交錯するパラドクス(4節1項)――職業訓練論が提起する「非教育の論理」との対話

ちょっと4節は分量もありますし,1項はテクニカルな話も入るので,細かく刻んでアップします。8月7日(土)に明治大学で開催される「非教育を考える懇談会」予稿集に寄稿した文章,3回目の今日は4節の第1項のみ。参考文献の全体は最終日に。今日は関連するものだけ。

交錯するパラドクス――職業訓練論が提起する「非教育の論理」との対話

1.田中萬年氏の「非教育の論理」
2.やや外在的な違和感
3.論点(1):「個の尊重」と「自発的な学習」の重視
 3−1.「教育」という思想の危機のなかで
 3−2.「自発的な学習」の「強制」というパラドクス
 3−3.テクノロジーの進化とパラドクスの深化
4.論点(2):「人権としての職能形成」の保障
 4−1.「職能形成軽視」の歴史的背景に対する教育社会学の視角
 4−2.佐々木輝雄と「教育の機会均等」のパラドクス
5.さらなる対話のために
[参考文献]

4.論点(2):「人権としての職能形成」の保障

4-1.「職能形成軽視」の歴史的背景に対する教育社会学の視角

むしろ,田中萬年氏の問題提起が有する今日的意義は,現代日本の教育・訓練制度の総体において「人権としての職能形成」という視点が無残なまでに閑却されている事実を抉出している第二の論点にこそ見出されるべきである。とりわけ中等教育において普通教育偏重,職業教育・職業訓練軽視の流れが生じたその根源に日本的な「教育」の誕生・利用・普及をみる田中氏の所論の要諦であるのみならず,今日の若年失業・非正規雇用化の問題を考えるにあたり喫緊の現代的課題を射るものでもある。

戦後日本で「普通科」高校への「全入」が社会的に目指され,その顕著な増設を経た今日,新設ゆえに高校間格差構造の低位に組み込まれる普通科高校,あるいは地方の私立・普通科・すべり止め・「底辺」高校――それは教育社会学の知見によれば出身階層上の不利を抱えた生徒が集まる高校でもある――において,「人権としての職能形成」を保障されることなく社会に出て行かざるを得ない若年層の問題が噴出しつつあるからである。これは日本的な単線型学校体系の制度化プロセスと機能の歴史的意義を問うことにもつながる。

田中氏は日本の「職能形成」軽視の根源に,「悪性も宿して」誕生した「教育」の論理が,日本的な単線型学校体系のいわば「制度理念」として社会的に普及・定着したという要因を強調する。しかし,見方を変えると,職業訓練が教育・訓練制度のなかで厚みをもって位置づいているヨーロッパ諸国の多くは,いずれもなんらかの形で複線型/分岐型教育制度の痕跡を今日まで残していること,したがって,近代以降の身分制の否定による学校教育の制度化のプロセスで十全な単線化を果たさなかった/果たせなかった社会であることが指摘できる。その複線型/分岐型学校体系は,身分制に胚胎し自生した諸教育機関が,近代産業社会への移行と近代的階級の形成・拡大ののちに連結・接続され,既存の階級社会の「再生産」装置として体系化された歴史的経緯の惰性を現在に至るまで引きずっているともいえる。

重要なことは,それらヨーロッパ諸国では近代的な階級形成が果たされたのちに学校制度の体系化が進展するという歴史的経緯を経験したのに対して,日本では学校制度の体系化による近代階級社会の形成という課題を自覚的に追求しつつその制度化プロセスが人為的に,しかも非常に短期間で遂行されたという点である。学校教育がすでに形成された階級社会の「再生産」装置である以前に,近代的な階級社会への移行そのものを学校教育の体系化によって進展させることが企図された,階級形成の装置であったという点である。

歴史的なアプローチを採用した日本の教育社会学はここに注目してきた。多くの研究蓄積が言及してきた個々の歴史分析の詳細を思い切って要約すれば,日本の特異性を生み出した要因として重要だったのは,近代化から戦後・高度成長期におよぶ間の教育機会の構造と職業機会の構造の変化の同時性(タイミング)と趨勢加速(スピード)という要素である(苅谷2001,菊池2003,園田1993,竹内1995などの諸研究)。

「いずれの産業社会においても出身階層による教育達成の格差は残存し続けており,日本もその例外ではない,にもかかわらず,日本の場合そうした教育における階層的不平等の存在という問題が社会的に捨象され,いわゆる“受験競争”“試験地獄”といった学歴取得をめぐる競争状況が大衆的規模で普遍化した,それは何故なのか」という問い。「人間形成」のプロセスがひたすら社会的上昇移動をめざす手段として観念され,それが階層を問わずに普遍化したところに,欧米とは異なる日本の「特異性」がある,というのである。人びとの教育選好は「社会的上昇移動」の可能性との函数となり,したがって教育制度上の「袋小路」化から最も遠くなる(と観念される)普通教育課程への選好へと傾斜する。それに対し,職業訓練・職業教育が適切に位置づいている「欧米」の社会では,普通教育中心のアカデミック・ルートに人が殺到するという「マス競争状況」は発生しない。

学校教育が階級「再生産」の装置である以前に新たな産業社会の階級秩序「形成」の動因であった日本では,特定の教育機関/教育段階が,特定の身分/階級の文化的社会的「占有物」であるとする観念の成立する余地が極めて小さかった。「欧米」の学校文化とりわけアカデミック・ルートで「正統」とされる知識・文化が上流/上層中産階級の階級文化によって構成されることによる「排除の論理」が作動するのに対し,近代日本のそれは旧来のどの身分/階級集団にとっても「異質」な「西洋」文化であった。その限りにおいて,正統的学校文化はいずれの身分/階級からも「等距離」にある階級不偏的文化であると観念された。

裏返せば,「欧米」では非アカデミック・ルートにもその制度化のプロセスに先んじて数世代にわたる世代的再生産をとげていた自生的な階級文化が対応しており,その人格形成機能を「評価」するオルタナティヴな価値が社会的基盤をもって成立していた面は重要である。他方,近代日本では「労働者」の「階級脱出」志向の強さはつとに指摘されてきたところであり,社会学の社会階層・社会移動研究の知見によれば,20世紀末の現代に至るまで,日本社会において最も世代的再生産傾向が弱く,流動性の高い階級が「労働者階級」(工場労働者)である。そのことが「欧米」の産業社会と比して日本に顕著な特徴であることが実証されている(石田2000,2002など)。

労働者としての「職能形成」のルートを評価する文化的培養基が不在であること,世代的再生産による醸成を経た階級文化的基盤を有さないところに,「職能形成の軽視=普通教育偏重」の一つの要因がある,というのが教育社会学の知見が示唆するところである。そのことが「普通教育」へと殺到する「マス競争状況」をもたらし,他方で「学校間・学科間格差構造」の成立と進学準備教育へと傾斜した「学校教育の空洞化」の進展を加速させてきたのだ,と。

(以下,4節2項以降につづく)

石田浩(2000)「産業社会の中の日本」原純輔(編)『日本の階層システム 第1巻:近代化と階層』東京大学出版会, 219-248頁。
石田浩(2002)「社会移動から見た格差の実態」 宮島洋・連合総研(編)『日本の所得分配と格差』東洋経済新報社, 65-98頁。
苅谷剛彦(2001)『階層化日本と教育危機』有信堂。
菊池城司(2003)『近代日本の教育機会と社会階層』東京大学出版会
園田英弘(1993)『西洋化の構造』思文閣出版。
竹内洋(1995)『日本のメリトクラシー東京大学出版会