いまどきの「AO入試」事情で考えてみた

私の前任校は地方・無名・小規模・私立大学という「悪」(?)条件がいくつか重なっている割には,主に教員採用を中心とした就職実績の堅実さから,高校の進路指導主事の先生方からの信頼が厚く(←これ重要。ただし,この大学のことを知ってくれてる高校限定...orz),受験生からの支持を安定して集めており,入学者確保には比較的苦労しないで済んでいる大学であった。したがって,入試方式も「一般入試」「センター入試」「推薦入試(公募・指定校)」しか実施しておらず,「AO入試」というのは導入されていなかった。だから,私は日本の大学のAO入試の実態については現本務校に至るまで,実はかなり疎い。

そんなわけで,世界に冠たる日本の大学入試多様化の極北において,昨今,「AO入試講義型」という入試形態が誕生していることを,twitter経由でつい最近知ったばかりである。

いやこの辺り,ウェブ上で少し掘ってみただけでも,「講義型」にとどまらず,「レポート型」,「セミナー(ゼミ)型」,「実習型」など,複数の形態がすでに普及・定着しつつあるようだ。しかし,これらの入試形態には一貫して「大学入学後の学習形態を実際に体験させてみて,そのパフォーマンスを〈選抜〉の材料にする」というポリシーが共通している。「講義」「レポート」「ゼミ」「実習」......などは,大学教育のどの局面を体験させるか,の差異でしかない。

〈選抜〉とは書いてみた。しかし,これらAO入試を導入している大学のうち一部(あるいは,かなりの部分)は学生集めに苦慮する側面があることも事実であって,これら入試形態がどの程度実質的な〈選抜〉という性格を帯びているかについては当然疑問の余地があろう。しかし,以下にみるように,この入試方式に潜在している政策上のインプリケーションには,まさに〈選抜〉が利かなく(不合格者を出せなく)なっている大学入試という〈選抜〉の契機それ自体を捉えなおす理論的なポテンシャルがある。

これらAO入試諸類型について,ある大学の「講義型」を例にして簡単に素描しておくと,(大学によってかなり濃淡の違いもあるようだが)基本的には,受験生を集めて実際に当該大学の教員が「講義」を行なう→受験生は受講して「ノートをとる」→「清書ノート」を作成して提出する→提出された清書ノートをもとにして講義についての質問も含めた面接(面談)を行う,といった手順を踏んでいる。この場合,入試は一日がかりだ。

「レポート型」の場合は,1回目の面接(面談)でレポート課題が出され,一定の期間をおいたのち提出されたレポートをもとにした面接(面談)が行われて評価される。この場合,当然試験期間は一定の日数がかかることになる。

「セミナー型」を採用している他のある大学でも同様に,2日間,自分が志願している学科・コースのゼミを受講し,2日目にはレポートなどの課題を出され,1週間後に課された課題の提出・発表・確認テスト等が実施され,それが評価される。これもまた1週間以上の時間がかけられている点がポイントだ。

どの程度の「手間暇」をかけるかは大学ごとにかなり温度差がありそうだが,基本的なフォーマットはこれらに尽きている。繰り返すと,大学入学後に実際に経験することになる大学教育の諸局面の一部を取り出したシミュレーション状況を設定して実際に体験させ,その際のパフォーマンスを選抜の資料に用いる,という方式である。

私見では,こうしたAO入試諸類型は既存の日本の大学制度を所与として,ある種の入試効率化を目指していくと辿りつく地平であるように思われる。これらを概観して,またぞろ「やれやれ最近の日本の大学ときたら」とやらかす人間こそわかっていない。これは大変に面白いインプリケーションが潜在している現象である。

これまで日本の大学は選抜の厳しい入学試験が入学生の質を保証する装置として「それなりに」機能してきた。ところが,昨今の大学設置の規制緩和と急速な少子化の進展は,選抜装置としての入試の実効性を削ぐことになった。ペーパーテストはもちろん,面接や書類選考,その他どのような工夫をこらしても,入学時点で「身につけておいて欲しい」特性を有する学生を選抜することができない(「入試」というものの定義上,実は当たり前のことなのだが)。だったらもう「講義/ゼミ/実習etc. を受講することそのもの」を選抜材料にしてしまえ,ということだろうと思う。

現在は「1日」「1週間」といった比較的短期間の時限選抜であるが,選抜の「精度」がまだ不十分だからと,この「入試に要する時間」を徐々に伸ばしていく(容易に仮想できる事態)とすると,これらの試みは一種の(雇用における)「試用期間」と同種のものへと近似していくように思われる。すなわち,「学生」としての「試用期間」。

