偉くなること
ずいぶん長く部屋を空けていたので,くだらない話題で調子を戻しましょうか。
3月26日から28日にかけて,メンバーシップ制のある(らしい)若手部会のも含めて比較教育社会史研究会なるものに行ってきた(←いやこれはくだらなくないよ,このあとの話が,ですよ,いやまじで)。
とはいえ,身辺のバタバタ感満載のど真ん中の日程だったので,全部のイベントを消化できたわけではない。またしてもイスラーム圏セッションには出そびれた。若手部会のも含めて懇親会にも出そびれた(その割には最終日終了後にはなぜか「反省会」なる内輪の飲み会には出ていた。しかも「教え子」込みで)。
研究会は面白かった...けど,その話はおいといて。
私が出そびれた27日後の懇親会では,ありがたいことに(というべきか何というべきか),不肖,私の話題も飛び出たらしく,なかにはここの部屋の落書きを読んでくださっている方もお一人ならずいたという(←伝聞形)。
さて,そこで広田照幸である(←「先生」略。以下同様)。
「いやーぼくももりくんのブログたまに見とるんやー。あれ結構おもしろいんですわー」(←伝聞+妄想。以下同様)
ここまではいい。
「いやーもりくんも偉くなったもんやー」
ここもいい。職場が変わったことを喜んでももらえましたし。っていうか,以前,比較教育社会史の叢書にも一本寄稿されているYさんが某国立大学に異動になったときにも「いやーYくんも偉くなったもんやー」とゆってたのを聞いているので,これは酔っ払った時の広田照幸が職場を変わった後輩/教え子に対してのたまうデフォルトのような話である。
...話は変わって,もう10年も前の話...
私(と私の奥さん)が明日をも知れぬ大学院生の身で,広田先生が東大に着任してまだ間もないころ,山形県の鶴岡近辺をフィールドとしたかなり大規模な共同研究プロジェクトで私は広田照幸の薫陶を受けた。
当時はまだ日本で着手されたことのなかった,戦前期・中等学校所蔵の資料からマイクロデータを構築し,それを数量的に分析することで中等学校利用層の社会階層と社会移動を復元しようとする,かなり画期的な手法を指向したプロジェクトだった。
...未完である(忸怩たる思いである)。
それはさておき,このプロジェクトが画期的であったもう一つの要素は,戦前期日本に存在した各種の「中等教育機関」(ここは学術上,厳密には微妙である。「中等教育機関」とよぶべきか,「初等“後”教育機関」とよぶべきか)が,鶴岡近辺にほぼ一通り網羅されていた点にある。つまり,対象校すべてについてマイクロデータ分析が可能になれば,一地域の事例研究とはいえ,戦前期日本の「中等教育機関」利用層をめぐって一つの大きな見取り図を描くことが可能だったわけである。
男子“正系”機関の「中学校」,女子“最高学府”の「高等女学校」はもちろんのこと,「工業学校」,「農学校」,「裁縫女学校」,「実科女学校」などが調査対象校のリストに挙げられていたように記憶する。
もう一つ,戦前期の実業学校として重要な存在であった「商業学校」については,同じ庄内平野に流れる最上川の下流に広がる商業都市・酒田に「酒田商業学校」が存在しており,共同研究遂行中は私(も私の奥さんも)を含めて研究メンバーは何度か酒田市まで足を運んでいる*1。
こんな大規模なプロジェクトが動くためには,各学校はもちろんのこと,対象フィールドとなっている地域全体のバックアップがないと無理である。その点について,いろんな大人の事情を端折って言及すると,これが可能だったのは広田先生の師匠・天野郁夫御大がいらっしゃったおかげである。
そんなある日。
たぶん,酒田に行く用事があったんだ。その具体的な中身はもう知らん(←投げやり)。ただ,その日のメンバーははっきりしている。天野御大,広田照幸,私の奥さん,もう一人大学院生・女子,の4人(←この時点で,ここから以後のネタ元がうちの奥さんだということがバレているわけである)。
当時から謎だったのだが,その頃の広田先生は鶴岡に大学院生ともども滞在しているあいだ,「今日はご馳走してやるぞ」的な意味合いの日には決まって「寿司屋」に連れて行ってくれたのである。
いやそれがなにか?とか言われそうだが,ちょっと尋常でなかった。だって一次会で「寿司屋」でご馳走してもらったあとに,「もう一軒行こう!」みたいなノリで「次どこ行くんかなぁ...」と思っていたら,別の「寿司屋」に入ってまた寿司を食っていたのである。
んなら店移動せんでもよかったがなあぁ!
