生活変動仮説

中川清『日本都市の生活変動』(勁草書房,2000年)の生活変動仮説。冗長にはなるのだが,私はいちいち生活構造‐変動仮説,と呼び直す。環境変動への抵抗の枠組み(=生活構造)が析出されて‐そののち‐その変動の軌跡がトレースされる,のであって,単なる生活様式や生活水準の変化ということとは大きな落差があるからだ。概念の論理構成上。

さて,その歴史方法論の戦略性の所在は,

近代以降の日本の生活においては,構造的な安定性をほとんど見出すことができなかったという事項がある.むしろ,近代という異質で強烈な環境にたいして,不断の生活対応を積み重ねてきたという印象が強い.生活構造という概念が想定されるのは,変動過程における生活に固有の対応を明らかにするためのものであり,安定した実体的構造を確認するためではないのである.この事情は,近代を異質な環境として受け止めざるをえなかった日本を含む大多数の地域に共通する経験ではないだろうか.(序2頁)

最後に,生活変動の担い手の性格がある.これまでのトーンから明らかなように,生活変動は集合的な表象であり,そこではすでに,われわれという担い手が想定されている.・・・この限りでは,生活変動とはわれわれに共通の経験であり,生活変動を振り返ることは,この共通経験を見出す作業でもある.・・・(中略)・・生活変動を振り返ることによって,われわれに共通の経験を受け止める道筋を探りたい.その先に確かな見通しはないのだけれども,われわれという想定を,日本の生活変動の描出によって,その限界まで使い尽くしてみたい.(序3頁)

といったところにある。言い換えれば,

日本で生まれた生活構造論さらには生活学が,・・・・・・そのタイトルからして欧文への翻訳が困難であり,また方法的に十分には体系化されていない弱点をもつけれども,本書では,主として生活構造論の姿勢を引き継いで,記述概念としての生活変動を分析的な仮説にまで仕上げることを目指したい.(2頁)

生活変動の記述がそのまま,十九世紀末の「下層社会」から一九七〇年代後半を頂点とする「中流社会」へという日本社会の変化に照応することになる.日本というローカルな社会の近代化にとっては,そこでの生活変動が想像以上に大きな説明力を発揮するのである.このような事情を,後発地域の限界としてではなく,一つの典型的な経験として受け止め,生活変動を分析的な説明概念にまで鍛え上げることが本書の課題である.(3頁)

しかしこれはあまりにアクロバティックな挑戦なのであって,重要なアキレス腱がここにはある。

――「生活変動の担い手」とは,一体どこに実在するのか。

この点については著者も十分自覚的ではあって,

この変動仮説には,いくつかの前提と留意点がある.(6頁)

第三に,生活変動の担い手の問題がある.ミクロの生活構造論における適応過程は短期間であり,その生活主体を実体的に想定することも不可能ではなかった.ところが一〇〇年をこえる生活変動の担い手は,当然に不連続で切断されてしまう.したがってここでは,近現代という環境にたいする固有の生活対応を見出し,その度ごとに対応の主体を事後的に想定する.もちろん,過剰反応ゆえに急速な構造形成が可能となり,構造形成ゆえに構造抵抗が引き起こされるという連なりは存在するが,生活変動の担い手は,それぞれの対応主体を結果的につなぎ合わせた形にならざるをえない.そこでは,生活変動が集合的な表象として浮上し,その担い手はわれわれという性格を帯びることになる

「生活変動の担い手」は構成概念であり,「集合的な表象」である。「実体」はない。しかし,では一体このテクストは,何に拠って何を描くことになるのか。

難物である。

だが,それゆえの魅力というのもまた抗い難いことは事実である。この感じ,いつか経験したあの感じと似ているな,と思ったら,はじめてブルデュを読んだ,あのときの感じ。

そう言えば,本書に先立つ著者1本目の博士論文の刊行版『日本の都市下層』(勁草書房,1985年)の「はしがき」には,

生活構造論は,誤解を恐れずにいえば,近代科学の中の少数派である。近代の社会科学は,断念に似た形で実体を与件とすることによって,形態が実体を包み込む仕方を体系化した体系のリアリティは,与件として排除したものを,忘れずに意識する程度にかかっていた。現代の新たな試みは,忘却に対して記憶の存在を突きつけることである。生活構造論はどちらにも与しない。比喩的にいうなら,忘却の中でこそ思い出せる何かを見つめようとする,生活にこそふさわしい方法なのかもしれない。

と詠じる。

1947年生まれの著者は,本書のあとがきで,「思い返すと,『生活』という言葉を,独特の意味を込めて使っていた日々があった。1960年代後半,20歳前後の時期を,同じ思いで過ごした友人たちへの,まわりくどい近況報告でもある」(403頁)と告白する。

当時の大学,知的世界。

「もう30年近く前のことになるだろうか。『生活構造論の構想』という修士論文では,何度も資本主義にたいする『生活独自の主体的対応史』と書いた記憶がある」(『日本都市の生活変動』「あとがき」455頁),と著者が語るとき,そこで賭金とされた「生活」「生活構造」といった概念は,ブルデュ理論の賭金(の一つ)となった「あれ」と,おそらくは相同の位置を占める(のではないか)。

違うんだけれども,似ている。その射程も,限界も。理論としての妖しさも,それゆえの魅力も。

日本都市の生活変動

日本都市の生活変動

日本の都市下層

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