(理論科研の予習をかねて)戦後日本の社会構想

高原基彰(2009)『現代日本の転機―『自由』と『安定』のジレンマ』日本放送出版協会

いただいてからずいぶんほっぽってたので(すみません)...

「73年の転機」以降を「現代日本」と把握する見方というのは“あり”かもしれん.

国際的に普遍的な動向と日本に固有の歴史的文脈とを分節することで,「73年の転機」以降の「福祉国家から新自由主義へ」という国際的な潮流に反して日本ではいくつかの政治的・思想的な「ねじれ」が発生したことを歴史的に跡づけ,オルタナティヴな社会構想が見当たらない閉塞した現在の日本の政治的・思想的現状に風穴を開けようとする意欲作.

著者によれば,戦後日本を規定した3つの社会構想は,むしろ「73年の転機」以降にこそ政治理念としても社会制度としても完成をみる.これが日本に固有の歴史的文脈を形作る.さてその3つの社会構想とは,「自民党型分配システム」「日本的経営」「日本型福祉社会」.ひらたく言いかえると「(中央-)地方」「会社」「核家族」の3点セット.

国際的モデルとしては同時的に生起した「福祉国家の崩壊」と「長期雇用の放棄」だが,同じ時期に(1)日本では(単にアメリカがもたらした国際的分業体制の帰結であるという指摘込みで)「日本的経営」と「日本型福祉社会」はその経済合理性ゆえに経済界によってむしろ称揚されたことで延命・強化され,(2)のちアメリカからの内需拡大の「外圧」を根拠として地方公共投資を中心とした「自民党型分配システム」も延命・残存していく,という2つの「ねじれ」.

その結果,日本では新自由主義が「延期」される形で90年代までずれ込むことになり,経済界が独占的に支えてきた3つの社会構想=社会制度が突然放擲されたのが90年代以降の日本である,と.そして,上述した「ねじれ」ゆえに政治的・思想的な「左右それぞれが社会変動の分析の照準を見誤っていくのが日本における『73年の転機』だった」(128頁)という.

そこでいう日本における左右の政治的・思想的対立項とは...

「右バージョンの反近代主義」:
自民党型分配システム」「日本的経営(≒“会社”)」「日本型福祉社会(≒“核家族”)」の3点セットがもたらす「超安定社会」の理念.その最も優れた形での理論化が村上泰亮による「新中間大衆」論だという.ただし,これが「平等」ならざる「安定」の理念にすぎないと著者によって指弾されるのは,この社会構想が「正社員とそれ以外との身分の峻別」を前提とした「身分制」によって秩序づけられたものだったから.

「左バージョンの反近代主義」:
「見果てぬ夢」として希求される「自由」の理想,官僚制的組織への没個性的な献身を強制させられることからの解放,そして個々別々の「弱者」「少数者」の立場の擁護の自己目的化,によって特徴づけられる思想.

しかしまあ,思想的にも制度持続のための機能面でも,「左バージョン」は「右バージョン」がちゃんと存続してくれていることを前提にしていたこと(依存していたこと)が明白.

その前提を支えてくれていた財界が3点セット社会構想を放擲してしまったことで,左右各バージョンの「反近代主義」以外に日本社会には未来を賭すに値する社会構想のオルタナティヴが不在であることが露呈.著者によれば,現代の日本を覆っている無力感や閉塞感,そして蔓延する被害者意識の根源はここにある,と.

経済界が率先してこれらの構想[=3つの社会構想:引用者]を放棄していった.その後に明らかになっていったのは,「超安定社会」の理念が長く影響力を保つ中で,会社と核家族以外の社会構想が何一つされてこなかったことである.(224頁)

こうして議論が極端から極端にぶれるのは,日本ではあまりにも過去が早く忘却されるからであり,その理由は,「超安定社会」と「見果てぬ夢」という,左右の反近代主義の間で,包括的な政治の理念対立が形成されてこず,特定のミクロな主体ばかりが批判されたり自己主張したりしてきたからだと思う.(235頁)

「自由」への不信から,「超安定社会」へのノスタルジーが導き出されるとすれば,限られた「身分制」の内側に自分さえ入れればよいという不寛容さが蔓延していくことにしかならないだろう.(238頁)

