大学教育の記憶

「最近の学生は勉強しない」「非常識だ(受講態度や勉学姿勢その他に関して)」「学力が低下している」「こんなこともできない」「あんなこともできない」...(以下省略)...とぶつぶつ言ってる大学教員がいた場合,ほぼ例外なく,その大学教員のほうこそ,まったく勉強(=研究)しておらず,研究=教育者として非常識で,学力が低く,無能である――ということを,私は数年間の大学教員生活でのゆるぎない確信として獲得した。

昨日もちょっと他人のついーとを見ていてうっかりスイッチが入ってしまった。学生のレポートにおけるコピペをめぐって「過剰に神経質」になる大学教員に対して,である→http://twitter.com/mnaoto/statuses/17389074009。「過剰に神経質」というのは,そういうコピペレポート防止にむけてその教員がとっている対策が,たいていの場合ほぼ無意味であり,非生産的で,かつ,学生の自尊感情を無視したものであることからくる,私の個人的な印象である。

前に「シラバスお蔵出し」というエントリでも少しだけ触れたが,私の講義でも,最初の年にはコピペ答案があった。ネット上からのものも少しはあったが(それはもうバレバレである),大半は「友だちコピペ」,つまり友だち同士で同じ答案文が流通して,それが書き込まれている,というタイプのものだった。ここでは2つだけ指摘しておきたい。1つは,ネットコピペであれ友だちコピペであれ,それはまず(ちゃんと)読めば気づく。そして,気づいたうえでそれを取り出して非コピペ答案と比べると,まず間違いなくコピペ答案のほうが「質が低い」(もしくは端的に「間違っている」)ということである。もう1つは,しかし,そうしたコピペ答案は,私の講義の場合,次の年以降ほとんど出現しなくなる,ということである。

後者の要因はたぶん2つ。1つは私の講義の質が上がったということ。つまり,講義をもとにした自学(のみ)で内容を十分理解できる度合いが高まった,ということ(ひらたく言うと,私の講義が(内容の密度を維持したまま)「わかりやすいもの」へと向上した,ということ)。もう1つは(これは先の「シラバスお蔵出し」で指摘したが),最終試験形式から最終レポート論文形式に実施形態を変更したこと――つまり,自力のみで対応しても納得のいく(自信の持てる)答案を作成できる(と見込める)だけの時間が確保された,ということ,ではないかと感じている。とくに前勤務校の学生さん達は(私の目からは過剰なまでに),自分の理解力(=内容咀嚼力)の低さ,答案作成能力(=作文能力)の低さ,そしてとりわけ自分の「要領の悪さ」(ときに「頭の回転の遅さ」と述べる学生もいる)に対して,引け目を感じているように見えた。自分の見解の論理的表明に自信をもてていなかった。

だからこそ,どこかに存在するであろう,自分よりも要領よく勘所を押さえた「答案」を探し,それをコピーして,「自分のもの」だとして提示したくなる――なぜなら,そのほうが「確率が高い」から。

前提として,私たちは,日本の国語教育とりわけ作文教育が,論理的な説明や自分の意見表明を目的とする文章よりも,「実感主義」的な感情表現/自己表現を目的とした文章作成を奨励するものに偏っているという事実に自覚的であるべきだ(「思ったこと,感じたことを,ありのままに,のびのびと表現しなさい」)。だからまず,大学教育の入り口で,「ペーパーの書き方」を自分達がきちんと教授しているかどうか――教授「できて」いるかどうか――を問い直したほうがよい(←この場合,「昔は教えられなくても見よう見まねでできるようになっていた」というのが「無能な大学教員」の決まり台詞だが,それに対しては,さしあたり,「だからあなたのペーパーはぜんぜんなってないんですよ」とだけ返せばよい。事実,なってない)。

一方では内容の水準が高く,しかし理解はできる,ゆえに興味のそそられる講義を提供し,他方でペーパーを作成するノウハウを確実に身につけさせていれば,自力で「書きたい」インセンティヴも,自分の単位獲得可能性に対する見込み(自信)の根拠も高まる。その場合,ふつう学生はコピペという無駄にリスキーな答案作成法は選択しない。コピペで書くことと,それが見つかった場合との損得勘定が釣り合わないからだ。ただし,教員がちゃんとレポートを読み,評価してくれる(よいものは高く,そうでないものはそれなりに)ならば......

