『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』

串田秀也好井裕明(編)『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』世界思想社,2010年。

編者の好井さんからいただきました。ありがとうございます。頂いてからエントリあげるまでにずいぶん間があいたのは,↓以下にみるように本当は参照したかった他の文献が,引っ越しの際に封をしたままのダンボール箱のどれに入ってるかずいぶん探したけど確認できなかった,といういきさつがあります(すんません)。

3部構成300頁超で思ったより分厚いのですが,文章は平易で第3部には学説展開の解説も付いており,ほんとに「学ぶ人のために」は良い本だと思います。パっとみて興味をひかれたのは第2部・秋葉昌樹さんの第6章「学校で過ごす」,第3部・串田秀也さんの第11章「サックスと会話分析の展開」など,その他にも。

いま個人的に追っている“オープンスクール教育/個別化・個性化教育”というのは通常の一斉授業形式とはかなり異なる教師/児童生徒のやりとりが展開します。日常生活の平面がそのまま延長したような空間/時間のもとで,しかし,〈教育〉活動が展開する,という現象を厳密に把捉し分析を可能にする方法(論)として得られるものは大きいのではないかと。

というか,エスノメソドロジーって,自分の日常生活とか捉えなおす“教養”としてみんな身につけておく意義がある(少なくとも,身につけておくと面白い)ものかもしれませんね。私とかだったら,大学教員の会議における〈了解〉の成立について,とか(←適当)。

たとえば(もうとっくに研究実践としてはやられているかもしれませんが),専門職――たとえば教師――の研修の場における相互的なやりとりとか,実に面白い対象のように思うのです。前勤務校で何度か教員研修の場に居合わせたことがありますが,教員同士の相互のやりとり(公開研究授業をめぐるディスカッションとか)や,あるいは教員あがりの行政職とか研究職の方による講義形式の研修では,教員の世界独自の「ワザ言語」としか思えないような独特の言い回し/フレーズがあったりして,(中等段階以下の)教員経験のない私など「?」というか,ほとんど雰囲気でしかわからないような(いや雰囲気でもわかってないw)言葉の応酬ってよく見かけたものです。あれ,教員の人たちは分かってやりとりしてるのかなぁ?

録音しとけばよかったw 今ぱっといい例が浮かばない。「子どもの○○をとらまえる」とかって...違うか,これふつう?。えっとじゃあねぇ,伝達される意味としては「おまえら,○○せよ」という命令文なんだけど,それを「(私は,っていう主語が暗に埋め込まれつつ)ぜひとも○○したい」っていう,まるで当該命令を素直に内面化した主体なら吐露するであろうはずの一人称のモノローグ形式で言う,とか(←伝わってますか?)。あとは,なんか「おっさん」が教員目線で(能動形で)しゃべり始めてるはずの意味の文章なのに文末が受身形になってたり(←つまり,最終的に子ども目線の言い切りになってる),日常言語の日本語としては文法的に(というか形式的に,というか)不自然きわまりないはずの文章なんだけど,なんか雰囲気で「うんうん」みたいな?......なんかどれもぜんぜんうまく表現できてないw

...と,こういうのがエスノメソドロジーを身につけるともっと精確に捕捉できる,というので,みなさん,本書を読んでよく勉強してください(←宣伝)。

そういえばエスノメソドロジーじゃないけど,教育社会学だと酒井朗さんが日本の(中等段階以下の)教員はやたらいろんな場面で「指導」って言葉を使う,みたいなことを教員文化としての「指導の文化」ってどこかで命名してましたね(←出典確認できず。たぶん最初は学術論文で発表した内容なんだけど私が読んだのは,油布佐和子(編)『教師の現在・教職の未来―あすの教師像を模索する』教育出版,1999年のなかの酒井さん担当章だったような気がする←要確認)。

