研究課題は締め切りました&...(あんど,てんてんてん)

前回エントリで含みを残したままだった研究課題公募の延長ありやなしやの件ですが,残念ながら今回についてはやはり,ここで締め切りにさせていただきます。変な期待をもたせてしまった方がいらっしゃったとしたら申し訳ないです。ごめんなさい。

すでに力量あるメンバーがかなりの数集まり,研究上は現行で十分である,というのと,これ以上数が増えると事務手続き上の管理が大変,ということがあって,↑のような次第とあいなりました。後者の要素については,ひとえに私のキャパの小ささが原因なので,ほんと,申し訳ないです。

またの機会を。

もう一つ。意外なほどに「どうなったんだ,ん? まだはっきりしないのか。はっきりしたら教えてくれ」というご要望が複数寄せられましたのが,ここのエントリ(「偉くなること」)で展開された私のチャレンジの帰結如何でございます。ひらたくいうと,「怒られたら教えてね」ということでした。

結論から言うと,一回の電話,一日研究会,その後の居酒屋での懇親会,とこれだけ過ごして「怒られてはいない」。もっとも,「せんせ,もうあのエントリ読みました?」という間抜けな会話などしてるはずもないので,もしかしたら今日あたり,「お前ちょっと話があるから次の研究会んとき集合時間より1時間ほど早く来て研究室に顔だせ」とか呼び出されて説教をくらわないという保証などどこにもないわけである。

しかし,そんなことを言う前に,われわれはこう問うてみるべきではないのか。「はたして広田照幸に“怒る”権限があるのだろうか」と(←敬称略,以下同様)。いやお前が「怒られる気がする」つってたんだろうが,というツッコミはここでは禁止である。

国際的には冷戦体制が崩壊し,国内的には細川連立政権以降,ポスト55年体制を模索する流動的な政治状況が進行中の今日,文部省vs.日教組という図式ももはや無効になってから久しい。そんな複雑化・流動化したポスト冷戦期の教育政治の構図を「教育政治の三極モデル」として抉出し(『格差・秩序不安と教育』世織書房,2009年,376頁),自らも教育団体/教育政策双方との関係を構築しつつ,先行き不透明になった日本の教育の今後に羅針盤を提供しようと関与を継続しているのが,だれあろう,広田照幸,その人である。

後世の歴史家,教育学者には,だから,この時代の教育政治の羅針盤が「広田照幸」(のみではないにせよ,その重要な一角を握った人物として)によって与えられたことの歴史的意義というものを確定していただきたいものである。後世の歴史家/教育学者は,“われわれの現在ある教育システムは,あの時代,どのような人物によって,その方向性が与えられたのだろうか?”と問うことだろう(←なんか話がどんどんデカくなってきて,われながら収拾がつくのか不安である)。

私はその後世の歴史家/教育学者に,「広田照幸」というのは小雨ぱらつく酒田の街で,恩師と院生・女子2名を抱えて路頭に迷いかけたときに,自ら(骨の折れた)折り畳み傘をさして疾走する,そういう人物だったのだ,ということを知らしめるための「史料」を提供しているのである。いわば歴史的使命感!......自分でいうのも口はばったいが,そのように理解していただけるとありがたい(←あまりの自己正当化に自分でもいま目まいがした)。

ウェブ上の「史料」というものが,後世の歴史家によってどのように「収集」されるのか,現時点では想像もつかない。また,そこでの「史料批判」がどのような作法として体系化されているのかも想像がつかない。しかし,どのようにしてかはわからんが,この「史料」を見つけだした歴史家にはニンマリとしてほしい。「史料」の“行間”を読むのが重要なのである。

一言でいうと,「広田照幸」はある意味,すでに“公人”なのだ。それはとても酷なことだと私は思うけれど,彼自身が選んだ道でもある。その「酷」さに下手な同情を寄せるぐらいなら,今の状況のもとで自分にも最低限できることを見つけ,それをできる範囲で精一杯やっていくことのほうが,よほど大事だ。何分の一かでも,「酷」さを引き受けようとすることのほうが誠実だ。

そんなわけで,たぶん,私は怒られない。

それに,よく読んでいただければお分かりになると思うが,件のエントリ「偉くなること」も,それから以前ここで書いた話でも,話の「ほんとのボケ」の位置を占めているのは,実は天野御大である。そして,天野御大はこんな“ちんぴらブログ”などお読みになろうはずもないのである(←ということは計算ずくであったのか!)。

ということで,後世の歴史家にはぜひこの「史料」にアクセスしていただきたいものである。

その時代の「史料批判」がしっかり確立されていれば,「あーこの執筆者の書いたもんは“史料”としてはぜんぜんダメだよ。ブログで適当なことばっか書いてたやつで,ぜんぜん中身に信憑性なんてないから」といって,正しく打ち捨てられることであろうが。