福祉と教育

もうだいぶ時間がたってしまったが(←最近こういうのばっかだ),比較教育社会史研究会・若手別動部隊(←などと呼んでいるのは私だけだマネしちゃダメ)の研究会にお邪魔してきた。相変わらず,世界のいろんな地域の(←というわけでもなかった,ちょっとイギリスに偏ってますね,たしかに)歴史研究プロパーが複数集まると大変刺激的な面白い議論が聞けて勉強になる。今日はそのうち,文献紹介として扱われた一冊について。

戸田金一『明治初期の福祉と教育――慈善学校の歴史』吉川弘文館,2008年

お値段 9975円也。ちなみに全324頁。お手頃ですね(←うそ)。というわけで図書館でお借りして参戦。日本の明治期の貧民教育に焦点をあてた全4部構成。慈善事業として独自の設置・経営が行なわれた貧民対象の慈善学校は,存在自体が僅少で,かつ設置されたものも大半が短命で終わっており,そもそも資料が残りにくい。本書は例外的に長期にわたって継続した慈善学校が存在した秋田において,各校関連の豊富な一次資料を掘り起こし,おそらくは本格的な慈善学校の歴史を著した日本で最初の書物である。

第1部で学制期における貧民教育の制度的枠組みが概説され,第2部で秋田市内に設置された公立飽田仁恵学校,第3部で教育令以後の小学校簡易科(簡易小学校)の施策のもとで秋田市内に存在した私立第一・第二簡易小学校(キリスト教系慈善学校),第4部で本間金之助の出資により明治28年に設置され昭和2年の閉校まで続いた私立福田小学校,のそれぞれが扱われる。そのうち,とくに第2部・公立飽田仁恵学校と第4部・私立福田小学校が叙述の中心を占める。「福田」は仏教の福田説の「福田」だから,「ふくだ」ではなく「ふくでん」と発音しなければならない。ちなみに,「飽田」というのは「秋田」の当て字だとか。

また「仁恵学校」というのは学制第24条にみる「貧人の小学は,・・・これもっぱら仁恵の心より組み立てるものなり。よって仁恵学校とも称すべし」にもとづく。だから「飽田仁恵学校」というのは「秋田慈善学校」と書かれてあるようなものなのであるが,1949年刊の秋田市役所編『秋田市史 下』には,「校主 鮑(飽?)田仁恵」との記載があり,それがもととなってある地名辞典のなかには「明治に入って・・・その頃から仁恵学校があった(校主飽田仁恵)」との誤認の拡散がみられるという(50-51頁)。本書によれば,これは「明治初年以来市内に設立された学校・・・の中には,篠田三省を校主とする三省学校(俗に篠田学校)とか,児玉サダ校主の児玉女学校とかと,確かに教師の氏名にちなむ学校名が含まれている」(50頁)ことからの誤った類推で,「飽田仁恵」(←あきた・ひとえ,とでも読もうか)を校主とする学校であるとの誤認が発生しているのだという。思わず笑ってしまうが,市史にそう書かれてあると,自分でも「誤認の拡散」に寄与しないとも断言できないところが情けない。ていうか,やっちゃうな,たぶん。

でまあ本書は「日本近代史の資料よむゼミか?」てなぐらい淡々と一次資料が提示されて事実が書き込まれていく。学部生初歩の書き下し文の練習用にはいいかもしれん(←冗談である)。社会的背景がどうとか,貧民の教育観がどうとかいう怪しい社会史的な議論は一切ぬきである。唯一,なぜ全国レベルでは数も僅少で存命期間も短かった慈善学校が秋田という場所では早くに設置され長期にわたって継続したか,ということの背景として維新時における秋田の独特の立ち位置を指摘したところなどにわずかに「読み解き」が顔を出す。

逆にいうと,堅実な本ではある。

読後感としては,慈善学校に子どもを通わせた親の意向を無条件に「向学校/向教育」的なものとして措定しすぎではないかと思う。「親の教育への積極的関心を示す好例である」(77頁)とか「とはいえ,本校に学ぶ者はその保護者ともども教育に熱心な者たちである。家庭学習にとって厳しい環境ではあるが,これを積極的に打開していったのであろう」(92頁)とか。どうなんでしょうね。通学していた子どもの学籍簿にみる戸主職業など「日雇渡世」とかもあるんだけど「工」とか「商」が多く(とくに「工」),まあこれはそういう地区に設置されていたからそうなんだろうけど,「教育熱心」以外に家内空間からの「放逐」とかの側面はどうなの,とかそういうことは関係ないん? あと,ここに子どもを通わせていた家庭って,ほんとに最底辺の極貧家庭なのか,っていう点も。いつかも書いたかもしれないけど,福祉史であれ教育史であれ日本の「貧民」を対象とした近代史を書こうとして被差別民のことが議論の対象からすっぽり抜け落ちるのってどうしても解せないんだけど。もちろん,それこそ「資料が残らない」というのも分かるんだけど,だったら「そのこと」が抜け落ちている部分というものをどのように想定しながら(妄想しながら),手元の一次資料をどう読むか,というところで別様の緊張度が必要であるように思う。淡々と客観的な記述をしていけば「客観性」が担保されるというわけではない。

っていうか,そもそもこれ,名簿の住所も戸主名も戸主職業も子どもの名前も年齢も全部「一次資料」としてそのまま掲載するのって,どうなん? 日本教育史ではこういう議論どうなってんすか? いいの,これ? 私生子/庶子とか多くないの,こういう学校に通ってた子って? 明治なんて,ついこの間だよ。子孫の人だって秋田にいっぱいいると思うけど? そういう人間は一万円近い学術書なんて買って読んだりせんからいいってか?

