辺境性と境界人性――あるいはブログ名の由来について

ご無沙汰しておりました(←挨拶)。

むかし,大学院にあがりたての頃,日本教社会学会の学会誌『教育社会学研究』の創刊号から当時の最新号までの全「活字」を読破する,という無意味な企てを実行してしまったことがある。全「活字」というのは,論文はもちろん書評・学会課題研究報告など,全部である。念のため申し添えますが(そんな勘違いする人いないと思いますが),このブログをお読みの前途洋々たる若き読者は,せっかくの貴重な青春の日々をそんな無意味な苦行に費やす真似はしてはなりません。

そのとき一番印象に残った1本をあげるとすれば,やはり天野御大,その人のお書きになった「辺境性と境界人性」というエッセイである。天野郁夫(1990)「辺境性と境界人性」『教育社会学研究』第47集(特集・教育社会学の反省と課題),89-94頁.

『教育社会学研究』って,こういう「反省」とか「振り返る」とかの特集をずっとやってる雑誌だったよね(←なぜタメ口?)。

エッセイの主旨はすでに題名にて言い尽くされている感はあるのだが,教育社会学という「二重,三重の辺境性を約束されていた」(89頁)学問領域において研究者は必然的に「境界人」たらざるをえない,そのことの困難と――いささかの自負を込めて――可能性とを論じつつ,他方で近年(当時)の教育社会学の動向――「少なくとも主観的には『エスタブリッシュ』された』研究領域になりはじめた」(92頁)――を省察する内容。

その困難......

辞書的な定義によれば・・・,境界人は,帰属すべき文化や集団をもたないため,統一的な価値体系や,一貫した思考・行動の様式をもちえず,つねに内面的な葛藤や動揺を免れることができない。そのため現実や自己に対して,過度に攻撃的になったり,否定的になったりする。つまり自信がもてない。なんとあの時代の教育社会学者,少なくとも筆者自身のおかれた状況を,思い起こさせる定義であることか。教育学部におかれた教育社会学の講座で,社会学を体系的に学ぶことはむずかしい。といって正統的な教育学に,強い帰属感をもつこともできない。そのアンビバレンスが,複雑なコンプレックスを生む。それが,30年前の境界人たちのきびしい,困難にみちた現実であった。(89-90頁)

ま,部外者の目からみたら「はあ?」てなもんではあるが。30年前というのは,ちょうど執筆時点からみて30年前が,天野先生が教育学部に入り直した年であることによる。

その可能性...というか開き直り...

辺境は「革命」の根拠地となりうるし,境界人は,特定の文化や集団から自由であるがゆえに,創造性・革新性をもちうる。社会学にも教育学にも帰属しえないとしたら,辺境性・境界性に居座り,開き直って,そこに自らのアイデンティティを確立し,教育学や社会学にむけて逆にフロンティアを創出していけばよい。それが,わが国の教育社会学が,独自の研究領域として自らを確立するためにとるほかなかった,またとってきた「戦略」ではなかったろうか。(90頁)

天野先生にしては珍しく,いささか気負った筆致になっているのが印象的だ。

さて,そのようにどちらを向いても辺境たらざるをえなかった教育社会学(とりわけ日本の)がとった「戦略」の具体とは...理論や方法ではなく,現実の「問題」――教育問題/社会問題――の重要性に照準した研究実践の展開であった。

確かなものとして存在したのは,理論や方法である以前に,なりよりも,きわめて現実的な「問題」であった。・・・(中略)・・・そのことは,たとえば,教育社会学の実質的な第一世代として,指導的な役割をはたしてきた研究者たちが,なにを問題として研究の対象に据えてきたかをみれば,よくわかる。試験地獄,学閥,学歴主義,高等教育,教育計画,教育と経済,教育と近代化などの主題は,いずれも,教育学によっても,社会学によっても,研究の対象として的確にとらえられることなく見すごされ,放置されてきた,その意味で辺境的ないし境界的な,にもかかわらず,きわめて現実的で重要性をもつ教育問題であり,社会問題であった。(90−91頁)

「学歴(主義)」だの「試験地獄」だの「教育と経済」だのを研究対象とすることが,それまでの教育学においては「下品」で「学問の名に値しない」テーマであった,という歴史的事実が,「エスタブリッシュされた教育社会学」(←なんていう表現は本来笑うしかない語義矛盾であるが)しか知らない現在の研究者(の卵)たちにとって,どれだけリアルな響きをもって伝わるだろうか。

