文句があるならオレに言え

それは,その学校にとって本当に大変な,長い一日だった。

その小学校に勤める教師にとって――なかでも,少しでもよりよい実践をと日々懸命に努力していればいるほど,そういう教師にとって。そしてもちろん,その小学校に通う子どもにとって――なかでも,子どもが抱えるには苛酷すぎる重荷を背負って日々生きている子どもであるほど,そういう子どもにとって。

全校児童のほぼ全員が近傍の築35年を超えた県営住宅から通う。貧困層集住地域である。通り一本挟んだ向こう側は名鉄不動産が開発した落ちついた分譲住宅地。校区は異なる。

それどころか,最近になって県営住宅団地の脇が宅地造成され,売りにだされた一戸建ては,校区がこの小学校では買い手がつかないと地主が騒ぎ,隣の小学校の校区――名鉄の住宅地が該当する校区――へと編入されたほどだ。

日本人児童が3分の2,外国人児童が3分の1。外国人児童の世帯はほとんどが両親ともいるが,日本人児童のほうは約半数が一人親世帯(大半は母子世帯)である。二人親世帯であっても,ドラマにも出てこないような,一度聞いただけでは全体像を把握しきれないほど複雑な親子・きょうだい関係のもとで生活している子どももいる。要保護・準要保護世帯は半数にまでのぼる。

学力も学習意欲も最低水準。欠席・遅刻も多く,なにより児童間の喧嘩・諍いや教師との間で感情的な対立と消耗が続く。

そんななか,6年近く前から独自の教育実践を導入し,学校改革に着手する。やぶれかぶれである。どうせ手をこまねいていても授業など成立しないというのなら,思い切った実践開発を行って子ども達にぶつけてみようじゃないか。

詳細は近刊の拙稿をご覧じろ。

うまくいった/いっている,と思っていた。私も。誰より,教師たちが。

だが,こういう子どもたちが置かれている現実は甘くない。無駄にセンセーショナルな物言いは控えるべきところではあるが,ステンレス扉一枚隔てた向こう側になんとか絵図が日々繰り広がられている子どもだって,一人や二人ではない。

昨年2月に初めて訪れ,秋口から本格的なフィールドワークに入り,私の評価はずっとポジティヴだった。悪くない。もちろん,クラスや学年によっては若干落ちつきがないところもないではないが,むしろ「活発さ」の現れ,と評価したくなるような雰囲気だった。うん,悪くない。それが2学期のことだった。

ところが3学期。年が明けて初めてフィールドに入ったとき,がらりと雰囲気が変わっていることを知る。教師から聞いてはいたが,実際目にして実感した。「活発」だったクラスや児童の様子に,殺伐とした棘が戻ってしまっている。ひらたく言うと「荒れ」ている,というやつだ。

年末年始を挟んで豹変した子どもたちの様子には多様な要因が複合的に絡んでおり(おそらく),安易な一般化はすべきでない。ただ,子どもたちの親(に相当する大人)のほとんど全てがもともと不安定就労の長時間労働を強いられている現状を鑑みれば,子どもたちが身に帯びた殺伐とした棘の多くの部分が,その間の親の雇用形態その他の条件に大きな変動があったことの反映であることを推察するのは,さほど不合理なことでもないだろう。

実践開発に奮闘してきた教師たちの落胆ぶりや,如何ならん。

その日は,その小学校の教師にとって,自分たちが数年にわたり開発してきた教育実践の成果を世に問う場所になる,はずだった。「荒れ」を抱えた子どもたちも,その何人かは精一杯がんばって,「自分たちの先生」にとって大切らしい今日というこの一日を,「いい子」でやり過ごそうと懸命に努力していた。

だが限界というものがある。相手はなにせ,まだ産まれて10年そこそこの,小学生なのだ。そして,学校にとってそんな大切な一日にも,外部の社会から持ち込まれる「火種」に容赦はない。教師たちは,実践公開の当日にまで,そのスケジュールと同時並行して,外部の「火種」と対決しなければならなかったのである。

それでもなお,私はその小学校の挑戦している取り組みは,「悪くない」と思っている。あれだけの「荒れ」を抱えた子どもが――どこにもぶつけられない思いを仕方なく周囲のモノや自分の体を痛めつけることでしか発散できない子どもが――,ここまで耐え,学ぶ空間を,他のどんな実践が用意できるというのだ。

