交錯するパラドクス(3節)――職業訓練論が提起する「非教育の論理」との対話

8月7日(土)に明治大学で開催される「非教育を考える懇談会」予稿集に寄稿した文章です。2回目の今日は3節。5回の連載のなかで,ここが一番分量的に膨らんでしまいますが,3項に分かれていますので休み休みご笑覧ください。

交錯するパラドクス――職業訓練論が提起する「非教育の論理」との対話

1.田中萬年氏の「非教育の論理」
2.やや外在的な違和感
3.論点(1):「個の尊重」と「自発的な学習」の重視
 3−1.「教育」という思想の危機のなかで
 3−2.「自発的な学習」の「強制」というパラドクス
 3−3.テクノロジーの進化とパラドクスの深化
4.論点(2):「人権としての職能形成」の保障
 4−1.「職能形成軽視」の歴史的背景に対する教育社会学の視角
 4−2.佐々木輝雄と「教育の機会均等」のパラドクス
5.さらなる対話のために
[参考文献]

3.論点(1):「個の尊重」と「自発的な学習」の重視

3-1.「教育」という思想の危機のなかで

しかし,より重要なのは,ある種の既視感のほうである。宮坂論文においてもっとも明示的に扱われているが,田中氏の問題提起の第一点(個性の尊重と自発的な学習の重視)については,むしろ戦前から同様の論点を強調する教育言説・教育思潮が連綿と受け継がれてきたというだけでなく,筆者には,それは臨教審において明確化され90年代以降に矢継ぎ早に実現されてきた種々の教育改革の言辞に酷似しているように映る。

「人間形成の営みは個性が発見されるべきであり,その前提として個性の尊重がなければならない」「個人の尊重とは多様性を認めることである」「個性を尊重すれば教育による統制ではなく,個人の興味と関心に基づく学習を保障すべきことが明らかであろう」(47頁),「学習の保障とは,学習内容を為政者の意図ではなく,学習者本人の興味・関心で決めることである」「個性に即した学習であれば意欲も増し,学力も向上するであろう」(48頁)といった言辞は,70年代の「教育の人間化」「生涯学習化」の動き以降,今日に至るまでの学習指導要領のむしろ常套句でさえある。近年の教育改革がもたらす「負の帰結」の危険性を告発することを任としてきた教育社会学者の多くは,これらの言辞に複雑な既視感を覚えることだろう。その限りで『広辞苑』の「第六版への改訂を誘因する教育の“規制緩和”」は一貫して進行し続けていたのであり,宮坂氏の指摘以外の含意も輻輳させつついうなら,その改訂は「遅きに失した」のである。

近代「教育」にある種の強制性が伴うことは事実である。しかし,70年代以降の国際的な「教育」言説の主流は,教育‐被教育の権力関係を批判的に捉え返し,いかにして「学ぶ主体」の自主性・自発性にもとづいた「学習」に向かう意欲と興味関心を引き出すか,という「学習者本位」の視角にたった「教育」の内実の組み換えに腐心してきたのであり,日本もその大きな国際的動向の例外ではない。しかしこのことは,ようやく田中氏の主張する「非教育の論理」が日本にも浸透し始めたと,ようやく時代が田中氏に追いついたのだと,無条件に言祝ぐべき事態だろうか。

「教育されるべきヒト」から「自ら学ぶヒト」への人間観の転換,大人/教師の介入=権力性を否定し子ども/学習者のニーズと自己決定を尊重する方向への大きな転換は,しかし,同時に,何が望ましいかについての判断を当事者に任せる自己選択・自己決定論への傾斜を生み,放置すれば「学びのダイナミズム」への予定調和的な包摂など期待できない子ども――とくに学習環境に不利のある子ども――を置き去りにする結果をもたらした,とするのが,ここ数年の教育社会学が明らかにしてきた知見である。かれらは田中氏とは逆に,「教育の論理」の希薄化――「学習者主体」の「自発性」の過度の強調――こそが,近年の格差拡大の遠因となっている,と主張することだろう。

