四六答申と教育学

ゆっておくが,これは教育学「もどき」の書きなぐったメモである。

昭和42(1967)年に諮問され昭和46(1971)年に答申が出された中教審の「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」,いわゆる「四六答申」といえば,1990年代初頭までの(左派的←以後略)教育学の超ホットテーマであった。ここにその後の――中曽根・臨教審から90年代後半以降の矢継ぎ早の教育改革の源流があるというのはその通りであろう。アイデアとしてはすでにここに尽きている。教育の「多様化」「個性化」の文字もすでにこのときに登場している。その限りでは,現在に至る教育改革の怒涛の進展を,「中曽根・小泉ラインからの新自由主義という流れで現在の教育改革を捉える通俗的理解がまったくの誤りである」というのはまったく正しい(だって,たしか四六答申のときに「第三の教育改革」っていう臨教審のキャッチフレーズがすでに使われていたのではなかったか←要確認)。

ただ,それは,教育学者にとっては,あらためて指摘するまでもない“常識”だろうと思う。しかし“常識”というのは社会学的にみるとやっかいなもので,現実をみる参照枠そのものへの感度を失うと,たやすくあるべき理路を見失う(←っていう意味のことを苅谷先生がゆってた)。

閑話休題

イデアはあった。しかし当時は実現されたものが少なかった――昭和49(1974)年のいわゆる「教員人材確保法」(「学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法」)の制定,(前回エントリでもコメントなしで羅列しておいた)学校教育に関する実践的な教育研究の推進を目的とした新構想の教員養成3大学(兵庫・上越・鳴門の各教育大学)の文部省主導のもとでの設置(年号は前回エントリを参照のこと),さらに昭和51(1976)年に専修学校専門課程(いわゆる専門学校)の高等教育機関としての位置づけ,昭和56(1981)年には放送大学の設置,など。

中教審46答申で「既に教員の研修制の話も触れられている」からこそ,その結果,上記教員養成3大学が「現職教員の研修・研鑽の機会を確保するための大学院と初等教育教員の養成を行うための学部を有し,学校教育に関する実践的な教育研究を推進することを目的とした新構想の教育大学」として誕生するわけである。

この新構想3大学の設置を,日教組に対して文部省側がいわば“先手をうって”でたもの,とする解釈を是とするなら,「人材確保法」で教員給与を劇的に上昇させたことも,その系列のもとで評価することもむべなるかな。ただし,このとき議論の主流を占めたのは,教員養成大学を卒業しながら民間企業に就職する学生が後を絶たないという「人材流出」への懸念ではあったが。

なにせ,4年間という異例の時間をかけて誕生した46答申が議論されている期間は,ちょうど学生運動喧しき,あの時代である。

初等・中等段階に関しては,抜本的改革の議論はなされたが,当時実現しているものは少ない。むしろ当時実施された「改革」(というか施策)のうち,社会的な背景要因として重要なのは,昭和50(1975)年以降明瞭になる高等教育の定員抑制策(高等教育懇談会報告書による高等教育の計画的整備の提言,いわゆる「高等教育の量から質への転換」)であろう。

ここにおいて,高度成長期にみられた大学進学率の急速な上昇は“人為的にもたらされた”頭打ちの様相を帯びる。進学需要の急激な伸びとこのような高等教育政策の転換との函数として,「過度の受験競争」という,教育学による教育批判のあのクリシェへと繋がっている。ちなみに,新しい大学入学者選抜方法としていわゆる「共通一次」が初めて実施されるのは昭和54(1979)年。これが,その後,世界に冠たる「多様性」(←たぶん世界一だろう)をもたらす大学入学者選抜方法の「多様化」の源流である。大学への進学需要の受け皿が絞られることで過熱気味になった進学競争の圧力は中等段階における高校入試へも波及し,「偏差値」によるいわゆる「輪切り選抜」と呼ばれる実態が生じる(正確にはほぼすべての日本の子どもたちが巻き込まれるようになる)のもこの頃からである。たしか一民間教育産業から「偏差値」(という商品)が生まれたのは1970年代前半ではなかったか。高校段階での偏差値ランク,「普商工農」という学科ランク――80年代に栄華を迎える学校社会学苅谷剛彦・耳塚寛明などはすべてここから輩出した)が「高校間格差構造」と名指す日本の教育システムに固有の特徴は,このような背景のもとに形成されていくことになる。