また前置きが長くなった。

1960年代から1980年代にかけての資料をつらつらと複写しては読んでいる。まあ雑多に。私の場合,「日本語」で書かれた,しかも「活字」になっている,「公刊された」ものばかりだから,ちゃんとした歴史研究プロパーの方からみれば「なにそれ」ってなものだろうが,私にとっては「歴史」の「資料」であって,「史料」である。前エントリのような「うわごと」ばかりを口にしているわけでもない(ということに一応してほしい)。

60年代から70年代初頭までのいわゆる学生運動や大学紛争がらみの記事を読んでみる。小熊英二さんの『1968』は,具体的な中身の議論についてはさておき,とりあえず「注」は(ざっくりとした)「資料集インデックス」としてはかなり使い勝手がよい。そこで思うのだけれど,自分が大学教員となってから言葉のもつ重みが格段に重くなってしまったのが,「マスプロ教育」という言葉である。

私の講義でコピペが消えるのも,私が「ちゃんと」提出されたレポートを吟味できるのも(それゆえ,「私が読んでいる」ことへの学生の信頼を獲得できるのも),私の担当した講義1コマの最大人数が200を越えたことがないから,そして半期の全担当コマの総履修者人数がトータルで500を越えたことがないから,である(半期で500なら1週間でもきちんと読める←きついけどねw)。これが1コマ600人とか,半期で2000人ともなれば,「ちゃんと」読む,などということは大学教員の体を壊すことと引き換えでなければ達成できるタスクではない(2000人分のペーパーを1週間ほどの採点期間中に「きちんと」吟味のうえ読み通すなどできるものではない)。

ちょっと想像してみよう――60年代,まだ大学進学率は10%台,しかし,進学率「15%」というM.トロウいうところの「エリート段階」の水準を突破し,「マス段階」へと突入していく,まさに過渡期である。だが,この時代,真の問題は進学「率」という相対指標にではなく,進学者「数」という絶対値のほうにこそ潜んでいた。高校卒業者の母数が拡大していくなかでの進学「率」の上昇。進学率グラフを確認すると,その上昇テンポは70年代以降に比べれば緩慢にも映るが,現実の社会現象として生起していたことは,未曾有の「量」の学生たちが大挙して「大学」にやってくる,そういう時代を迎えていたのである。

履修する講義の規模はすべて,500,600は当たり前,中には1コマ2000(!)――というのが本当にある(「履修者」の数だが)*1――,大教室の遠くのほうに米粒のような教師,声は聞こえず,黒板は見えない。マイクの性能は悪く,現代のように教室に複数のプロジェクタ・スクリーンなど完備されてるはずもない。

講義の内容は十年一日のごとく同じ講義ノート,(よく言われる都市伝説だが)冗談が挿入される箇所も毎年同じ,講義ノートは自分の著書(か,若手の場合は師匠の著書)。この場合,著書を買うことは半ば(以上)「強要」される。大学教員にとって「印税」というおいしい収入に直結しているからね。教師は平気で無断休講日常茶飯事,そんなときは助手が教師の声の入ったテープレコーダをもってやってくる。もちろん,再生される声など聞き取れようはずもない。

出席はとられず(だって2000人分の名前を読み上げてたらそれだけで終わりの時間がきてしまうし,毎回数百枚におよぶ出席カードをチェックする苦行を実践する覚悟もない),仮にとられても代返しておけば気づかれることもない。教師のほうもわかっている。気づかないのではない,気づこうとしないのだ。講義にでない連中はなるべく早くでないようになってほしい。じゃないと,教室が狭くてかなわない。

講義中,大教室の長机の間には板が渡され(!),通路はなくなる(通路も座席になるからだ)。エアコンもない当時,すし詰めの教室の不快指数たるや,想像するだにおそろしい。「教室の狭さをなんとかしてくれ」と教務にかけあうと,「まあ5月の連休までの我慢だから。それを過ぎればじきすくよ」と事務職員。「もっと広い教室」などどこにもないのだ。そして事実,1ヶ月もすれば「大学」の実態に辟易した学生たちの多くは雀荘に入り浸り,講義になど出席しなくなる。

どうでもいいけど,当時,多くの教師は15分遅れぐらいで教室に入ってくるのが日常茶飯事だった。一人の哲学教師は臆面もなくこう言い放つ――「19世紀ドイツの大学の教師はこれぐらい遅れてくるもんだったんです。それが大学というものなんです」。しかし,それが当時の,このような劣悪な教育環境のもとで待たされる学生の耳にどのように響くものか,この教師は考えたこともなかったに違いない(でなければ,こんな無神経な言葉は吐けないだろう)。

通年で行なわれる講義,評価は一年最後のレポートのみ。教師が読んでないのは明白だ。なぜなら,全員「優」だから(当時は「優」が最高評価である大学が大半でした)。読みもされずに「優」である。その十年一日の講義ノートのもとになってる著書を丸写しにでもしておけばよい。誰がオリジナルな知見を加えたペーパーを書こうなどと思おうか。書きたくても書けない,ではない。「ペーパーとはそういうものだ」という発想がないのである(だって教えられていないから)。先ほどの↑「昔のわれわれは見よう見まねで“できる”ようになっていた」説の先生方,あなたの「見よう見まね」とはつまり,“こういうこと”ではないですか?