はじめに「問題」ありき。

理論や方法は,さし迫って存在する問題をときあかすための「手段」ないし「用具」として選びとられたのであり,理論や方法の「応用」の対象として,ある問題が選びとられたのではなかったことを見逃してはならないだろう。(91頁)

しかし,このエッセイ執筆時点での天野先生の目には,すでに教育社会学の辺境性や境界人性に変質の兆しがみえている。

かれら[はじめから大学院で教育社会学を専攻領域として主体的に選択した新しい世代:引用者]は,もはや先行する世代と同じ意味での「境界人」ではなく,したがって「辺境」意識も弱い。いや,この数十年の間に,教育社会学の学問の世界における辺境性自体が,弱められたというべきかもしれない。(92頁)

私見では,この時点でとくに意識して念頭におかれているのは,80年代にアメリカ学校社会学の理論装置をひっさげて学校組織と生徒文化を分析対象とした枠組みを提唱し始めていた「学校社会学」の新鋭たち――世代的に「苅谷剛彦」の名前をその代表者として含めてよいだろう――と,70年代イギリスで展開した「新しい教育社会学」の動きに鋭敏に反応し,構造機能主義/マルクス主義の双方ともブラックボックス化してしまった「スループット」を分析するという理論枠組みと「エスノグラフィ」という方法との「輸入」によって新機軸を打ち出そうとした新世代――その延長線上に,たとえば「志水宏吉」という名前をだしてもよいだろう――であろうと思う。

天野先生はこうした動きと,そこにみられる世代間「闘争」の生産性に対して懐疑的だ。なぜなら,まず「『問題』の重要性に着目し,理論や方法を『手段』や『用具』として」――逆ではない――「しばしば無自覚的に,しかし効果的に用いて研究成果をつみ重ねてきた先行世代」に対して,「欧米の社会学から『最新』の理論や方法を『輸入』した新しい世代が,それを武器に先行世代の理論や方法の『古臭さ』を指摘するという形」しかとっていないように映っているからだ(92頁)。

問題に理論や方法が先行する場合,問題にみあった理論や方法が選択されるより,理論や方法にみあった問題が選びとられる傾向が強くなる。その理論や方法が,わが国の教育社会学社会学が内在的にうみ出したものであるより,「中心」としての欧米諸国から「輸入」されたものであることを考えれば,こうした傾向は,わが国の教育社会学の,「中心」としての欧米との関係での辺境性からの脱出――「自立」を助けるよりは,それを妨げる危険性をはらんでいる。(93頁)

ここから先の天野先生の文章には,つい最近,どこか別の場所で別の人物により,まったく同じ趣旨の文章が書かれていたような既視感に襲われるような思いである。

いうまでもなく社会学も,その一部門としての教育社会学も,「近代」という時代,「産業社会」という社会を対象に成立し,発展してきた学問である。その限りで理論や方法に国籍はない。デュルケームがいったように,社会学は基本的に比較社会学なのである。だがそのことは,とくに現実の教育を「問題」として分析し,説明することをめざしてきた教育社会学の諸理論が,具体的な歴史と社会の刻印から自由であることを意味しない。それどころか,諸理論には,それを生みだした社会と時代の刻印が,しっかりきざみこまれている。(93頁)

このことは,わが国の教育社会学の研究者が,欧米諸国の研究者以上に,きびしい理論的な自覚を求められていることを意味する。我々は,そうした理論がうみ出された社会・文化的な背景――文脈を的確にとらえ,それがもつ普遍性と特殊性を十分に検討し,認識した上で,わが国の社会・文化的文脈のなかからうみ出された諸問題に適用するという,困難な作業を要求されているのである。(93頁)

ちょっとおおげさな言い方になるかもしれないが,私はここの部分にさしかかるといつも――というのもこのエッセイはつねに私の座右におかれ,折にふれて読み返される――,少し震える。この感覚,どれだけの人が“ほんとうに”理解できているものなんだろうか。

