野中広務と戦後日本・序

野中広務」という存在は「戦後日本」を理解するうえで有効な切り口になりうると思う.以下,備忘メモ.

昭和初期〜戦時体制下で少年期を過ごす(1925〜1945).

この時期の彼の履歴で重要なことは,旧制中学に進学したという事実と,中学卒業後,進学ではなく「国鉄」に就職したということだと思う.なんだか「国鉄」にこだわりすぎ,と思う人もいるかもしれないが,私にはここがきわめて重要であるように思う.ここに彼の最初の「被差別体験」がどの程度影を落としているか,などといったことはさしあたり閑却するとしても,だ.彼が国鉄に就職した理由として,自伝でもこのあいだのシンポでも語っていた理由(「公開」されている理由)は「脚色」(完全なウソではないが,勘所の真実をあえて外した理由)だと思う.

敗戦後直後の混乱期(=職場から青年男性が払底し,きわめて異例の「出世」が可能となった歴史的背景)に“あの事件”を経験することで「政治家」として誕生する.小熊英二氏が「第一の戦後」とよぶ時期(1945〜1955:野中氏の政治家としての誕生は1951年).ここで重要なことは,社会的に一気に流動化した時期に異例の上昇移動をとげた結果,個人史的にみてきわめて重大な体験をし,「政治家」として誕生する,という経緯である.

「第二の戦後」の時期(1955〜1990s前半)のおおよそ前半が地方政治家としての履歴,後半が国政へのデビュー後の履歴と重なる.ここで重要なことは,この前半/後半の断層が,「田中政治」的なものの形成/溶解の経緯と重なっていることではないかと思う.

戦後日本の政治,というと現在では一緒くたに「田中角栄」的なるものとあたかもイコールのように語られがちだが(とくにボンヤリした社会学系の人の評論など),田中総一郎氏がいうように,近代以降の日本政治において「田中角栄」というのは一種の“革命的”政治家だったのだから,「田中内閣」という切断線をきちんと評価できなければダメだ.

「第一の戦後/第二の戦後/第三の戦後」(1945〜55/1955〜1990s前半/1990s後半〜)という切り口に,「1970s前半での切断線」という切り口を二重写しにして「戦後日本」を眺めてみる必要があるだろう.まあ最近よく言われがちなことなので,とりたてて何か珍しいことを語ろうというわけではないですが.

そして,冷戦後,小熊氏の用語でいえば「第三の戦後」(1990s後半〜)というのは日本政治では「細川内閣」後ということになり,この日本的「ポスト冷戦体制」局面=一気に流動化した日本の政治体制の再編期において,野中氏は戦後日本史的に見てきわめて重要なアクターとして浮上するわけである.

ここで重要なことは,この流動化局面がなければ,つまり,それまでの自民党的慣習であるところの「当選5回・勤続15年で大臣初就任」のもとでは,58歳で国政デビューの「野中広務」なんていう政治家は,なんとか1回,大臣に記念就任できただけの,日本政治史のちっぽけな“エピソード”を構成するだけの,ごく平凡な政治人生を歩んだだけの存在で終ったはずだ,ということ.

彼は戦後日本の2つの社会的・政治的な混乱期/流動期/再編期を濃密に体験することにおいて,戦後日本史のキーパーソンとして誕生し,歴史の転轍機の役割を果たすことになった,ということの確認.

そういうことで,もう少し,この手の「お遊び」を続けていこうかと思っています.