しかし,制度改革という点でいえば,初等・中等段階での「多様化」「個性化」政策は,この46答申の段階ではめぼしい成果を収められていない。

当時の「多様化」は工業科を中心に職業科の比重を増すという方向性を目指していた。その意味では,職業科が重点化されるその客観的な量的比重うんぬんというよりも,戦後教育改革の最大の柱であった新制高校の「総合制」の理念を,もう完全に,明らかに,放擲するという大きな転換が,何よりも(理念をめぐるという正しい意味での)政治的な対立として教育学者の目に映ったであろうことは想像に難くない。

背景としての「受験競争」,偏差値による「輪切り選抜」,そのもとでの「高校教育の『多様化』」政策......だからこそ,当時の高校教育の「多様化」政策は,能力主義批判」という言表のもとに,教育学界からの強烈な批判と反発を招いた。「本来あるべき多様化は“横の”多様化であるべきなのに,これは“縦の”多様化,学業成績という一元化された“能力”にもとづいた子どもたちの序列化に他ならない」――といったたぐいの批判の言辞は,さまざまな変奏をともないつつ,この時期の教育学の文献のなかに夥しく簇生する。「高校の『多様化』」=「能力主義」...への「批判」。

その批判の論理を彫琢していくことによって,日本の「戦後教育学」は70年代から80年代にかけて究極の完成形へと近づいていった。少なくとも,外部からはそのように見える。われわれがいま「戦後教育学」と呼んでいるものは,「戦後教育改革」から遠く離れた70年代が産み落とした,「70年代の嫡子」だとみるべきなのだ。

苅谷剛彦先生が「能力主義と差別との遭遇」という卓抜なネーミングで指し示した,(アングロサクソン圏の)英語には翻訳不可能な「能力主義・による・差別」という独特の日本的平等観と,それに依拠した教育批判(という名の教育学)という言説構造。その形成プロセスを以上のように素描してみた(←ゆっておくけど,ここまで書き始めて1時間だからね,「質」まで問わないでね)。

さて,話を戻そう。

「中曽根・小泉ラインからの新自由主義という流れで現在の教育改革を捉える通俗的理解がまったくの誤りである」という言辞を是だとして(私は今のところこの立場だが),しかし重要なのは,その「誤り」(とみえるもの)をもたらしたものはなにか,ということである。

たとえば《新自由主義》とはなんだろうか。46答申→臨教審→教育改革国民会議→(以下省略),この流れをひとつながりのものとして見えなくさせているものは,それを見る側の準拠枠が根本的に変容してしまったせいだろうか,それとも同じ《新自由主義》という語で名指されているもののほうの底流における変容だろうか。


......ちょっとダメ,もう限界。頭まわらへん。あとはまたの機会に。

一つだけ,それでも書きつけておくとすると,やっぱり70年代に何かがある,っていうこと。印象論風にだけいえば,何かが“ねじれてる”。思えば,「戦後○○」って呼ばれているものの多くが,実は,この特定の時期に形成されているものだったりするわけである。


あ,なんでこんな書きなぐりをいきなり書き始めたかというと,金子さんのエントリが新鮮だったのでちょっと書いてみた,ということでひとつ。

乾彰夫さんの『日本の教育と企業社会』(大月書店,1990年)でいうと,副題の「一元的能力主義と現代の教育=社会構造」にみられる「一元的能力主義というのが↑でみた当時の教育学王道の批判の論理を象徴しています。

ついでに言うと,乾『日本の教育と企業社会』と苅谷剛彦『学校・職業・選抜の社会学』(東大出版会)とは“対”です。乾的(≒教育学的)そんな感じの話,に対する“方法論的アンチテーゼ”として苅谷先生のあの本は書かれています。

その経緯を踏まえると,実は,広田先生がこの間強調している「教育と政治のかかわりを問題化することの必要性」の議論と,その議論の延長上で(共著で)書かれている諸論考は――私自身はその方向性にコミットしているからこそ今があるわけですが――,少なくとも苅谷的教育社会学の方法的規準からいうと《退歩》(!)になっていると思います。

ここまでで1時間半。ちょっとやりすぎ(反省)。

日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造

日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造