教育の「個性化」「自由化」は必ず「教育の格差」を拡大させるか?

↑まあ,「個性(化)」とか「自由(化)」という言葉をどういう意味で用いるか,に依存するわけだが。

昨日,日本の個別化・個性化教育のメッカ(?)愛知県東浦町にある小学校まで出向き,研究授業(というのとも若干違う趣旨の授業公開だったんだけど)を見た。

1970年代半ば以降,日本では東海地方を中心にオープンスクール運動を起点としてアメリカの個別化・個性化教育の理念と実践が本格的に紹介・導入され,90年代以降は教育政策上も新学力観への転換や「総合学習」の設置といった形で実現・定着したといってよい。

ところが,近年はこの個別化・個性化教育には強烈な「逆風」が吹いている。「学力低下論議は,実証的な根拠も欠いたまま(←というのは二重の意味で。学力が本当に/どの程度「低下」したのか,という検証が不十分であった点と,“「低下」したとして”それは本当に教育における「個性(尊重)化」が原因なのか,という検証が皆無の点と),教育における「個性(尊重)化」や「自由(尊重)化」が「学力低下」の真因だと決めつけ,教育思潮や教育政策の舵を大きく右旋回させていったこの数年。

そして,日本の教育社会学はこの右旋回に重要なアクターとしてかかわってきた。

グローバル化の全面展開が不可避の情勢となり,教育と社会の新自由主義的な再編過程の進展をどのように把握し問題提起するかが教育社会学の最大の論点となった00年代前半。

新学力観や総合学習が政策化・制度化された90年代以降,一方では学力や学習意欲・学習態度の階層間格差の問題に関する実証的解明の試みがなされるようになった。とくに苅谷剛彦は学力・意欲の階層間格差拡大をもたらした政策的・制度的要因として90年代以降の学習指導要領改訂を含む諸改革を位置づけ批判する先鞭をつけた(『階層化日本と教育危機』有信堂高文社,2001など)。これが一方のテンプレ。

もう一方では思想的次元の議論として,臨教審以降の「教育の個性化/自由化」がマクロな経済・社会政策レベルでの新自由主義的・市場主義的改革を下支えする基盤となったことを批判する議論(大内裕和『教育基本法改正論批判』白澤社,2003など)。

ここにはちょっとした「ねじれ」がなきにしもあらず。一方で,格差拡大を実証的に解明する教育社会学の批判の論理と,「伝統」「道徳」「公共の精神」を鼓吹する右派的教育観とが,「個性」や「自由」,「意欲・関心・態度」を過度に重視した(とする)教育観の政策化・制度化を批判する点において共振する現状。

他方では,新自由主義的・市場主義的改革と,まさに上述の右派的教育観にもとづいた国家主義的改革とが思想的な「両輪」として教育基本法の改定をもたらしたとする現状認識の主張(大内さんの議論はその典型)。90年代以降の「意欲・関心・態度」を強調する教育改革をめぐる理解の「ねじれ」現象が存在しているようにみえる。

しかし,そこには共通点もある。いずれも,90年代以降の改革の起点となった先駆的な教育理念・実践そのもの,あるいはその導入・定着過程そのものを検討の対象にはしていない。

1970年代以降,「詰め込み教育」批判や「学校ぎらい」を理由とする不登校の増加への批判と重なる形で,それまでの一斉授業型の学習に対する批判に立ったオープンスクール運動と個別化・個性化教育の理念が新しい実践としてアメリカから導入される。加藤幸次といった理論的指導者・紹介者の登場とともに全国個性化教育研究連盟が84年に設立され*1,本格的な教育理念の理論的・実践的な展開がはかられた。

しかし,上述した日本の教育社会学の議論潮流にはいずれもコアな先駆的実践そのもののへ思想的・実証的評価はなく,社会の全体的な変化の動向をこれら運動の通俗化(=政策化・制度化)の帰結として論じるものにとどまる*2