長い一日が終わって,憔悴した教師たちとともに打ち上げ会場に向かうところだった。校舎を出て校門に向かい,左手にある駐車場へとつながる,その校門近くにすごい剣幕で指を突きさしながら怒鳴りまくる,もはや老境を迎えているといってよい男性と,それに楯つき口答えする子ども,それを押さえつけて黙らせようとしつつ,ひたすら沈黙のままにうなだれ,あるいは謝り続ける教師数人。そのなかには,その児童――3年生男児――の担任教師も含まれている。

ああ,またか。よりによってこんな一日の最後にまた,これである。

周辺住民(団地の住民ではない)がこの学校の子どもの何かに腹を立て,教師を呼びつけ,怒鳴り散らす。子どもが反抗する姿にまた腹を立て,「抗議」はエスカレートする。ちなみに,モンスターなんとかの類の大人を想像しないでほしい。見た目はあなたと同じような,ごく普通の,常識人である。

「フルコース食べ終わったあとの,デザート,ってやつですか!」と若い男性教師は吐き捨て,足早に自分の車へと向かった。

「行きましょ?」とベテランの女性教師は諦念を帯びた平静さで私に語りかけ,車の方へと誘った。

私はそのトラブルの中心人物でありそうな男児――いつも騒ぎ気味の,かなりスケベでw,だけど気のいい,かわいいヤツである――が,「かんけーねーだろっ!!」とその老境の男性に猛然と刃向かおうとするのを背後の女性教師にたしなめられている姿を尻目に,車へと向かった。

2次会。

上述のベテラン教師のもとで実践開発に積極的に取り組んできた若手教員(なぜか全員男ww)ともう一人のベテラン女性教師との数人で,2次会の居酒屋に行った。さっきの反抗的な男児の担任教師もいる。まだ正規採用ではない,講師身分の,若手男性教師である。そこで,あのとき,何が起こっていたのかを知った。

その老境に入って幾星霜という男性が校門前の道路を車で通りかかった。その道しかないところだ。なんでだかは知らないけれど――たぶん当の本人も説明できないだろうけど――,その男児は,車の前に両手を広げて立ちはだかり,「通せんぼ」をした。された側である男性は車の窓を開け,注意する。どんな言葉で言ったかは知らない。それに対して,どうやらその男児が口答えしたらしい――これもどんな言葉でだかは知らないが,こちらはなんとなく想像はつく。そこでこの男性はキレた。車を降りて怒鳴り散らし,様子を聞きつけて駆け寄った教師に向かって,こう叫ぶ。「担任はどこにおるんじゃ!」

「お前か,お前が担任か。どんな教育しとるんや。あ!? もう明日なあ,明日わしが教育長のところに抗議に行ったるから,お前も,お前んとこの校長も,教頭も,みんなクビじゃ!! わかったか!!」

かなり控えめに再現して差し上げた。繰り返すが,特別変わった人じゃない。これを読んでいる,あなたと同じような人だ。

クビにするもなにもない。この若い担任教師は,そもそも正規採用にさえまだ至っていないのだ。不安定な身分のまま困難を抱えた教育現場の最前線に立ち,教員採用試験のための試験勉強の時間も削って――試験勉強してる時間なんてあると思うか? あんな重箱の隅をつつくような問題!――実践開発のための労を厭わず,ここまで奮闘してきた。こんなことをしてる場合なのかオレは?――そう自問しない日などなかったのではないか。私は彼の作った教材を見ているからわかる,彼がどれだけ努力してきたか,そして今も努力しているかということを。だが,このとっくに老境を迎えているはずの男性はそんなことなど知る由もない。この自分の孫に近いぐらいの歳若い教師が,毎日どれだけの不安と闘いながら,どんなに斬新な実践開発に取り組んでいるかということを。

そのときだ。

この若い担任教師を毎日毎日手こずらせている,落ちつきもなく騒がしい,ともすれば授業を妨害する側にまわりがちな,でも憎み切れない,この小学校3年生の彼――背丈など私の腰ほどである――が,背後の女性教師の制止を振り切って,食ってかかるようにこう叫んだ。


せんせーかんけーねーだろっ!! 文句があるならオレに言えよっ!!


