ありやなしや,と

ブログ界隈で地味〜で堅実な資料調査をされている歴史家の様子を垣間見るにつけ,そういう作業がなんにもできていない最近の自分が悲しくなるのであった。ま,ぼく歴史家じゃないっすけど。

そんなこんなで現在の職場でやるべきすべての講義を終えた。最後の講義は「教育の社会制度論」という教職科目(教育の社会的,制度的又は経営的事項に関する科目)。2年生対象。

直接には小学校教員免許に対応した科目であるため受講生の大半が小学校教員志望の学生なのだが,学内制度的に保育コースの学生さんもこの講義を受講する必要が出てくる。そういう学生は最初めんくらうだろう。いわゆる「保育」的な感じの講義・実習・演習の極北にあるような私の講義。

私の講義,うちの学生のあいだでは「難しい」という評判で通っているらしい(←伝聞)。ありがたいことに,どうやらそのあとに「でも面白い」とか「タメになる」と付けてくれるらしいが(←伝聞)。

そりゃそうだろう,私が創ろうとしている講義の雛形は「藤田英典」スタイル。圧倒的な(っていうほどでもないが)情報量を濃縮してロジカルに組み立てる,っていう感じ。あの師匠にして,この弟子あり。

ただし藤田先生お得意の枕詞「みなさんご承知のとおり・・・」ってやつは絶対やらない。藤田先生が「みなさんご承知のとおり・・・」とやらかすときには決まって藤田先生以外に「ご承知」の人間などその場にいないという,あれである。でもそんなのご法度です,せんせー。そんな枕詞使ったとたんにうちの学生は貝殻に閉じこもるヤドカリのようになって帰ってきてくれませんっ。

東大で非常勤の依頼があったときに東大的講義のスタンダードがわかんなくって(30過ぎて)東大・大教室の教職科目にモグってきたうちの奥さんが私のシラバス・試験問題見てちょと絶句した,というくらいの密度のようである。

すぐ役立つノウハウ論,(だけ)ではなく,アカデミックな水準で“ちゃんとした大学教育”というものに触れてから(面白い,と思ってから)社会に巣立って欲しい,というだけの動機なのだが。せっかく“大学”来たんだし.

保育コースの学生さん以外は1年生の教職科目「教師論」で,そんな私の洗礼を受けていらっしゃる。ありがたいことに2年時の講義冒頭ではすでに「あったまった」お客さん状態なのだが,保育コースの子は最初,かなりの確率で拒否反応を示す。アカデミック系ストロングスタイルの講義受けても「保育」に直接つながってるとも役立つとも思えんしね。だいたいこの大学には資格取りにきたんであって難しい話し聞きにきたんじゃないんだよ。

けれども,ここから強調なんだけど,ちゃんとした講義やってたら,そういう学生もぜったい食いついてくるようになるから。職業資格とるためだけに進学してきた(ように見える)学生も,ぜったいアカデミックな講義の魅力にとりつかれてくれるから。その意義を感じ取ってくれるから。

最終回のレスポンスカードのなかから一枚。指定校推薦で入学してきた「保育」コースの学生さん。女子。

この授業を受けるまで、こんなこと考えたこともなかったし考えたくもありませんでした。難しそうだし、そんなこと自分が考える問題だと思っていなかったからです。でも教育がイギリスの首相が言っていたように大切なのだから、カリキュラムを考えたり子どもたちとかかわる自分にも関係する事だし自分も考えなきゃいけないことなのかなと感じるようになりました。

先生の授業は今までの授業で1番たのしかったです。1年生の時にわからなかった制度のことも前よりわかるようになった気がします。ずっと聖徳にいてほしかったです。●●(←まだ伏字)に行っても元気で頑張ってください。

「イギリスの首相」ってブレアのことをちょっとしゃべったから。

さて,このエントリは何を言いたいかというと,自分の仕事ぶりの自慢話だという疑いが濃厚なのだが,そうでもなくて,こう問いたいのである...

...ところで,こういう私の講義に保育士(あるいは初等教員)になるための職業的レリバンスはありやなしや,と

あぁ,これまで敬して遠ざけていた(←正しい?)レリバンスばなしに首をつっこむのか? やめといたほうがいいのではないのか? どうだ.