問題なのは,「超安定社会」の右バージョンの反近代主義は,会社と核家族のセット以外の社会を何も構想しなかったこと,あるいは社会をそこに一元化することで他の可能性をすべてふさいできたことである.・・・1960年に,軍国主義体制への回帰を放棄し,経済成長に集中することを選択した日本国民は,70年代には,こうした形の「安定」を望み,中央からの分配を当てにする下位集団を,日本全土に形成していった.部分的に生じた軋みは,配分を約束しながら低賃金で使える周辺集団を調達する弥縫策で対処可能だと考えられていた.その中央からの分配が期待できなくなると,すべての主体が「裏切られた」という被害者意識を持つことになった.(247-248頁)

「自由」の理念も信用できない今,新自由主義の容赦のない推進か,身分制をともなう「超安定社会」の椅子を相争うかの間にしか,選択肢はないかのように見える.これが私の考える,現在の日本における無力感と閉塞感,蔓延する被害者意識の源である.(249頁)

といったまとめで.

基本的には著者(1976年生まれ)より若い読者が「へーそうやったんやー」と“学んで”くれることを望んでる書.細かいことグダグダいわんとガッと流れつくったれやー,という勢いがよし.

一読して思ったのは,んじゃ“被害者意識の蔓延”とか“被害者意識の正体”(本書の帯から)とかって結局“超安定社会≒総中流社会”のネガだという歴史観なのですね,と.「超安定社会」の「多幸感」の反転としての「多“不幸”感」であると.

率直に言って非常に意外だったのは,こういう試みを目指した著書のなかで,分析のなかに「教育」という変数がまったく挿入されていないことに驚きました.赤木智弘さんの議論など,背景として進展した「高学歴化」の様相を参照することなしには理解できない気がするのですが.

教育社会学くずれの者がこういうことを言うとまた「実は教育学への秘かな信仰告白」wwwwww(佐藤俊樹2004,書評『近代日本の教育機会と社会階層』*1)とか言われそうですが,社会全体の学歴水準の急上昇というのは非常に重要な変数なのではないか,と.

さらに追い打ちをかけると,高学歴化と結びついていた社会移動の構造変動のプロセス(≒「農民層分解」)と,その結果もたらされる「生活構造」の標準化プロセス(から90年代後半以降に顕著になる社会全体としての“脱標準化”プロセス)ということ.

70年代以降の「左バージョンの(以下省略)」が錦の御旗にした(って言っていいのかなほんとに?)「少数者」という理念が,「少数者以外の『普通の日本人』は均質であり総中流である」という観念を前提にしていた(148頁)という著者の指摘はその通りだと思いますが,私としてはそこに,「大東亜帝国」の瓦解によって新たに限定・区画された「領土」(4つの島)と「国民」との対応関係が戦後日本を規定したことなど,敗戦による「日本」の〈初期化〉の影響をみることに重きを置きたい.

「左バージョンの(以下省略)」とは別ルートでの,思想的賭金としての〈敗戦〉.

もう一つ,重要な課題として残るのは「自民党社民主義」の区分けと,その限界と可能性の再評価という問題.「自民党型分配システム」と一括して切ってしまえそうなもののなかに混在していた個別主義的な裁量行政に直結する利益誘導路線と普遍主義的な社会民主主義路線とを切り分けて把握する必要性.それが「疑似社民主義」だというならば,どのような意味で「疑似」であったのか,など.

具体的な「実証がない」とか「政策提案がない」とかいう批判はどうでもいい(著者はちょっと気にされてるようですが).問題は“こういう水準のお話”そのものとして評価した際の分析の「耐用年数」の問題なのです.「ガッと勢いで書いた教育社会学の歴史研究が10年もったら教育社会学の勝ち,10年もたずに教育史にひっくり返されたら教育史の勝ち」とのたまった某御大の言葉が妥当かどうかしらんけど,まあそんな感じの問題.

教育システムに対象を限定したうえでもう少し丁寧な実証と考察を加えていく予定があるようですが(←「他人事」風),本書を参照させていただいたうえで,どれくらいの「耐用」があるか検証させていただこうかと思います.

そういう意味ではよい本だと思います.

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

*1:私がこれまで読んだ佐藤さんの文章のなかで(結構読んでる方だと自負していますが)最も低質の文章.この文章と菊池本との関係性に現れている問題というのはかなり本質的な問題ですので,いずれこの宿題もブログ上で解決しておきたいと思います.