社会移動と知識/技能修得(1)

教育社会学の教科書をひも解けば,教育社会学が分析の対象とする(学校)教育の社会的機能として「社会化」機能/「選抜・配分」機能/「正当化」機能の3つが挙げられている(か,前2者のみが挙げられている)だろう。そのうち教育社会学の発展の原動力となったのは,明らかに「選抜・配分」機能を問題とする研究の蓄積である。

とくに日本においては「学歴社会論」という独自の言説領域が生成・発展したことが特記される。また,90年代前半には日本の選抜・配分研究の2つの集大成が刊行される(苅谷剛彦『学歴・職業・選抜の社会学』(東大出版会,1991年)と竹内洋『日本のメリトクラシー』(東大出版会,1995年))が,これらは国際的にみてもまったく遜色のない日本の教育社会学の到達水準を示したものだといってよい。

言葉を換えていえば「教育と社会階層・社会移動」研究の発展である。あるいは,教育機会・職業機会の開放性/閉鎖性,さらには教育達成・職業達成の平等/不平等の問題を問う枠組みだと言い換えてもよい。

ところで近年のグローバル化の展開は,こうした教育社会学の発展を支えてきた枠組みの限界を露わにしつつある。それは「一国内での平等な機会への道程」を補助仮説として問うことの意味の限界。一つには「社会移動」が国境による区画を前提にしてきたことの限界ということであるが,より実質的な限界は少し違うところにある。

「社会階層」は主に「職業」という指標によってカテゴライズされ,個人はそうしてカテゴライズされた「社会階層」の体系のどこかに位置づけられる(「社会的地位」)。「社会移動」は個人の社会的地位の変化として把握され,その変化の履歴をトレースすることで社会の開放性/閉鎖性に言及する,というのが社会階層・社会移動研究の基本的なスタイルとなる。

この社会移動のプロセスに学校教育が重要な要素として関連しているのは明らかだから,教育社会学の存在感はこのラインで増大してきたといってよいだろう。そして事実,そこから数多くの重要な知見が生み出された。

ところが,こうした研究枠組みからは零れおちてしまうものがあって,それが「職業」を「社会階層」概念に抽象化することで捨象されてしまった「労働」そのもの,あるいは労働世界における知識・技能の有意性といった問題群であったり,個人の「社会移動」プロセスに随伴する知識・技能の修得あるいは流通といったプロセスを問う視角であった。

ざっくりいうと,教育社会学は選抜・配分研究に特化していくなかで,(学校)教育の「社会化」機能を捕捉する方法論を彫琢することなく今日を迎えているといってよい。「社会化」という言葉の語感や背後にある理論前提(←そんなものがあるとして)を嫌う向きには,「教育を受けること/学習することを通じて知らなかったことを知るようになったり,できなかったことができるようになったりするような変化」ぐらいの意味にとっていただいて結構である。

もっとも,教育社会学が(学校)教育の「社会化」機能を捕捉する方法論を“まったく”彫琢してこなかった,と言ってしまうとそれは少し不当に行き過ぎた評価である。ここで重要な試みとして広田照幸『陸軍将校の教育社会史』(世織書房,1997年)を挙げておいてもいいだろう。

陸軍将校養成機関への「選抜」の実態の分析(第一部),陸軍士官学校・幼年学校に入校以後の意識構造の変容過程(=「社会化」過程)の解明(第二部),将校教育を受けてのちの職業軍人としての客観的な社会経済的境遇(=「配分」)とその状況を解釈するかれらの意識構造との関係性の解明(第三部)という作業をつうじた実証作業は,「選抜・配分」(社会移動)と「社会化」(意識構造の形成・変容)とを接合することで具体的な実証課題の解明に至ろうとする方法論として,参照されるべき一つの優れた例示となっている。

とくに将校への社会化を扱った第二部において,教則レベル・日常的相互行為レベル・内面レベルの各層について,カリキュラムや精神教育を目的とした訓示・訓話や生徒の作文・日記等の資料を駆使して意識構造の変容を経験的に捕捉しようとする実証作業の手つきは,教育社会学の世界でもう少し広く参照されてもよいはずだ(「テーマが違う」といって見なくて済ませられるものではない)。

最終的には重大な問題が残されたままだとは思うが,日本語で読める教育社会学の研究で,「選抜・配分」と「社会化」とを架橋しつつギリギリまで「現実」に接近した研究として銘記されてよい(そして付記しておくとすれば,こうした方法的模索は,「イデオロギー教育の内面化図式」とかれがいうところの教育史学という隣接領域の研究蓄積との対峙のもとで鍛えあげられたものである)。

教育と職業/労働との狭間の問題を取り扱うに際しても,これと同等の緊張度をもって方法論的彫琢が必要であるはずだと思う。にもかかわらず,そこの試行錯誤が伴わないままに,「職業教育・職業訓練」の意義の啓蒙のみが突出して先行してしまっているのが,現在の本田さんが置かれている状況だと思う。

金子良事さんのエントリに私がつけたブックマークコメント(“「「職業教育及び職業訓練を通じてどんな専門スキルと汎用スキルが身につくのかということ」を経験的に捕捉する方法とは?”)というのは,したがって,このような理路のもとに漏れ出した私の独り言のようなものであって,わざわざ追記を頂いて恐縮です,というのが本エントリの趣旨である。

強いて言えば,教育社会学の文脈で「『職業』を『社会階層』概念に抽象化することで捨象されてしまった『労働』そのもの,あるいは労働世界における知識・技能の有意性といった問題群であったり,個人の『社会移動』プロセスに随伴する知識・技能の修得あるいは流通といったプロセス」を経験的に捕捉する方法論を模索するうえで,企業内における労働者の技能形成の問題を扱ってきた領域の研究蓄積からの示唆を求める下心ぐらいはあった(というか,ある)けれども。

私自身は,本田さんの職業的レリバンス論が最初提出されてきたとき,悪くない,と思ったものだ。「すべての高校を専門高校に!」とかいう提言までいくとついていけなかったが,「レリバンス」という視点が教育社会学の「選抜・配分」研究系の研究者から提示されたことの意味のほうが大きいと考えたからだろうと思う。「教育/学習内容」そのものを問う視点

で,ここから先は本田さんの諸論へのコメントを展開することになってしまうわけだが,そんなことをやり始めるとどこまで続くか先が見えなくなってしまうので,今日はこのへんで退散することとする。

本エントリの結論をふたたび繰り返しておくと,金子さん,お手を煩わせました,ありがとうございました,ということである。いやほんとに。

陸軍将校の教育社会史―立身出世と天皇制

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