しかし,たとえば広田照幸が以下のように記すとき,ほぼ同じことが語られているということに(一抹の脱力感とともに)多少の安堵を覚える。

日本の教育社会学の領域で「理論」として語られるのは、多くの場合方法論を論理化したものにすぎない。バーンステインやブルデュールーマンなど、「理論」として注目されるものは、もともとの彼らの著作に含まれた歴史的文脈や当該社会の固有性などが無視され、脱文脈されて実証研究に利用される「方法」に関わる部分にとどまっている現代の社会の動態を固有の歴史性を帯びた現象として説明する「社会理論」が、研究の中に十分組み込まれてきていないのである

師匠と弟子が20年の時を越えてほとんど同じことを論じているということは,(1)「この間,日本の教育社会学(者)は限りなく無能であったために,ほとんど何の学習・前進も見られなかった」説,かもしくは,(2)「まあ斯界で権威ともなってくると,だいたいみんなおんなじようなことしか言わんのだ」説,のどちらかが正しいのであろうが――あるいは「どちらも」正しい,か――,それは今は問わない。

念のため申し添えれば,↑上で名前を出した苅谷先生にせよ志水先生にせよ,その後の研究の展開は,「そうした理論がうみ出された社会・文化的な背景――文脈を的確にとらえ,それがもつ普遍性と特殊性を十分に検討し,認識した上で,わが国の社会・文化的文脈のなかからうみ出された諸問題に適用するという,困難な作業」をかなりの程度まで「完遂」することに成功した,数少ない日本の教育社会学の「達成」となっている,と私は評価する。

たぶん,↑そういう水準にまで辿りつけるのはいつの時代もどの領域も,ごく限られた人間に限定される,ということでしかないのかもしれない(←20年という時を超えて師匠と弟子が同じことを言ってる件)。

さて,このような自分より若い,「新しい世代」への評価が,「結局は,自分自身のたどってきた研究者としてのキャリアや研究活動の,『正当化』に終わる危険性をはらんでいる」(94頁)ことに十分自覚的であったうえで,なお天野先生は最後に強調する――日本の_教育_社会学が「辺境性」と「境界人性」とを引き継いでいくべきことを。

そのことを自覚した上で,あえて教育社会学の辺境性,その研究者の境界人性にこだわるのは,それが可能性としてもつ自由さと「革新」性のゆえである。(94頁)

辺境にあればこそ,社会学と教育学の双方にむけて,新しいフロンティアを切り拓いてゆく可能性がある。「中心」としての欧米に対置された「辺境」にあればこそ,いまや欧米以上に「成熟」した「近代」と「産業社会」をもつに至ったとされる日本の現実の分析のなかから,新しい,普遍的な理論をうみ出す可能性がある。そう考えたい。そのためには,第一世代の人々以来の境界人性のプラスの側面を,教育社会学の後続の世代は,忘れることなく引き継いでいく必要がある。(94頁)

戦後40年をへて,いまだに学問としての性格を問い,「批判的検討」を加えようとする教育社会学の「青臭さ」は,そうした辺境性,境界人性の健在ぶりを証明するものとみたい。その「青臭さ」が失われるのは,教育社会学とその研究者たちが,辺境性,境界人性をのりこえて,教育研究の「中心」として,真にエスタブリッシュされた地位を獲得するときなのか,それともまったく逆に,学問としての自立性を失ってしまったときなのか。(94頁)

「辺境性」と「境界人性」――自らを取り囲む四方八方,どちらの方向へウイングを伸ばそうとも「中心」には辿りつけないことへの諦観と開き直り。全方位的に「もどき」であるしかないことへの諦念と矜持。ネット上のさる名づけの達人が呼ぶところによれば「教育難民」w...たり続けることへの志向。

私が職場の制度上「教育社会学」を自称するか否かにかかわりなく,私の研究者としての「方法」はここにある――天野郁夫が明示的に示した「教育社会学」の「方法」,すなわち,「辺境性と境界人性」を継承していくこと。


それは「学際的」などという安いキャッチフレーズとはまた異質ななにものかである。


また,それはたとえば,制度上の肩書が「まんが原作者」であるか「批評家」であるか「大学教員」であるかにかかわりなく,大塚英志の「方法」が「千葉徳爾柳田國男民俗学」であり続けることと同様である。


今日のこのエントリは今後書かれるエントリたちへの前ふり的ななにものかである。よろしく。

大学論──いかに教え、いかに学ぶか (講談社現代新書)

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