英米の教育社会学ではすでに1970年代に社会階級論的観点からオープンスクールの教育実践が有するネガティブな効果に関する議論が展開される。実証的検証では,オープンスクールか否かの学校変数そのものは全体的な平均値に影響をもたないが,社会階層要因との相互作用において,階層的背景の有利な子どもほど学業面での優位さがもたらされる傾向が指摘される。理論的には,「見えない教育方法」(←でた!)と新中間階級の階級文化との親和性が学力の階層間格差をもたらすとするB.Bernsteinの議論(「階級と教育方法」カラベル&ハルゼー編『教育と社会変動(上)』東京大学出版会,1980)などが展開され,輸入元であったアメリカの地ではオープンスクールそのものが70年代後半には下火になる。

それに対し,日本ではオープンスクール実践の実証的検証そのものが僅少である.わずかに80年代後半に国立教育研究所が実施した学力定着度と学習行動形成の実証的検証(『国立教育研究所紀要』114・118号)や,90年代以降に卒業生を対象とした郵送質問紙調査があるが(←出典はあえて明らかにせず),いずれも少なくとも教育社会学の関心からすると学術的吟味に耐える水準のものではない。致命的なのは階層変数をネグっちゃってるところ。

で,すべてが実証的検証のないまま,はやって,すたって,での今日である。念のため申し添えれば,←ここは教育社会学者も含めての話。

苅谷先生はここで非常に重要な言説産出者として振る舞うことになった。かれが80年代の「カリフォルニアの実験」のネガティヴな帰結(=人種・階層間の学力格差の拡大という“実証的”根拠)をことあるごとに引いてくる議論スタイルは,かれのエピゴーネンたちをして,“「教育の個性化/自由化」はいついかなる社会的文脈においても格差を拡大する”という別様の神話を反復させるもととなった。

日本の個別化・個性化教育をきちんと歴史的に検証・評価してみたい,と考えたのは,こうした周囲の教育社会学者の語り口を背景として,(1)でも当時の個別化・個性化教育の教育理念・教育方法を説いた理論書を読むと「そんな簡単な話ではない」よねっていうことと,(2)アメリカの教師の能力観・教育観と日本の教師のそれって,また極端に違うしね,ってことで,今日に至る。

個別化・個性化教育は「指導の個別化」と「学習の個性化」がその理念・実践を支える両輪である(詳細は省く。愛知県東浦町立緒川小学校『個性化教育へのアプローチ』明治図書,1983年など)が,前者「指導の個別化」は明らかに(理論上は)低階層出身/学業不振の児童・生徒に対して有効なアプローチであるように映る。

また,戦後日本の教師が歴史的に共有してきた「能力の可塑性」を強く信じる指導スタイル(これは苅谷先生ご自身が「能力主義と『差別』との遭遇」*3をはじめとして事あるごとに強調してきた論点)は,能力の天与の差異を前提とした能力観にもとづく英米型指導スタイルの極北にあるはずのもの。「カリフォルニアの実験」の実証的検証のなかで明らかにされた“子どもの階層や人種によって異なる教師の働きかけの差異”みたいなものが日本の教師にもみられるはず,ってのは単なる(検証の伴わない)思い込みの話。

で,冒頭の東浦町の小学校である。

石浜西小学校という。全校生徒230人弱。その3分の1がブラジルからの移民家庭出身者。学校の周囲を巨大な県営住宅が取り巻いており,在校児童は全員そこから通ってきている。つまり,貧困層家庭の子ども(のみ)によって構成される小学校。

......しんどい。

子どもがしんどいのはもちろんだが,教師もしんどい。ふつうの一斉指導式授業ではまったく授業が成立しなかったのが3〜4年前までの実態。全国学力テストの結果も推して知るべし。

どうせ授業が成立しないんなら,と破れかぶれのダメもとで取り組み始めたのが,30年前に東浦町で全国の話題をさらった,あの個別化・個性化教育の実践(の遺産)。

私が昨日みせてもらったのは,「○○学習」(←まるまる・がくしゅう,と読む)と当校で呼ばれている「2教科同時進行単元内自由進度学習」の時間と,同じく「わくフリ」(←「わくわくフリータイム」の省略形)と呼ばれている「総合的学習の時間」の発表会。