さらにこの「試用期間」の発想を延長していくと,いっそのこと入学希望者は全員,「無選抜」で「全入」させて,そのかわり入学させてからの「教育」と「評価」は厳格に行い,留年・退学もじゃんじゃん出す,という大学スタイルへと収斂していく方向性を見据えることができる。進学率が8割を超えているOECD諸国における「高等教育」の発想や,あるいは「生涯大学進学率100%」を標榜する矢野眞和先生の構想などは,これに近い。入試のハードルは最低限度を問うものに限定し,その代わり入学後の「教育」と「評価」を厳格に行うという,国際的にはむしろ「標準的」な「高等教育」スタイル......それでいいのではないかと思う。

「入試」というのは大学入学「以前」の教育成果を問うものなわけだが,それは「大学」にとっては「非専門分野」である。「入試」の厳密性を追求するのではなく(そこへのコストは思い切って削減して),「入学後」の「教育」と「評価」へ資源を集中すべきではないか。それは「大学」の「専門領分」である。

これらAO入試諸類型の試みが非常に有意味だと思うのは,これらの試みが既存の大学入試制度を「改革」しようとして出てきたのではなく,むしろそこへの「最適化」を果たそうとする試行錯誤の末に誕生した,という点だ。既存の制度への「最適化」が結果的に大幅な制度改革につながりうる潜勢力を帯びてしまった,というところ。

ただし,これはあくまで「理論的な」ポテンシャル,すなわち「机上の空論」にすぎない。実際には国際的にみても特異な日本の大学制度の3点セットが,こうしたAO入試の理論的ポテンシャルを仮想上のものにとどめてしまう。

矢野眞和「教育費政策のこれから――『日本的大衆大学』という習慣病を考える」(『IDE 現代の高等教育』2010年5月号)の言葉でいえば,(1)「18歳主義」,(2)「卒業主義」,(3)「親負担主義」の3点セットである。

第一は,自明視された大学入学者の18歳主義。矢野先生によると,

「大学新入生の80%を占める年齢はいくつか」と問われれば、明らかに日本は、18歳だろう。ところが、アメリカでは、80%に含まれる新入生の最高年齢は、26.5歳。言い換えれば、新入生の20%が26.5歳以上になる。この80%基準の新入生年齢でみると、フランス26.6歳、イギリス25.2歳、ドイツ24.1歳。北欧になるとさらに高年齢で、フィンランド26.6歳、デンマーク28.3歳。スウェーデンノルウェーは40歳を越える。

だそうだ。

日本で現役・1浪・2浪といった違いが過剰な意味をもってしまっているのは,日本の教育制度が「一度きり通過」の儀式になっていて,最初に教育制度を通過するときの成果が一生ついてまわるからである。言い換えると,教育制度と労働市場との間の硬直的・一方向的な接続関係が「18歳主義」の背景にはある。他国の大学という場所は,もっといろんな年齢の(したがっていろんな背景・経験を有した)学生集団が混在して学ぶ場所だということだ。近年の日本の学生の「多様化」を憂うる大学教員も多いが,むしろ憂えるべきは日本の学生の多様性の「なさ」なのではないか。

第二は,自明視された中退なき卒業主義。再び矢野先生によると,

日本の修了率は、91%。世界で断トツの一番。OECD各国の平均、およびEU加盟19カ国の平均は、71%。イギリス78%、ドイツ73%、アメリカ54%などとなっている。80%を越えるのは、韓国とアイルランドの83%だけ。自慢できる一番とはいえない。むしろ、恥ずかしい。

だそうだ。

「恥ずかしい」理由を矢野先生は明記していないが,当然,「大学における教育評価が杜撰」ということを意味するからであろうというのは想像に難くない。で,このポイントこそ,先に述べた「AO入試の理論的ポテンシャル」を仮想上のものに押しとどめる。「教育」と「評価」を厳格に遂行するためには,ふつうに「中退」が出せなきゃならないわけだから。

第三は,教育費の親負担主義。三度やのっちによれば,

私費負担が大きいのは周知のことだが、日本の費用負担の性質を理解するためには、「親負担主義」と表現しておくのが適切だと思う。同じ私費負担でも、親の負担と学生本人の負担では大違い。本人がアルバイトや奨学金によって授業料を支払う場合もあるが、実際に負担しているのは、親であることが多いし、わが子のために親が無理をしているところに日本的家族主義が顕著に現れる。

