「野中広務」シンポ,とりあえずの報告

14日(月),行ってきた.これにあわせて昼間いろいろ個人的な案件処理(←おおげさ)を詰め込んだので疲れた.フォレストでの食事会,なんか敷居が高くて行けんかった.後悔.

北田さん,お疲れさま.「話法」の違う登壇者の話をまとめる(かのように見せる)のはたいへん.野中氏,一個一個話長いし.しかしながら野中氏はいまだ「政治家」オーラびんびん出ていて,それを直接確認できただけで新幹線使ってまでわざわざ見に行った甲斐あった.

とりあえず質が低い雑報告ですみません.それと基本的に勘違いな報告でしょうから,以下,あまりまじめに受け止めないでください.

野中氏から「現役オーラ」が出ているということは,つまり,誤解を恐れずに言えば,彼はほんとのことなんかしゃべるつもりはない(し,しゃべってなんかない),ってことだろう,と.あるいは「語ってくれくれ」と思われてることをそのまま「語る」なんてことはないよ,と.野中氏以外の登壇者とオーディエンスとが野中氏によって試された3時間半(←なげぇ)だったのかな,と.自分の話がどのように消費されていくか,彼(=現代日本の政界きっての“情報収集力=政治力”を誇った「野中広務」)にきっちり見られるのだろう,と.

一流の政治家は「話法」が違う,というか,用いている「言語」が違う,というか.登壇者,学者2人とドキュメンタリー作家1名の「言語」は「真理」のことば.「真理」に最短距離で切り込む「話法」が高く価値づけられる,という世界(「鋭い議論」とか「彼,切れるね」(笑)とか).しかし「政治家」がそんなことではダメなわけで.

他方,政治家のことばは「言質」をとられることなく意思を伝達する「話法」.「ほんとに言うべきこと」の周辺をぐるぐると旋回する(「関係あんのか,その話?」と何度も思うw),その軌道のありかたからようやくおぼろげに(だが同時に“確実に”)「言われていること」が浮き上がってくるような「話法」.あとで指摘/批判を受けたときどうにでも逃げられる,だが同時に,「ほんとのことを言った」とも必ず言えること,しかも“つねにそう言えること”こそが求められる「言語」...というか「話法」.

学生・院生時代に言語とかエスノなんとかとかシステムなんとかとか,しっかり勉強しとけばよかった...もっとかっこよくちゃんと言えるだろうに.

野中氏の話にもどると,下手すると聴衆に「やっぱボケてんじゃないの,年だしね」とかすら思わせるだけの「力量」.言わずもがなだが念のため言っとくと,あれ,ワザとだからね.他の登壇者からの問いに対して「関係のない話」をしていたのではない

自伝『私は闘う』(文春文庫)に「[小沢一郎との確執については]他の人々に迷惑をかけることになるので、私の死後明らかになるよう書き残しておいてある」(130頁)というくだりがある.

ましていわんや,このシンポにおいてをや(←あってるか日本語).

観覧席を見渡すと,かつて学部生時代の私に被差別部落や在日の問題を考え始めるきっかけを与えてくれた(そして自分で当該問題を調べ始めるや,すぐに“反面教師”となってくれた)恩師のお顔も見られた(何年ぶりだろう).そして姜/森(達)両氏からの問題提起はすべて“そこから目線”――マイノリティとしての出自――での切り口.みんな“それ”を期待している舞台.

前半の基調講演は自伝『老兵は死なず』から,出生〜衆議院初当選までの歩みをダイジェスト版で語ったあと,小泉改革への批判/引退でシメ.そういう打ち合わせだったのでしょう.それ以後の討論でも,すでに自伝に公開されている話を中心に,すでに十分作りこまれた(イコール「うそ」ってわけではもちろんない)テンプレ話に終始.しかもつねに質問の趣旨に対して論点をズラし,距離をとり,アジェンダの周りをぐるぐる旋回しつつ(←もしかしてこういうの脱構築っていうのか!?).

あのシンポの記録,どういう風に活字化されるんだろうか.あれを「編集」してしまったら意味ないんだけど,でも「編集」しなかったらわけわかんないだろうしね(活字だけ読む人には).あれを「編集」すると,どうあがいても「野中が語ったこと」ではなくて,編集した人間が「野中に語ってほしい(ほしかった)こと」を記述することになるんだろう.できたら録音からそのまま会話分析的に正確に記号化して文字起こししてほしいぐらいだ.

「言ってること」の“中身”追ってもダメ.言ってる「文脈」と実際に彼がなした(と確定できる)「行動」(もしくは現在から振り返って確認できる「事実」)とをすり合わせることによってのみ,かろうじて「言われてること」を追尾しうる.

なんだ,オレも「野中」に引っかかってるだけか.

以下,たぶん,つづく.

私は闘う (文春文庫)

私は闘う (文春文庫)