一言で感想を述べると,成功している,と思う。学校が落ち着いている(←当初は相当“覚悟”していっただけに一層印象的であった)し,子どもも快適かつ積極的に学習しているようにみえた。全国学力テストの結果も向上中だという(←ただしこれは関係者の証言のみにもとづく)。公開授業が終わった後の全体会での教師集団の様子もみせていただくに,職場のモラールも依然より高まってきている,手ごたえを感じてきているのではないか,と推測された。

もちろん,問題がないわけではないだろうし,何より教育実践の効果をはかる確かな検証が必要ではあるだろう。

しかし,いずれにしても石浜西小学校の挑戦はちゃんとした検討に値すると思う。これまで日本の個別化・個性化教育は,都市近郊農村を典型とするような,「極端な貧困層がおらず」,「子どもの出身階層上の多様性もさほど大きくなく」,「地域社会が安定しており」,「子どもの教育に対して一定の関心を広く有している」が,他方で「学校や教師に対する地域の大人たちの信頼が厚く」,したがって「学校・教師は生徒指導や保護者からのクレーム対応に忙殺されることなく学習指導の研究・実践に集中できる」という,例外的に(といってよいほど)学校・教師側にとっては“恵まれた”ところにのみ導入・実験されてきたという経緯がある。

アメリカでも,成功事例はきまって白人・中産階級といった出身背景に偏った子どもたちを集めた学校に限定され,それを政策的に全州規模へと拡大適用させるや否や教育現場に大問題・大混乱が生じてしまい,あっという間に路線転換,ということの繰り返しであった(ダイアン・ラヴィッチ『学校改革抗争の100年』東信堂,2008年)。

だが,石浜西小の実践は「教育の個別化・個性化」こそが「教育の格差」への有効な対抗手段だという可能性を示唆する。

もしもこの可能性の直観に妥当性が確認できるとするならば,その背後にある要因は,私の仮説では「教師」という変数である。日本の教師の「働き方」の固有性,と,日本の教師の(子どもに対する)能力観の固有性,それゆえの教育観の固有性。日本型指導スタイルの国際的にみた場合の特殊性に,重要な要因が潜んでいるのではないか,と思っている。

↑これらはこれまで教育(社会)学の領域では論じられることこそあれ,その多くは否定的な文脈において,であった。

今日においても,移民家庭出身者を多く抱える学校でのフィールドワークをもとにした研究のかなりの部分は,↑こうした日本の学校文化(=教師の指導文化)を,「多文化共生」の理念に反した日本社会への「同化」に偏するもの,という文脈で評価することが多い。

私の仮説は,こうした「否定的」な指導文化の基盤のうえに個別化・個性化教育の理念と実践が“適切に”のっかったときに,「教育の格差」と有効に対峙しうるだけの技芸(アート)が展開されるのではないか,とする“希望的予測”である。

まあ現在進行中の研究(科研あたっちゃったんで)ではあるんですが,必要であればブログで手の内明かします。必要な研究は,多くの研究者が協働して豊かなものにしていくべきだ。そういうのを「研究者共同体」とよぶ。建前であっても幻想であっても,建前や幻想こそが重要,な局面というのは,ある。

フィールドワークが得意な人,望む。ただし,フィールドは荒らすなよ。

そんなこんなの1日だったのであるが,最後の最後まで,

で,2教科同時進行単元内自由進度学習,って「公文式」とどこが違うんですか?

...という質問はできなかった私である。

いや違うんだけどさ。ま,いずれまたそのうち。今日はここまで。

階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ

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教育と社会変動 上―教育社会学のパラダイム展開

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個性化教育へのアプローチ (オープンスクール選書 (7))

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学校改革抗争の100年―20世紀アメリカ教育史

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*1:2008年に日本個性化教育学会に名称変更。

*2:というよりも,たぶんほとんど参照すらしていない。もしかしたらまったく知らないんじゃないか?

*3:『教育学年報』(世織書房)掲載ののち加筆修正のうえ『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書,1995年)にたしか所収。