と,当時から思っていたのは私(と私の奥さん)だけでないことは,すでに確認済みである。
いろんな仮説が検討された。世代の問題か,出身階層の問題か,はたまた中国地方山間部(←あってんのか?)という出身地域の問題か...ともあれ,広田照幸にとって「寿司屋」に連れていく,というのは,最大級の“もてなし”を意味するのではないか,とか,真顔でしゃべってた記憶がある。
さて,その酒田の日にも「寿司屋」に寿司を食いに行く,という流れになったようである。どうやら酒田に「有名な寿司屋」がある,という情報を広田照幸が仕入れてきたらしく,まあ天野先生もいるし,せっかくだから 絶対 そこ行って食べましょう,みたいな感じだったのだろうと想像する。
だけど,場所がややこしかったわけだ。なかなか見つからない。こっちじゃないか?...いや違ったな,あれおかしいな。あっちかな?...いやでもあんなとこに「有名な寿司屋」がある感じでもないな......てなことでちょっと歩いちゃったわけだ。天野御大もいるのに。院生・女子2人抱えて。
きっと院生・女子2名は,広田照幸のあふれんばかりの温情にも冷淡で,「別に寿司じゃなくてもいいし」的アウラ満載だったことだろう。バチ当たりなことである。
一方で,天野御大に酒田の街をあてもなく彷徨させるわけにはいかんのである(広田照幸=私,天野郁夫=藤田英典,と変換してみると,当時の広田照幸の焦りは痛いほど伝わるわけである←おおげさ)。
小雨ぱらつく酒田の街。
「ちょっとあっちみたいな気しますけど,違うかもしれませんから,僕行って見てきます!」と広田。
それを見送る天野御大&冷淡な院生・女子2名。
今から思えば「いやそこ院生行かせろよ」的な思いもないではないが,そこはそれ,広田照幸の温情である(←おおげさである)。
広田照幸といえば,今はもう押しも押されぬ日本を代表する教育社会学,いやさ教育学の論客&教育団体/教育政策のブレインかつリーディング研究者である...が,知ってる人は知ってるが,ファッションセンスが若干残念なお人ではある。というか,気にしない人である。彼の研究上のお姉さん的存在であるYさんから聞いた話では――院生時代の広田くんが着ていたTシャツは首がだるんだるんになってて脇のところはおっきな穴が3つぐらい開いてるのに「まだ着れますわー」と言って着用していた/「これ今日新宿の駅のごみ箱に捨ててあったんですわー。まだぜんぜん使えますわー」といって嬉しそうに拾ったショルダーバッグを見せてくれて以後愛用していた/広田くんが院生時代に住んでたアパートは買い込んだ古本なんかがうず高く積まれていて,引っ越すとき本の山を動かしてみたら,窓から迷い込んだらしいかわいい雀が崩れた古本の山に閉じ込められて餓死していた/院生時代,私も広田くんも西武○○線(←池袋線だったっけか?)沿線に住んでて広田くんのアパートは電車から見えたんだけど,広田くん,いつも窓に足をかけて寝てて,それが電車から見えて,彼の足の裏が見えた日には「あ,今日は広田くんゼミ休むんだ」って分かったのね――,とか枚挙にいとまがないわけである。
その日にも,それはあった。使い込んだショルダーバッグ。そして,降り始めた小雨を避けるべくさした折り畳み傘は,悲しいことに骨が何本か折れていた。20度ぐらいの角度できれいに流れるはずのラインが,急転直下,75度ぐらいの角度で折れ曲がっているわけである。
そんな折り畳み傘をさしつつ疾走する広田...それを見やる天野郁夫...
「ありましたぁー,こっちですぅぅ!!」
と満面の笑みで帰ってくる広田。
その姿をみて(隣に院生・女子2名がいることも忘れたかのように),
「あれじゃあ“大先生”と呼ばれるようになるには,まだだいぶかかるなぁ...」と独りごつ天野御大。
......www
いい話である。天野先生は傍目にも愛弟子が東大を継いでくれたのを喜んでおられた。
で結局お前はこのエントリで何が言いたいのだ,と問われれば,
いや偉くなったのはあなたですよ,広田先生,
ということである。
私はこの話が好きである。しかし,若干ではあるが,「どこまで書いたら怒られるのだろうか」ということを確かめるためのチキンレースになっている感は否めない。
ただ,今年度,また広田照幸を代表とする共同研究が科研を通って,私個人としては鶴岡以来2回目となる広田科研メンバーとしてのスタートとなる。そういう意味では,いま一度思い起こさずにはいられないエピソードではある。
もう一つ言えば,このエントリから学び取るべきは,戦前期・日本の中等段階の教育制度がいかに“分岐”していたか,という歴史的事実である。だからこそ,敗戦後,アメリカの占領地となった戦後日本において「ハイスクール3原則」が輸入されたインパクトというのはいくら強調しても強調しすぎということはない。ドイツ的分岐型教育システムからアメリカ的単線型教育システムへ。
その延長上に戦後日本における「新制高校の理念」の重要性がある。その具体的な姿を,ここでは福井県の若狭高校の事例に即して確認していきたい。
ということで,見事なまでにペンディングになっている「『異学年型教科センター方式』とは何か」という話題に接続したではないか。
われながらあっぱれである。
しかし,さすがに今日のこれは怒られるのであろう,と思うわけである。
*1:「初等“後”教育機関」として,研究がもっとも進んでおらず,興味深い対象としては「実業補習学校」というのがあるが,ここの重要性だけは当時から研究プロジェクト内でも何度も話題に出ていたものの,未着手であった。意欲のある若手の方は挑んでみる価値はあるテーマだと思う。