「マスプロ」の「講義」以外に,「ゼミ」を履修できたのは,ごく限られた“幸運な”学生のみである(たいてい,猛烈な倍率のくじ引き,もしくは“選抜”となる。教員1人当たり学生数の問題だ)。大学教師に「質問する」という“特権”(!)を得られるのは,こういう幸運な学生に限られたわけである。ところが,やっと入れたゼミで質問しても,若い教員は恩師と異なる説を唱えることもなく,あがる参考書は自著と恩師の著書ばかり......

これで「大学」に幻滅するな,というほうが無理である。

かてて加えて昼休み,狭い食堂で毎日大行列を並び,これまたギュウギュウ詰めのなか夏など汗びっしょりになりながら学食をかき込む。さらに,大学の急速な規模拡大に比して大学運営/経理の近代化が完全に遅れていた(どんぶり勘定),あの当時――大学側が在学生の「正確な人数」を把握できていないことなど珍しくもなんともない――,講義や設備への不満が充填されているところへ,矢継ぎ早かつ大幅な「学費値上げ」の連発......

これで「暴れるな」というほうが無理である。

だから,暴れた。灰色の受験生活,熾烈な受験戦争,「受験地獄」は,“こんなもの”のためにあったんじゃない。「真の学問追究の場」としての大学を回復するために,大学を「真理の探究の府」として奪還するために。

当時,政府の高等教育政策はすでに,産業界の意向を反映しながら,大学を新しい人材養成機関に再編しようとする動きを現実化しつつあった(「産学連携」というやつだ)。「理工系」というのはすぐ思いつくことだが,「教員養成」の世界もターゲットになっている。「○○“学芸”大学」(“学芸”学部)が「○○“教育”大学」(“教育”学部)に看板替えするのもこのころだ(そして,あの「新構想大学」の「構想」が頭をもたげ始めるのも)。当然,“学芸”大学の学生たちも闘争に立ちあがる――われらの「大学」を「教員養成工場」にしようとする動きに抗って。

ここで私が注目するのは,当時,かれらのなかで自然発生的に生まれたバリケードのなかの「自主講座」「(カリキュラムの)自主管理」の試みである。大学に入ってから初めて体験した,「能動的な,喜びと苦しみを伴った勉強」。「ぽっかりとあいた自由の空間」――もちろん,周知の通り,それは“挫折”する。かれらに,大学教育レベルのカリキュラムを自力で組む力量など,なかったからだ。

だけど私は,「この経験」の影響は小さくなかっただろうと思っている。確証は(まだ)ないけれど,そう感じている。ここで“挫折”したかれらの多くは,こののち教師になっている。「運動」に関与した学生は「どうせ企業になんか就職できっこないからさ」と,教員採用試験のほうにかなり「流れて」いることがうかがえる*2

なにへの影響か,まではここでは言わんけど。

さて,ここで強調したいのは以下のこと。この時代の「大学教育」を経験して社会にでていった人びとは,「大学教育とはこういうものだ」と刷り込まれたまま年を重ねていく,ということ。その「原体験」が修正される機会は,かれらのライフコースのなかにほぼまったくビルトインされていない。なぜなら,日本の場合,一旦就職した人間が大学(院)に再入学するというのは極めて稀,入るとしたら「海外の大学(院)」となるからだ(そして,「日本の大学」より「海外の大学」は素晴らしい,という“実感”となる)。石田浩先生が強調するように,日本の教育制度と労働市場とのあいだの関係性は,きわめて硬直的に,一方向的に(教育制度→労働市場),「分離」したうえで「接続」してしまっているのである――このことは,ふつう想定されている以上に,日本社会の奥底深くを規定してしまっている。