もう少し広く現代の教育学/教育思想の置かれた状況を俯瞰しよう。70年代以降,「教育」の領域においてポストモダニズム的批判が席巻して以降,そこでは田中氏の所論と同様に,「国民統制」の道具として「教育」を利用してきた国家の側だけでなく,それを批判してきた教育思想の側も「教育」に本来的に内在する不可避の権力性に目をつぶってきたとする厳しい批判の矛先が向けられることとなった。真正の教育的価値/理想/「善さ」をア・プリオリな前提として措定した当為論の基礎付け主義そのものが,「善さ」の多様性や複数性と,そこに内在する矛盾や対立を隠蔽してきたとして批判を受けることになり,「教育」を根拠づけるア・プリオリな普遍的原理が払底した,というのが「ポストモダン」の今日において「教育」思潮が置かれている現実である。

田中氏の問題提起を受けた本書の議論の展開は,何が望ましいかの判断を当事者に丸投げする無責任とも,思想の放棄に居直り当面の所与性――とにかくそこに「学校」があるかぎり「子ども」は毎日やってくる――にのみ依拠する形の「技術」論に堕すこともない形で,人間形成の普遍的原理をいかにして再措定するか,という困難な現代的課題に立ち向かおうとしている。その意味で,職業訓練に定位する視座から投げかけられた問題提起と対峙することで生まれた本書の試行錯誤は,教育学を再構成しようとするフロンティアの営みそのものと重なっている。

一つの方向性は,金子論文や山田論文が提起するような形での「価値」への志向の再提起である。浅学の筆者には読み切れない部分が多々あるのだが,そこで提示される「平和」や「福祉国家」といった理念は,あらゆる価値の相対化を超越して人類の歴史を貫通すべき不変・普遍の根拠として提示されているのか,それとも,そのような時間・空間を超越した普遍的原理としては棚上げにしつつも,現代日本がおかれた個別歴史的な文脈における未来予測を踏まえたうえでの「現実的」な未来構想として提起されているのか。前者であるとすれば,その理念自体が近代の一時期に構築された歴史的形成物であるとする同様の価値相対主義的な批判に対峙すべき思想的課題を抱えるであろうし,後者であれば,現実的な未来構想を具現化させるために必要な制度設計への言及がない以上,少なくとも本書の範囲内ではその妥当性を論じることができない。

木下論文は「教育には目的などなく『国家社会』の手段にすぎないという思想を根本から反省」し,「教育の目的について真面目に考えなければ,もうどうにもならない」(117頁)というが,問題はその「教育の目的」を語ることば(=教育思想)が置かれている如上の状況なのである。

3-2.「自発的な学習」の「強制」というパラドクス

本書の論考の多くは,近代教育思想の基礎をなしてきた「教育」の限界を見据えながら,そのある部分は取り込み,別のある部分は拒否しつつ,人間形成の営為に含まれる関係的な契機へと射程を広げることで教育/学習を語る基盤を再構築しようと模索する。

ここにあるのは,外から誘われることを抜きにして「自発的な学習」の内発的ダイナミズムへの動因を見出すことのできない「学習者」を前にしたとき,「支援」者は――あえて「教育」者は,と言ってもよい――「自発的な学習」を「強制」する,というパラドクスに足を踏み入れざるをえない,というある意味ではごく常識的な〈教育/学習〉の両義性である。そして,その両義性とどのように思想的・制度的・実践的な折り合いをつけるか,という課題である。里見論文はこの両義性を前にして率直かつ真摯なためらいを表明しつつ,ノンフォーマル教育にみられるような「ヴァナキュラーな価値」を救い出す道へと期待をかける。また職人の能力形成を一つの雛型として人格形成を考察する渡邊論文が「強制学習と脱学習」という議論で対峙しようとしているのも同様のパラドクスである。

しかしながら,「ヴァナキュラーな価値」の今日的意義を認めたうえでもなお〈生まれ〉の世界から「強制」的に個人を引き剝がすことが,日常生活の経験のみでは到達しえない高次の世界(認識)への道に繋がっているとはいえないか。「鍛冶屋」に生まれた個人の他なる可能性を引き出すためにも,〈生まれ〉の呪縛から引き剝がす「権力」性が必要な契機はないのか。一度だけ親方が削る姿を目の前で演じてみせ、あとは板と鉋を置いておくだけで放置する。そのとき,自分の身体で鉋を用い試行錯誤を始める学習者と,酒や博打に行ってしまう非学習者。「自発性」がつねに・みなに作動する,という予定調和的な前提――そのような前提は別様の権力性の発現である――を拒絶するならば,「非教育の論理」の意義を提唱することは考えるべき問題を考えるための必要条件ではあっても十分条件ではない。それは考察の出発点を正しく指示するが,進むべき方向性は指示してくれない。「教育」と「学習」のパラドクスの前でこそわれわれは何度でも立ち止まり,強度ある考察を継続しなければならない。