朝校門に立って「おはよー」って“挨拶する”のが「登校指導」,遊び時間に子どもと一緒に“遊ぶ”のが「遊び指導」,子どもが掃除の時間に掃除する様子を“みている(あるいは一緒に掃除する)”のが「清掃指導」,子どもが給食配膳するのを“みている(あるいは一緒に配膳する)”のが「給食配膳指導」,子どもと一緒に給食“食べる”のが「給食指導」,放課後帰宅する子どもに「さよならー」って“声をかける”のが“下校指導”(っていうか,「声かけ指導」という言葉もある)...以下省略。

これらはすべて,学校空間の外部で営まれる場合には,たぶん,「挨拶(する)」「遊び(/ぶ)」「掃除(する)」「給食配膳(する)」「給食(を食べる)」「声をかける」...という日常言語で“とらまえられる”はずだ(←使えた!)。

ところが,これらの日常的活動が学校という空間内部で教師-児童生徒関係のもとに営まれる場合には,そのほとんどすべてが「指導」の領域として抱え込まれていく――したがって,必然的に教師の職務と職務以外の境界線は流動的となり,職務の外延が傾向的にのびていき,領域が肥大していくドライヴがかかりやすい(「××先生,明日の「登校指導」,あたし子どもを病院つれてかなきゃならないから代わってくれない?」)という性質。最近だと「食育」とかね。「それ家庭のしつけだろ!」と教師も言うんだけども,一方で日本の教師の職場文化それ自体が「生活指導」も重要な職務の柱として取り込んでいる(ことを子どもをコントロールするための資源として教師自身も活用している)からこそ,↑上述のような逆説的なことが起こる。なかったはずの「指導=職務」が構築される。「登校指導」という概念が誕生することによって「指導」開始時刻の始点がずれ込み,他方で「下校指導」という概念が誕生することによって「指導」終了時刻の終点が逆方向にずれ込む=職務の長時間化=教師の多忙化,という流れ。国際的にみても顕著な日本の教師の「多忙感」の源が,教師の職場文化それ自体にビルトインされていることの指摘。

閑話休題

適当ついでに,もう一つ個人的な経験からいうと,「教育困難校」の日常世界を対象としたエスノ(グラフィーじゃなくて)メソドロジーってもっと多くなされてもいいように思う。最近だと岩本茂樹『教育をぶっとばせ―反学校文化の輩たち』(文春新書,2009年)とかの世界。関西の言葉でいう「輩(やから)」それ自体が独特のコミュニケーション・メソッドを繰り広げるやつらということで,定時制高校における著者(教員)とかれらとの打打発止のやりとりが中心となって記述されていくんですが,私が一番面白かったのは「輩」じゃない他の生徒とのやりとりの場面なんですね。

...しかし,今,この本のありかが分からない(引っ越しダンボールの空けてないどこかの箱に紛れ込んでいるはず)ので,当該箇所を示せません。えっとなんか,「輩」と違って普段はそんなには悪さしない男子生徒がなんでかその日は虫の居所が悪くて著者とトラブルになって大事になりそうな(退学もありえるようなトラブルに発展しそうな)緊迫した雰囲気の頂点に達したときに,関係ない女子生徒が“ぜんぜん関係ない,文脈的には意味不明の質問”をその場で著者にする,というシーンです(←なんか本の真ん中らへんででてくる)。

結局,本書のなかでも著者は“あの発言”の真意を確定させ(られ)ないんだけども,面白いよね,とそういう話。「教育困難校」で教壇に立つ,ってそういう意味での独特のコミュニケーション・メソッドに習熟する必要があるよね,と。

そんなわけで提言――エスノメソドロジーは教員研修にすんごく「役に立つ」研究実践ですので,ぜひとも教職大学院のカリキュラムに組み込むようアピール運動を組織するがよろし。こういう契機をとらまえたい。就職口も増えるぞよ。

エスノメソドロジーを学ぶ人のために

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教師の現在・教職の未来 - あすの教師像を模索する シリーズ子どもと教育の社会学 (5)

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教育をぶっとばせ―反学校文化の輩たち (文春新書)

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