交錯するパラドクス(1節・2節)――職業訓練論が提起する「非教育の論理」との対話

8月7日(土)に明治大学で開催される「非教育を考える懇談会」予稿集に寄稿した文章です。1回目の今日は1節・2節。2節の内容は本ブログをこまめにチェックしていただいている方には既読の内容が続きます。あしからず。

交錯するパラドクス――職業訓練論が提起する「非教育の論理」との対話

1.田中萬年氏の「非教育の論理」
2.やや外在的な違和感
3.論点(1):「個の尊重」と「自発的な学習」の重視
 3−1.「教育」という思想の危機のなかで
 3−2.「自発的な学習」の「強制」というパラドクス
 3−3.テクノロジーの進化とパラドクスの深化
4.論点(2):「人権としての職能形成」の保障
 4−1.「職能形成軽視」の歴史的背景に対する教育社会学の視角
 4−2.佐々木輝雄と「教育の機会均等」のパラドクス
5.さらなる対話のために
[参考文献]

1.田中萬年氏の「非教育の論理」

「非教育の論理」と銘打ち,近現代日本の「教育」に向けられた田中萬年氏の問題意識は鮮烈である。特定の意図のもとで「立場の上の者が下の者を教育するという構造」,すなわち権力関係を理念上の与件とする「教育」の論理では,教育対象は「統制」の対象として客体視され,学習主体の自主的・自発的な人格形成は閑却されつづけてきた。開国以来,富国強兵の人材養成の手段として「教育」を利用してきた為政者側だけでなく,それと対抗する「教育の論理」を構築してきたはずの教育学(とりわけ教育権論)に対しても批判の舌鋒は向けられる。それすらも,国民の立場からは「自主性の否定論である」と。

もう一つは,支配的/対抗的を問わず「教育の論理」が共有してきた「人権としての職能形成」への軽視,人権とりわけ生存権の核となるべき労働権への軽視のもとで彫琢されてきた教育制度の実際と(規範的)教育学の思想的前提とが批判の対象とされる。そのような「教育の論理」が誤って国民にも共有されてきたがゆえに,「普通教育偏重」の支配的価値観が形づくられ,「学歴社会を形成しそれが固定化して階層化し近年の格差社会を創る要因となってきた」と同時に,日本の人格形成の実態は留まることのない空洞化を進展させてきたという。

したがって,今後の改革に期されるべき論点は,第一に,「人間としての個の尊重」にもとづいて「学習権の保障」という理念が徹底されるべきこと。第二に,「生存権を保障することは労働権であるという当然な論理の理解」を前提として,「人権としての職能形成」が保障されるべきこと,その実質化のためには「子どもと大人を区別する必要はなく,両者をトータルに考えるべきである」という生涯学習――「エルゴナジー」の理念が語られる。

このような田中氏の徹底した「教育の論理」批判を動機づける根底には,自らが長年にわたりその理論化と実践とに携わってきた職業訓練・職業教育が,普通教育に比べて不当に低く評価されてきた日本の歴史的事実に対する強い憤懣の念が流れていることは想像に難くない。

本書に収録された諸論文はいずれも,こうした田中氏の基本的な主張の方向性を是として受容したうえで,論者各自の問題意識にあわせて論点が敷衍されている。

それら多岐にわたる議論を通覧すると,田中氏の「非『教育』の論理」に対する批判として,おおよそ次の二点を複数の論者が共通して指摘しているように思われる。一つは,氏の教育学への批判がやや一面的なものである点。「教育」と「学習」とは対立的原理として把握するよりは,むしろ,両者とも人格形成がなされていくうえで相互に媒介しあう必須の構成要素であることへの注視である。「学習者の『学ぶ』行為に媒介されないかぎり『教える』という行為は,いかなる成果も生み出しえない」(里見論文66頁)。しかし同時に,「教える」という外からの働きかけを抜きにして「子ども自身の「学ぶ」意欲とその内発的なダイナミズム」がつねに・自然発生的に発動するとみなすのも予定調和的前提にすぎるのではないか。そういった省察が,たとえば山田論文での「教育と非教育との弁証法」といった表現の内実に込められているように思われるし,宮坂論文ではこの点がより具体的に展開されている。