3-3.テクノロジーの進化とパラドクスの深化

広田(2009)であれば,もっと端的に,近代教育思想の歴史とは,「子どもたちの内発的な動機での学習をいかにして生起させるかについての,思想とテクノロジーの創出の歴史」(前掲,73頁)であると,すなわち「子どもの学習可能性を教育可能性へと組織するためのテクノロジーの進歩」(前掲,96頁)であったと要約するだろう。だとすれば今日においても,テクノロジーの進展は思想の更新を不可避に要請する。現在の教育実践/技術論の領域で生起しているのは,この問題である。

「教育」と「学習」のパラドクスは権力的な「教師」の姿を見えなくすることで回避できる類のものではない。だが,現実の教育実践/技術論では,極力「上から指導する」教師像を後景に退かせ,「放っておいても」子どもたちが「学習せざるを得ない」――実践用語では「学ばないではいられない」という――ような環境を,教師が・事前に・いかにして準備・用意するか,という主題が前景化している。つまり,教師の「指導性」をもって子どもの学習環境を管理せよ,という命題である。

繰り返すが,これを「教育の論理」のゾンビである,として切って捨てるのは――簡単だが――無意味である。「学習の保障」を重視するなら,そして,学習者単独ではその十全な保障が無理だとするならば,この種の「指導性」が介入すること自体は排除できない。排除できるというなら,どのような学習論的根拠のもとでそれが可能なのかを論者に問いたい。教育社会学の知見では,学習者単独に放置したとき,帰結として「学習の保障」から零れ落ちるのは出身階層の点で不利な学習者である。

むしろここで考えるべきなのは,権力的な教師像が背後に退くことで別様の現代的な(?)権力の発動が促される側面である。学習者の興味関心と自発性・自主性を強調しつつ学習結果の保障もしようという要請のもとでは,一方で,いかにして学習者の周りに特定のレリバンスにもとづいた教材・道具・器材などを選択的に配置し,学習者が「自由に振る舞う」プロセスで自然に内発的な学習のダイナミズムが発動するように環境を管理するか,が課題となる。他方で,「自由に振る舞う」結果,学習成果がたしかに保障されているかどうかを,学習者「個別」に検証することが必要となる。

かつてのテクノロジー水準ではここまで学習の個性化と個別化とを徹底することは技術的に不可能であった。しかし,現在のテクノロジーの進展はそれを可能にしつつある。実際に民主党政権の教育政策パンフレット(鈴木・寺崎,2010)では具体的な政策構想と実施システムが語られている。

教材や教科書のデータをデジタル化してネットワーク化する「クラウドコンピューティング」の構想のもとでは,学習者一人ひとりのニーズにあわせたカリキュラムの編成と実施,学習成果の個別的かつ日常的な判定と改善策の作成,教員以外の保護者や関係者もつねに子どもの学習状況を把握できるという開放性,等々が実現可能である。

だが,これは究極の教育/学習の管理化ではないだろうか。パラドクスの深化ではないだろうか。明示的な権力者として同定される対象が消失したところに立ち現れる権力。だが,学習者の自発性・主体性を重視しつつ,他方で学習成果の保障をまったくの自己責任に放擲してよいとする前提はとらないとすれば,どのような論拠でこの権力の作動に「制限」をかけるべきなのだろうか。あるテクノロジーが「可能」であるのに「採用しない」というときに,どのような思想的な正当化根拠がありうるのか,どのような規範が呼び出されるべきなのか。

私の目には,田中氏の「非教育の論理」と『コンクリートから子どもたちへ』の政策構想が前提とする「思想」とは,少なくとも具体的な制度設計にのせて実施しようとする局面では,酷似するように映る。異なるとしたら,どこがどう異なるのだろうか。これは「非教育の論理」が具体的な制度設計を構想するときに一体どのような形をとりうるのか,という田中氏への私の疑問の別様の表現であるのだが。

(以下,4節以降につづく)