[教育[社会][歴史] 対話の相手

比較教育社会史研究会を2002年以来,ずっと引っ張り続けてきた橋本伸也さんの新著を頂いたこともあるので,ちょっとだけ.

川本隆史さんからご恵送いただいた「格差原理・デモクラティックな平等・租税による支えあい―“溜め”のある社会をめざして」(日本哲学会『哲学』第60号,2009年4月)から.

ロールズの「格差原理」「デモクラティックな平等」からカントの租税論へと跳躍する論考.現代の「格差拡大」と「貧困」の前景化にともなって喫緊の課題となっている「セーフティネット」や「支えあいの」の仕組みをどのように基礎づけるか.自分がふだん考える考え方とはもちろん方法論は異なるのですが,むしろ問題関心の所在の重なり具合のほうが重要かと.

たとえばカントからの次のような引用,

「最高命令者には間接的に、つまり民衆の義務を引き受ける者として、民衆自身を維持・扶養(Erhaltung)するために民衆に租税を課す権利が帰属する。たとえば民衆を維持・扶養する制度としては、救貧施設、捨子養育院、教会の施設、その他に慈善基金篤志基金と呼ばれるものがある。
 普遍的な民衆の意志は、恒常的に維持されるべき一つの社会へと自らを統合したのであり、社会はこの目的のために対内的な国家権力に服従して、資産がなくて生計を維持できないその成員を扶養する。したがって以上のような国家〔成立の本旨〕に則って、政府は必要最低限の自然本性的な諸要求すらままならない人たちを維持・扶養する手段を、資産家を強制して調達する権限をもつ。・・・・・・それは国家の必要のためではなく(というのも国家は裕福だから)、民衆の必要(Volksbedürfinissen)のためである。・・・・・・[貧民の扶養・扶助(Versorgung der Armen)のための手段としては:重引用者]継続的な拠出が、だれからも生きる権利を奪うことのできない国家がもつ権利にふさわしい唯一の措置と見なされなくてはならない。」
「貧困あるいは羞恥心から捨てられる、それどころかそのために殺されたかもしれぬ子どもたちの保護について言えば、たとえ歓迎すべき仕方の増大ではなかったにせよ、国家資産のこうした増大を故意に減失させない〔=捨子を放置して死なせはしない〕という義務を、民衆に課す権利が国家にはある。しかしこうした措置が、[具体的にどのような正当な仕方でなされうるのか、という:重引用者]この問題は、法にも道徳性にも反しない解決が図られていない課題の一つである。」(川本(2009)43-44頁より重引.「第一部 法論の形而上学的基礎論」『カント全集』第11巻(岩波書店)171-173頁)

なかなか,な含みのある叙述ではある.私個人の身の回りに近いところでは,比較教育社会史研究会と接しながら共同研究として進行中の「福祉と教育」の境界線上に対象をおいた歴史研究は,これ↑とテーマを共有しているのではないかと思います.

地道で確実な実証研究を積み上げていくことが、こういう↑問題を考察する基盤としてどういう貢献をなしうるのかという点についてはまったく不透明と言うしかないと私自身は思うけれども(しかし必ずやるべき試みだろうとは思うし,だからこそ現にそういう共同の試みにも参加しているわけだけれども),少なくとも問題関心の所在はまったく重なっているわけだから,地道で確実な実証研究を遂行する道行きでは,こういう議論↑をしている人たちとの「対話」を欠かしてはいけないなぁ,と思ったわけでした.

カントはどういう状況を生きながら何を語ったのか.

私が言うのもなんですが,「社会学」とかより,こういう↑議論との対話のほうが重要と思います.「社会学」のこと,無駄に気にしすぎ.

...いや違うのか? 自分がそっちよりだからそう思うだけなのか?

まとまりなく,終了.