というか,ヨーロッパの大学の多くは授業料の私費負担が(ほとんど)ない。そして,「入学金」などという奇妙奇天烈な名目のお金を巻き上げられることもない。

この第三の「親負担主義」こそ,3点セットの「日本的大衆大学システム」を基底で支える要である。大学授業料が親の負担だからこそ,せいぜい「18歳ぐらい」までと観念される「親負担の期限」が大学進学のタイムリミットともなる。親の援助で進学しているからこそ,学生は何としても無事卒業しなければならないし,大学側は「真の顧客」であるところの親の要望(=無事卒業&就職)に背くわけにはいかなくなる。教育成果が芳しくないからと「中退」をおいそれと続出させるわけにはいかないのである。その大学の「中退率」は教育・評価の厳密性を示すプラスの指標ではなく,「面倒見の悪さ」というマイナスの指標となってしまう。

以上の三つの特質は、誰もがよく知っていることで、何も大げさに指摘することでもないほどだ。しかし、日本の大学のこうした暗黙の前提は、国際標準からみて大きくずれている。にもかかわらず、深刻に議論されることもなく、大学改革の対象として取り上げられることもない。歪みが指摘されることがあっても、是正できない事柄だと決め込んできた。

基礎学力を欠いた学生や学ぶ意欲のない学生を前にして、茫然と立ちすくんでしまう現実を嘆けば、「基礎学力に欠ける学生を入学させる大学が間違っている」「学位に値しない学生は卒業させる大学が間違っている」「退学させればいいではないか」と言われるのが世間の通り相場だ。入学の選抜基準を強化し、成績評価を厳格にすればいいのだが、自明視された中退なき卒業主義は、親負担主義を前提にしている限り、そう簡単に変わらない。

ここから矢野先生の「生涯大学進学率100%」に向けた制度設計の構想は,まずこの「親負担主義」から学生を「解放」することへと向けられる。その先に現れる理想の大学・学生像とは,「明るく中退,元気に復学」というスローガンが「標準」として実質化された大学・学生である。

詳細は本論文を直接参照されたい。

さて,このような「日本的大衆大学」システムのもとでは,学生(というか親)の大きな私費負担で大学が運営されている以上,「中退」者を出すことは経営上=経済合理的にありえないことになる。自ら「顧客」を放擲することになるからだ。したがって,「学力不足」の学生でも極力入学可能なオプションを用意し(「顧客」カテゴリーにカウントするための工作),一旦「顧客」として受け入れた学生はなんとか「卒業」までもっていくための涙ぐましい努力が営まれることになる。

AO入試で入学してきた学生に対する「呪詛の念」がときに大学教員によって語られることがあるとすれば(いやあるのだろう),それはこういった背景を基盤とする。

そこでもう一つ,本エントリで紹介したいくつかのAO入試諸類型の有する重要な意味が浮上する。それは,これらの入試形態が,受験生を選抜する局面そのものに「教育」(=社会化)の機能を埋め込むことを意図している,という点である。

先に紹介した「講義型」「レポート型」を実施している大学のホームページでは明確に「入試からはじめる教育」というキャッチフレーズが打ち出されている。

[講義型/レポート型の;引用者]どちらの入試方法も丁寧な面談を通して一人ひとりの個性を受けとめながら、大学での学びにつながる指導をしていきます。

先生の講義を聴いてポイントをノートに整理したり、疑問に思っていることや関心を持っている事柄について調べてレポートを作成することは、大学で学ぶ上では重要なことです。

○○大学では、AO入試を通して大学で学ぶために必要なスキルを身につけてほしいと思っています。その意味で、「入試からはじまる教育」という○○大学の入試の特徴を最もよく表しているのがこのAO入試です。

これまで教育社会学は,一見すると選抜を意図していないかにみえる日常的・継続的な教育実践・教育活動のなかにいかに「選抜」の契機が埋め込まれているかを暴くことに専心してきたし,それなりに成果もあげてきた。

だが,逆に,「選抜」の制度や実践のなかにこそ「教育効果」(社会化の機能)が埋め込まれているという側面もある。ふつうの「教育学」的には,「評価のときこそ最大の教育(大意)」とかいう言い方がむしろ一般的であるわけで,「評価」の極みたる「選抜」の局面で働く「教育効果」はもっと分析の焦点とされてよいことかもしれない。

企業における「選抜」局面であるところの,悪名高き「新卒一括採用」にも一定の合理性はある。求職側・求人側とも必要な情報がどこかの一点に集約されているほうがコストの節約になる。ちょっと前まで社会常識に欠けている風情だった「イマどき」の学生がみるみる「サラリーマン」っぽくなっていくのも(いいか悪いかは別として),一斉に就活を始める周囲の友人や面接での企業人との接触を通じた(予期的)社会化によって,そのような短期間での大幅な変化がもたらされるという側面は大きい。

