教社学会9月。

ちなみに前回気持ちの悪い切り上げ方をしていたが,前エントリででてきたアケミ(仮名)さんは,そのときの修羅場はなんとか乗り切って退学にならずに済んだ。お母さんが親戚中走り回ってお金を工面した。その後どうなったかは確認していない。私は自分の「現場」にどっぷりつかることになって,その高校の先生方との付き合いも深まらないまま職場を変わることになったから。高校無償化,私学の学費軽減政策が当時にあったなら,と思わないでもない。

↑前回の補足。

で,ちょっと各方面に対して申し訳ないことになりつつある私である。すでに16日の研究会は「無事に出席する」というところに目標が切り下げられつつある。いや,ちゃんと12時には必ず行きますんで,最低限,それだけはきっちりやりますんで(準備もしていきますんで)ご安心を。>各方面。

夏前半に少し飛ばした日程を消化していった反動なのか,「疲れて文字が読めない」という今迄にない(そして学生がそんなこと言ってきたら,なに怠けたこというとんじゃゴラァ,とか思わず言ってしまいそうな)状況に陥っている。むしろパソコンで文字を打つほうが大丈夫だという状況だから,そこだけは締め切り祭り開催中の8月にあって,なんとか一命をとりとめている。

んでちょっと近況報告をかねて。

9月18・19日に関西大学で開催される(「若手研究者交流会」というイベントは17日(金)に開かれます)日本教社会学会に発表エントリをいたしました。なんで国内学会報告ごときをわざわざ書くかというと,「理論」部会に初エントリしたからです(正式部会名は「理論・研究法」)。18日の最後の時間帯にあります。

現在私も参加しています通称・広田理論科研では「教育社会学会の理論部会にテコ入れするぞ(大意)」ということが大将の目標の1つに挙げられていた気がしましたので(幻聴かもしれませんが),バカ正直にエントリしたという。それ他の班の仕事なんちゃうん?というのは後で気がつきましたが,まあ一度くらいいっか,と。

しかし同じ部会の発表題目の流れを見てみますと,意外といい感じに1つの流れができてるような気がしますので(幻覚かもしれませんが),楽しみにしております。

題目は「「個別化・個性化教育」再考」と申しますが,これ,発表要旨っつうのは事前公開不可なんですかね?>学会関係者。むかしっから思ってたんですが,学会に行ってそんときに発表要旨集(しかも教社のは電話帳みたく分厚い)渡されて,さぁーどれに行く,ってめちゃくちゃ非効率的だと思ってたんですけど。国際学会とかだとすでに完成したペーパーがオンラインでダウンロードできるようにしておきますよね(少なくともそういうところありますよね)。個々の報告者はもう書きあがってるんだから,じゃんじゃんネットで事前アップしといたほうがオーディエンスも予習バッチリで無駄なやりとり割愛して当日議論できる気がするんですが,そういうことにはなってない?

ちょっと私的な研究会とはまた違う大人の事情が挟まってそうなので全文アップは(念のため)いたしませんが,発表の目的は,

この先駆的運動としての「個別化・個性化教育」の理念・実践を「教育可能性に向けたテクノロジー」の昂進として捉える立場から,教育における自由・平等・管理といった古典的問題系のもとで,教育社会学の問題設定そのものを捉えなおすための理論的な潜勢力を(再)検討する。教育の「自由化」「個性化」は必ず「教育の格差」を拡大させるのか,相対的な「格差」に分析が焦点化されることで等閑に付される問題はないか,理論的に照準すべき課題はどこにあるか。

といったあたりに置きつつやります。もしよろしければ,ぜひ。このあたり,7月に書いていた文章と8月に書いている文章とでは,すでに理論的(?)な認識も大幅に変わっているというぐらい自分の中でも書きながらグラグラしてる部分をそのまま論題にしております。以前の自分ならちょっと考えられない行動の変化ではありますが。

ところで!

ここから約1名のためだけの事務連絡。

「個別化・個性化教育」あるいはオープンスクール教育というテーマについて私に個別に連絡をしてきた経験のある,あなた!

あなたはたぶんここ→http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20100213/p1 を目にしてご連絡くださったのだと思いますが,そして,とりわけそこの「必要な研究は,多くの研究者が協働して豊かなものにしていくべきだ。そういうのを「研究者共同体」とよぶ。建前であっても幻想であっても,建前や幻想こそが重要,な局面というのは,ある」という言葉にのっかってご連絡くださったのだと思いますが,その後の経緯を鑑みるに,あなたは2つの勘違いをされている可能性があるので,老婆心ながら一言添えます。

1つは,「研究者共同体」の互助互恵の理念を所与のものとして共有したとしても,具体的な関係をつくりあげていく際には,踏むべき手順,というのはあると思います。私が申し上げたいことの1つ目は,一言でいうと「順番が違くない?」ということですね。

もう1つは,しかし,そのご連絡に対して私が返信さしあげた提案は,ふつうに考えて,あなたからの要求以上のものを提供する準備が私にはありますよ,というメッセージのつもりです。

まあ私としては実のところどうでもいいんですが,他の院生レベルの方にも知っておいて貰ったほうがいいと思うような内容なので,個人が特定されない範囲で,この場でご連絡差し上げます。

ところで,教社の理論部会であった。

その昔,80年代後半から90年代初頭にかけてなんだろうか(その当時の話は私にとってもすでに「歴史」である),教育社会学会の理論部会といえば森重雄さん,という時代があった(らしい)。森さんの発表の時だけオーディエンスが膨れあがる,みたいな? ちょうど東大で助手をされていた時代にあたるかと思う。伝説の(?)紀要論文を発表されたのも,この時代だ。

森重雄さんの仕事はきちんとした歴史的評価が加えられていいものだと思うし,もうそういう時期に達しているようにも思う。ただ,“そういう風”に扱うのだとしたら,中途半端な扱い方は不毛だ。森さん個人のその後の紆余曲折まで含めて,森さんが直面せざるを得なかった困難というか陥穽というか,そういうものを浮き彫りにするまでの覚悟がないなら,やめておいてほしい。

そういう意味では以前の稲葉さんのエントリには多く含みがある。ぜひ本格的な論考にまで発展させられたい。

念のため申し添えますが,今回の私の報告は森重雄さんの諸研究とは一切関係がございませんw 「ポストモダン」から遠く離れて考えます。いや「ポストモダン」ってなんやねん,って話ではあるが。