少なくとも現代日本において「そういう議論」が社会的に合意がとれているという水準にまで成熟しているとは(とても)言えないと,私は思う。「氏名」情報の提示がなぜ必要なのか? 学術上の意義が不明な個人情報を安易に公的紙面に記載するということの社会的意味合いを理解したうえで公刊しているのか,私には不明である。「そういう指摘」をブログのような公開の場でするな,というご意見(←個人的な印象では「寝た子を起こすな」論にメンタリティ的に近い)もあるかもしれないが,逆である。「こういう話」をきちんと学術界でしておく「自浄能力」がない(とみなされる)から,この手の資料の公開・利用に対する社会的信頼を得られないのである。この手の議論が日本教育史でどうなっているか,少し自分でリサーチしてみて,どうにもなってないようなら,著者と出版社に問い合わせてみようかな,とも思っているところである。

...などと少々悪態をついているかのように見えるかもしれないが,仕事は堅実なので,読む人が読めば非常に有益な本である。研究会当日も私のような浅学の者ではなくイギリス教育史(でいいのかな?)の専門家がコメントを展開してくれたので大変面白かった。

たとえば《チャリティ》が社会の重要な基底的構成要素として分厚く存在するイギリスと比較すると,「学制」という国家教育の枠組みに「慈善学校」の規定がすでに組み込まれている(学制第24条「貧人の小学は,貧人子弟の自活し難きものを入学せしめん為に設く。その費用は富者の寄進金を以てす。これもっぱら仁恵の心より組み立てるものなり。よって仁恵学校とも称すべし」),という点が特徴的だという(←ただし,これはイギリスが特殊,という点も見逃すことはできない)。したがって,第2部で扱われている飽田仁恵学校のように「公立」の「仁恵学校」というイギリス史的には理解不能な学校が存在可能になっている,という。

「公立」の「慈善学校」というが,この「飽田仁恵学校」の設立財源は,県庁学務掛と県立太平学校(←のちの師範学校)に働く全職員が給料月額の一律1%を拠出して資金を調達している。民間人は資金提供者の中に一人もいない。役人が民間に対して「慈善事業」の「範を示した」ともいえるが,税金をもとにした財政予算を人件費から学校設立費へと「付け替えた」ともいえる。このあたり,比較社会史的な関心からは,日本の「貧困」に対する「慈善」とか「教育」とかいうものの社会的位置価の一つの側面をうかがわせる材料ではある。

さて,しかし,日本に民間篤志家の慈善事業がなかったわけでは,当然ない。この地でも資産家がもちよった資金をもとに文政12年(1829年)に設置され現在まで続く「感恩講」という慈善事業体(←「講」とはいうが相互扶助的金融組織ではない)がある。ただ飽田仁恵学校設置当時には,ご用達商人が実質運営していた「感恩講」という慈善救貧組織が藩有財産とみなされ政府に没収されていた時期であった(ので,「公立」としてのスタートということになった,という面もある)。

しかし,再びイギリスの《チャリティ》との対比でいえば,この「感恩講」は宗教性をもたない組織体であると同時に,「施米」を中心とした救恤・備荒目的の事業体であって,「貧児の教育事業」は一切視野に入っておらず,貧民教育が慈善事業の範疇にカウントされていなかった,という点に特徴が見出される。この点は考察を敷衍するに値する論点ともなろう。

もう1点は,このブログでも最近言及している田中萬年先生的な問題設定とも通じるところだが,このように赤貧の子弟の教育にあたる「学校」でありながら――いや「学校」であるがゆえに,というべきか――教育内容は普通教育に偏したものになっている,というあたりも特徴だ,と。つまり,徒弟修業等のようなものは制度的な可能性としても最初から組み込まれていない。学制期初期の「構想」の段階では自由な発想も可能であったため,「父子共々賃金を得られかつ生産学習が可能な学校を設置するという,この時期における進歩的な構想となっている」(21−22頁)と本書でも指摘される奈良県の事例も存在するが,制度として展開はしていかない。また,秋田の福田小学校でも貧窮する子弟の救済策として,学校が燐寸製造業の企業と提携して,放課後の児童を賃金労働に従事させるという試みも実現されているが,それはあくまで貧窮対策としての就労であって,それ自体が職業訓練的な学習活動の一環として組み込まれているわけではない。イギリスの救貧法が「徒弟に出す」(=職業教育)と密接に結びついていたのとコントラストは明瞭である,と。

ついでにいえば,福田小学校は僧侶が校長となっている仏教系の私立慈善学校でありながら,教育内容に宗教教育は一切位置づいていない。

このように比較社会史的な観点からは豊富な「材料」が多く得られる著書である。そのような関心をお持ちの方にはおススメしたい。だが,「一見さん」には少々お高い買い物となるのも否めない。

本当はここから「福祉と教育」研究会の議論を展開するのが本筋だったはずなんだけど,思いのほか字数をくったので,ここらでとりあえず本エントリを閉じることにする。ちなみに,今日こんな時間にエントリをアップしているのは球蹴り世界大会の試合を見たいがために学会をブッチしたからではない。これはほんとである...と,強調しておいてエントリを閉じる。

【注記】
本書へのコメントとして本エントリに記載したイギリス史との対比にかかわる内容は,当日の報告者の議論を「もとに」森の責任で記述したものであって,そこに含まれる一切の誤り等はすべて森に帰されるべきことを記しておきます。

追記:2010/6/19
イギリス史におけるチャリティの位相に迫った力作といえばこれ,金澤周作『チャリティとイギリス近代』京都大学学術出版会,2008年。ご紹介し忘れましたので追記します。ちなみに全434頁で5250円也。こちらは買い(←これはうそではないw)。

明治初期の福祉と教育―慈善学校の歴史

明治初期の福祉と教育―慈善学校の歴史

チャリティとイギリス近代

チャリティとイギリス近代