にも開放し、日本人は日本を、ブラジル人はブラジルを思いっきり応援する...といった地味な取り組みからスタートし、そうした試みの進展のもと、ようやくブラジル人児童は学校のなかで落ちついてくるとともに、生き生きとした表情と活発さとを見せるようになっていったという。

ポルトガル語【も】使っていいし、ブラジルのこと【も】話していいんだよ。

現在も一日の日課がすべて終了したあとの「帰りの会」では、日本語で書かれた文章とポルトガル語で書かれた文章の両方をクラス全員で朗読する、という活動が行われている。つまらないことだと思われるかもしれないが、そうではない。この活動の実践者たちはそういう概念で認識していないが、これを「民族教育」の実践(保障)――というか、そのための第一歩、と表現することもできるかもしれない。

ここまで具体的な実践/コミュニケーションの次元で「教育」を論じることに限定し、階層下位出身の子どもをめぐる問題から中/上位層の子ども、外国人児童にまで射程をのばしてきた。基本的な発想として、いかにしてそれらの子どもを社会に包摂し、その能力開発を通じて社会の発展を期していくか、というスタンスをとる。

まず肯定すること。身にまとう言語・文化・習俗ごと、その存在を。そこを基盤としてはじめて人は自らの能力や創造性を発展させていくことが可能になる。社会を構成するメンバーの能力と創造性が十全に発展・発揮されることをつうじて、われわれが生きるこの社会の発展が約束される。「教育の機会」とはメンバー同士が相互に奪い合うゼロサムの資源ではなく、相対的な水準での序列を競い合うだけのゲームでもない。それは相対的な水準での序列も生み出すものかもしれないが、同時に/それ以上に、社会全体の厚生を絶対的水準で向上させていくための元手である。

だからこそ、われわれは、そのような実践の展開する場を安定して継続的に確保するために、一定の「政策」「法制化」という手段をとる。

さて、さきほど話を「民族教育」のところまでもってきた。

話の次元を「政策」「法制」まで引っ張り上げ、テーマとしての「民族教育」にまで自らを導いたところで、やっとわれわれが今ほんとうに真剣に考えなければならないトピックに辿りついた。高校無償化&就学支援金支給の政策が朝鮮学校のみ「停止」されている現状を、である。

残された時間はごくわずか。3年生の卒業式は前エントリの小学校のそれよりずっと早く行われるはずではないか。

前エントリを読んで「いい話だね」だけで終わらせる社会であってはいけないのだ。そんなことなど許されないのだ。