この当時の大学教育に「職業的レリバンス」があったとかなかったとか,そういう次元の話ではない。あえて言うなら,そこには「教育」がなかったのである(あるいは,「大学」すらなかった,と言いたい気にもなるだろう)。そういう無言の「記憶」が社会的にずっと沈殿したまま,われわれはその後の数十年を経てきている。

大学そのものはこの間,大きく変貌した。その「変貌」のかなりの部分は,「こういう大学教育」の記憶を携えたまま職業人としてのキャリアを積んだ人びとによって直接的に推進された。企業の人事担当者は,「こういう大学教育」の記憶を携えたまま,新たに職業人になろうとする人材の選抜業務にあたってきた。60年代に大学教育を経験した世代。とくに,その後半に経験した世代――それはバブル期以降の企業の採用人事の中核を担ってきた世代と重なるし,90年代以降の大学改革の実務にあたってきた世代とも重複する。

「大学」側が,近年の拙速な改革に抗議の声をあげたって聞き届けてもらえるはずもないだろう。

想像するに,人は自分の子どもをもったとき,小学校や中学校の現在の姿と自分の経験した学校教育との異同を実感する機会には恵まれる。まだ子どもが幼く,比較的学校教育の「中身」にまで親しく触れることが多い(それを推奨されもする)。しかし,子どもの年齢があがるにつれ,親が学校教育の実態にまで踏み込んで「現在の姿」を目の当たりにする機会はだんだん薄くなる。子どもが大学生にもなれば,(自分が大学教育未経験者であるため「心配」で)大学の保護者懇談会にまで足を運ぶ親でもない限り(いや,そういう親であってさえ),「大学教育」の今日の変貌ぶりを実感する機会はほとんどないだろう。

私が捉えたいのは,たとえばこういう水準での「戦後日本の社会構想と教育制度・教育実態との関係性」のありようである。「こういう水準」の話に比べれば,戦後の「新左翼」思想がどうのとか,社会主義の教訓がどうのとか,日本社会の経済成長と「現代的不幸」の発現がどうのとか,文部省と日教組とのあいだでの抗争がどうのとか,私にとっては比較的どうでもいい話である。

ある強烈な(変化の)経験の共有があったとき,それが無言の記憶となって,その後の社会の道行きに重要な影響を及ぼす転轍機となる――そういう水準で「社会」の「歴史」を捉えたい。60年代と70年代とのあいだに,一つの分水嶺を引きたくなる所以もここにある。60年代の「記憶」は,その後の教育政策にも,教育運動の思想にも,人びとの現実認識の枠組みにも,それぞれに影響を与えてその後の「構造」を形作っていく――「仮説」ですけれども。

前エントリを失笑まじりで公開したが,あれこれとは私のなかでは実はセットであるw(←ええまあ,なんというか,はい,何事かおっしゃりたい気持ちは察します)

今日のこのエントリは2つのことを同時に書こうとしている。研究者として,戦後日本の「現代史」を書くために――「史料」のトレーニングも受けていない社会学的歴史研究(自称)を遂行する人間が,歴史プロパーに「勝つ」としたら,これぐらいのリスクを犯してやるしかない。歴史プロパーと「同じこと」をしていたら何万年かかっても勝てっこない。「現代史」というのは,そのための試金石としては格好のアリーナである。教育者として――目の前にいる学生に対して誠実な仕事をしていかなければならないと考える。それがボディブローのように効いてくる。あとになって「改革を止めてくれ」と叫んだところで手遅れならば。

以上*3

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

*1:毎回の講義がZEPP TOKYOスタンディング・ライブ!みたいなもんであるw(←もちろん笑いごとではない) ひしめきあっておる。

*2:現在とくに地方の教員採用試験を目指している学生さんには想像もつかないかもしれないが,当時は教師になるためのハードルはすごく低かったんです。「デモシカ先生」って言葉をググってごらん(言葉の誕生そのものはもっと古いんだけどね)。だから,教育実習先の校長先生なんかに無駄にビビらなくていいんだよ。その人たちはあなた方よりずっとハードル低い時代の教採受験者なんだからw

*3:当時の大学教育の「ひどさ」は客観的な数値として確認するに如くはなし,なのですが(授業料・学費や専任教員数,募集人員と実際の入学者数,学生数対教員数/校舎面積などなど),忙しくてとてもそんな暇がないという場合には,上述の小熊英二『1968』上巻の「日大闘争」の章だけでもお読みになるとよいでしょう。小熊さんの底意地の悪いところが遺憾なく発揮されていて良いと思いますw 総じて,私の印象では『1968』,上巻だけでよいのでは,と。いやお読みになるのであるならば。