だから大学も,入学者予備軍を「学生」たるにふさわしく(予期的)社会化を果たしたいなら(なにせ一旦入学させたら最後,なかなか「中退」はさせられないのだ),選抜の局面にその機能を埋め込むのが合理的だ。以前なら筆記学力試験がその機能を一手に引き受け,それ以外の資源を投入する必要がなかったが,上述したように,今日それだけでは「学生」たるに必要な資質の確保は困難になった。もっと直接に「教育」効果を組み込みたい。

単なる書類選考止まりの凡百のAO入試の弱点は,それが入学者に要求したい特性の「選抜」に寄与しないこと(だけ)ではなく,その選抜の契機に,そうした特性を身につけた「学生」に向けて受験生たちが(予期的に)社会化を果たしていくという機能が十分組み込まれていないところにある。AO入試に向けられる「呪詛」の出所はそこではないか。自分たちがAO入試を単なる入学者の青田刈りの手段としてしか見ていないことの反映ではないのか。

入学難易度の低い大学になればなるほど,そしてそこで一般入試を「回避」してAO入試の活用によって入学してこようとする学生ほど,「大学一世」である可能性が高いのではないかと推測する(←要エビデンス)。ということは,およそ想定しうるかぎり,もっとも「大学」の学習スタイルから縁遠い学生がそこから入学してくるということだ(あと指定校制の推薦入学というのも要検討ではある)。

旧来型の筆記学力試験の問題作成には多大のコストがかかる(大学教員には周知のとおり)。現在の「日本的大衆大学」システムのもとではある種の「弱点」を抱えてしまうAO入試にもこれと同等の社会化機能を埋め込みたいなら,それ相応のコストをかけなければならない。そこででてくるのが,大学入学後の学習活動のシミュレーションそのものを選抜材料にするという手間暇かけた方式ではないだろうか。そこに「高大接続」の問題への対処も狙った「事前教育」の仕掛けを埋め込んでおくのである。

もちろん,現実には「選抜」が十分働かない(そんなに多くの不合格者を出せない)という切迫した大学側の事情があって,入試の局面に事前教育の効果を期待したい,ということでもあるだろうし,さまざまな「困難」がそこにはあるだろうと推測する。だが少し引いて観察すると,「日本的大衆大学」システムが産み落とした「日本的AO入試」の現状は,いくつか根本的な検討事項をわれわれに提供しているようにも受け取れる。

先日来,機会があって「高等教育学会が実務者ばかりになってきてどうも」といった言葉を幾度か耳にした。よくは知らないがそうなのかもしれない。だが,実務レベルのリアリズムが生み出した試みに潜んでいる理論的なポテンシャルを引き出すのは「学者」の仕事ではないかと思うし,そのための材料としいうのはむしろ実務レベルからこそ生み出され続けているのではないのだろうか。

日本の高等教育システムというのは,研究者にとっては世界にも稀にみる面白い研究対象ではないのかな,と無責任な素人は勝手に思う。

ちなみに,↑上で「○○大学」と伏字にした大学,実は埼玉県にある 聖学院大学 という。この大学,失礼な言い方になるかもしれないが,正直一般にはそんなにネームバリューのある大学ではないのではないかと思う(私の前任校と同様に)。だが実は,わが家は以前からこの大学のことを存じ上げている。うちの奥さんの前の職場に,ここの学生さんが実習だかボランティアだかでよく来られていて,必ずしもお若い学生さんへの評価が甘くはない,うちの奥さんをして「いい学生さん」と評させるほどの大学であった。

ホームページに行けばわかるが,入試に関しても「この数字まで出しますか」という数字を公開している。私も地方・小規模・私立の大学にいたから,それがどういう意味をもった行動かというのは,それなりに肌で感じる。こちらの大学では「レポート型」」が2000年から,「講義型」が2006年から導入されているらしい......という情報も,この大学の広報課が開設されているツイッター・アカウントへ質問してみたものに回答いただいて得ることができた。

なかなか侮れないですぞ。>有名大学しか眼中にない世の賢人どの。

とか書いたまま下書きを寝かせていたら,衝撃の事実wが再びツイッター経由で入ってきた。本ブログにも何度か登場されている金子良事氏は,現在こちらの非常勤として教壇に立たれているらしい。世間狭っ!! というか,さすが聖学院さん,講師のチョイスもなかなかですな。

もうひとつ。「AO入試への呪詛の念」をお吐きになっている大学教員どのに対しては,「AO入試で入ってくるやつらに入学してから嘆くんだったら,AO入試そのものに自分が欲する学習習慣や自分が考える学習の意義を教育するようなプログラムを組んで提案したらどうっすか?」と語りかけてみることにしよう。

「うるせえよ,文句言うんならとっとと“不可”にすりゃいいんじゃないの?」というのが日本的大衆大学システムの片隅で禄を食む彼らには酷な言葉であるというのなら。