先生は悪くない。悪さをしたのはオレなんだから,文句があるならオレに言え......彼はそう言ったのだ。

ああ,私の目に最後に映ったあの光景は,彼がこう叫んだときのことだったか。

彼は自分の担任教師をかばったのだ。いつもいつも迷惑をかけていて,それでも自分を見捨てずに,クラスを見捨てずに授業を準備してくれている先生を,彼が,かばったのだ。

うまく表現できていないと思うのだが,そういうことがあったのだ。

今もこの学校,そしてこの担任教師の受け持つクラスで「荒れ」は(かつてのようには)収まってはいない。だが私は,この実践開発に取り組む教師(たち)を,まずは支持したい。あらゆる必要な検証(とそれにもとづく批判と)は,この努力に対する支持を基盤にして,そこからのみ,繰り広げることにしたい。彼――小学校3年生の彼――が,自分の担任教師を,その最も深部の基底において,支持しているように。

初等教育,あるいは就学前教育への投資がもたらす社会的収益の高さが注目されている。あるいは,学習活動に設定された目標構造の違い(競争的/個別的/協同的)によってもたらされる教育効果の差異についての研究も心理学では進みつつある。今後は,例えば学校ごとの教育実践形態の違いによる教育効果の差異を測定する実証研究プロジェクト――かなり大規模なプロジェクトである必要がある――も要請されることだろう。

しかし,このエントリで指摘したように,子どもの教育効果は,早期の段階であればあるほど,また家庭環境の厳しさが目立つ子であればあるほど,その子どもが置かれている学校外部の社会的環境の変動をきわめて敏感に反映してしまう(混同しないでほしい。効果は――のちの教育段階に比すれば――大きい。「変動が大きい」というのは,それとは別のことだ)。それに対して,学校内部で取り組まれている実践がもちうる力の届く射程など,悲しいほど小さい。これまでの(主に英語圏での)教育効果を検証する大規模調査の分析結果を参照し,それをもとに繰り広げる政策論議は,そのことに可能な限り自覚的である必要がある。

私がフィールドエントリしたこの学校の場合,調査が昨年の秋口に行われるのと今年の年明けに行われるのとでは,きわめて大きなパフォーマンスの違いがでてしまうだろう。もちろん,そういう撹乱要素を「ならす」ための大規模調査ではあるが,下層の雇用環境の悪化がある特定の時期に集中するという前提が一般に成立するならば,教育効果の測定プロジェクトは,その要因が混入しない時期を自覚的に選定して実施される必要がある。管見の限り,調査実施の「時期」がもたらすバイアスについて十分配慮された設計にもとづく教育調査は少ない――というか,まったくないのじゃないだろうか(かつて農家がもっと多かった時期には農繁期/農閑期の要素を調査に組み込むのは常識であったが)。社会調査全般に広げても,生活時間調査を除いては,こうした要素を明確に自覚的にとり込んで設計された調査はきわめて少ないというのが,個人的な感想だ(勘違いかもしれない)。

それにしても,この小学校の,長く,困難で,鬱々たる一日の終わりに舞い込んだ一つのトラブルをめぐるエピソードは,この教師たちを勇気づけたであろうか。

卒業式まで,あと3週間余り。もう1つの「荒れ」の顕著な学年である6年生が,この小学校を最後にする日まで,もうあと1カ月もない。

彼ら/彼女らが進学する中学校の様子も以前観察しに行ったことがある。隣接する分譲住宅地を校区とする隣の小学校をはじめ,計4つの小学校区を抱える中学校である。そのなかで,この小学校は最小勢力

授業時間も休み時間も教室の片隅でじっと一人で息を殺して身を固くし,時間が過ぎるのをただ待つだけであるかにみえる,そういう生徒と,もはや授業時間に校舎内に入ることすら拒絶し,もう大人になったその体でまき散らす「荒れ」の凄みと仲間以外は何ものも寄せつけようとしない攻撃性とを身にまとった生徒たちの姿が,気になった。

高校に進学するチャンスが閉ざされた彼ら/彼女らに,この国が保障した教育の機会はたったの9年間。

この日の終わりにかすかに見えた子どもと教師の間に結ばれたほんのわずかの信頼関係の痕跡を,「希望」という言葉で呼ばずして,一体何を希望に毎日の実践に取り組んでいけばよいのか。

そういう教育の現場を目にしている。

しまった。東大社研の希望学プロジェクトには乗り遅れた(違

そんなわけで,久しぶりに自分のブログに帰ってみた。ツイッターにも飽きてきた頃だというのが正直なところだがw,思いがけず読んでくださっていた人がいることも知り,再開することに決めた。「また始めてくださいよ」と言ってくださるのがもしも「研究者」だったら聞き流していたところだが,そうではなかったので,それも理由だ。

学術論文にはならないが,伝えておきたい話というのは,たしかにある。そして,140字の細切れでは,形にできない思いもある。

このブログ,ゆっくりと再開していきたいと思いますので,のんびりと,おヒマな折にお付き合いいただけると幸いです。