第二に,「非教育の論理」が田中氏の独断などではなく国際的・歴史的な普遍性が認められる点が肯定的に指摘される一方で,その裏返しとして,「教育の論理」の存在もまた近現代日本に限られない普遍性をもって他の諸社会にも見出されることが適確にも指摘されている。里見論文しかり,また佐々木論文が「ドイツ新人文主義」の系譜を辿っているのも,まさにこの点を指摘するためであろう。

筆者のみるところ,これらの論点は,第一に,田中氏の「教育の論理」批判が――その濃淡に特殊日本性を認めることにやぶさかでないとしても――近現代日本の特殊性というより近代ヨーロッパ発祥の「学校‐教育」そのものに内在するパラドクスへの言及であることを示しているように思われる。第二に,現代日本では「教育の論理」に対抗する「非教育の論理」の構築が希薄であるという田中氏の直言が正鵠を得ているとしても,それは制度理念レベルでの「教育の論理」といういわば〈虚偽意識〉が国民に内面化されたことの延長として捉えるべきではなく,むしろ,日本の教育制度の制度化プロセスとその機能にこそ淵源を見出すべきではないかと思われるのである。

以下,2節で本書の依拠する現実認識についてやや外在的な批判を行なったのち,本書が提起する大きな二つの論点について3節・4節でその射程を敷衍し,5節で今後の課題の所在にふれる。

2.やや外在的な違和感

「教育」現象を「社会学的」に分析する手法としての教育社会学を学んできた筆者には,本書に収録された諸論考へのある種の違和感と既視感とを禁じ得ない部分がある。まず,本論からはやや外在的な批判をすませておこう。

本書の記述が内包する暗黙の雰囲気として,田中氏の問題提起の前提にあるとおり,「教育」の日本的な誕生・利用・普及という歴史的背景ゆえに,現在の日本の「教育」の現状がすでに取り返しもつかないほどに混迷し,他国と比較しても荒んだ「教育の荒廃」現象が深く刻印されてしまっている,裏返せば,他の社会では――少なくとも日本との比較のうえでは――そのような混乱や「教育の空洞化」や「荒廃」が生じる余地が小さい(し,それに日本は見習うべきだ)といった前提が共有されているかのような印象を受ける。

だが,これは私にはとても受け入れがたい前提だ。少年犯罪,校内暴力,学力形成,失業率,コミュニケーション能力,その他なんでも構わないが,こういった子ども・若年者を取り巻く客観的状況を示す指標のうち,日本が「欧米」に対してそれほどまでに劣っている現状というものを,私は(寡聞にして)知らない。日本のほうが良好な状況を示す指標は多く知っているけれども――ドイツの職業訓練制度の充実という事実は疑いようもないが,同時に,国際学力テストの彼の地における子どもたちの結果の低位や,若年・貧困層にみられる右傾化傾向,少年犯罪の多発といった現実が裏面に張り付いていることはきちんと踏まえたい。若年失業率,「ニート」発生率にしても,欧米が良好で日本(のみ)が問題,といった誤解を生みがちな記述はとてもニュートラルとは思えない。少なくとも,日本の子どもほど法規範を遵守し,日本ほどの経済/人口規模の先進国でここまで学力パフォーマンスの高い国家はない,という程度のことは前提として押さえておきたい。

念のため付言するが,少年犯罪の人口当たり発生率は「欧米」先進諸国と比較して凶悪犯・粗暴犯ともに数分の1から十数分の1と国際的にみて「最低」水準にあること,また――筆者は「PISA型学力」の権威に追随するものではないけれども――「日本型詰め込み知識」の検証ではないタイプの学力調査において日本より上位に「欧米」先進国は入っておらず,対して日本は安定して世界のトップ水準を維持している。もっとも,それは日本の「学校」教育の産物ではなく,「塾」の隆盛がもたらした虚像にすぎない,という批判には十分耳を傾けたいが,それにしても日本の「教育」水準を不当に低く評価する姿勢は,その過剰さにおいて「マスコミ的」短絡とさしたる距離がないことは指摘しておきたいと思う。

日本の教育が仮に「怪(おか)しくなってきている」としても,「怪しさ」の発現に多様性こそあれ,どの社会もその社会固有の「怪しさ」に悩まされていると見るべきである。私見では,現代日本の「教育」がさまざまな問題を抱えているのは事実だとしても,トータルで判断すれば,むしろ他国に比して良好な状況を維持している,との現状評価を下すべきだと考える――ただし,田中氏の問題提起の第二点,「人権としての職能形成」の保障という論点を除いて(4節)。

(以下,3節以降につづく)