「野中広務」をめぐり(3)―「教育の歴史社会学」的スケッチ

野中氏の政治家としての達成や歴史的意義,ということにはさしあたり触れず,そして,彼の「出自」についても,通常注目される意味でのそれにはさしてウエイトを置いていない視点がどこに向けられているのか,ほとんどの人には意味不明でしょうが,一応,彼の社会移動の軌跡と政治家としての行動原理との関連性=有意味性,に向けられている,っつうことにしておきましょう.

社会移動の軌跡と社会意識との関連性といったテーマは,50年代,60年代ぐらいまでは社会移動研究において国境を越えてその重要性が認められていた領域ではなかったでしょうか.日本では言わずと知れた社会移動研究の金字塔,安田三郎(1971)『社会移動の研究』(東京大学出版会)など.

現在では個別研究のテーマとしては存在しても,まとまった研究領域として成立しているとはちょっと言い難い.社会意識論そのものが(吉川徹さんなどの最近の試みを除けば)退潮してしまって以降は.もう一つ付言するとすれば,社会移動研究から歴史文脈性への参照が希薄化してからは,とも言えるだろうか.私は社会移動研究が「社会階層・社会移動(SSM)」研究へと純化していくプロセスでふるい落とされていった“澱”のような研究テーマにこだわる性分でして.

もちろん,野中氏を語るにあたっては他に外せない要素があることは重々承知の上ながら,彼の自伝『老兵は死なず』(文春文庫)第16章「政治家の条件」からライフヒストリーを「教育の歴史社会学」っぽくラフに抜き書き.つまり,「出身階層→教育経歴→初職」あたりの軌跡を中心に.

 私の家は恵まれた家だったと思う。家は四反あまりの田んぼを有する自作農であり、私は町の公立幼稚園に通わせてもらったが、定員は五十人だけの幼稚園だったから、幼稚園に通っていたのは当時園部町内でも珍しかった。(375頁)

地域にもよるが(近畿地方は全国的にみて生産性の高い地域だが)「四反」というのは微妙か.「貧農」と言いきるわけではないが,さほど「余裕」があったとも思えない.というか,後段の「公立幼稚園に通った」という部分(これはかなりのものである)とはいささかならず「距離」のある規模の自作農である.

 父親は、戦災孤児を収容する府立園部学園の職員だったときに接した子どもたちを正月やお盆になると自宅に呼んだり、あるいは、近くの兵器工場や、マンガン鉱で過酷な労働に従事する朝鮮の女性たちを子守に雇ったりとつねに社会的な弱者に目配りをわすれない人だった。方面委員(現在の保護司)を務めたこともあった。(375頁)

 母親は・・・父親より子どもたちに厳しかった。
 三度の食事のさいには必ず仏壇に手を合わせてからでないと、はしをつけることを許さなかった。また教育というものの力をよくわかっていたのも母親だった。(376頁)

こうした記述からは,経済的な余力というよりは「教育」への厚い信頼と子どもへの熱心な教育的関与とによって特徴づけられる「出身階層」であったといえようか.「自作農」とはいいながら,特徴としては「在郷新中間層」的な色合いが濃厚な家族の描写である(追記:父が役場等の雇い等を兼職.野中氏の「恵まれていた」との評はやはり「彼の」周辺と比較して,ということか).

 私はそうした父母に愛情をもって育てられた。当時は子どもたちは尋常小学校を出たら、奉公に出たり、働きに出たりするのが普通だったが、両親は私の旧制中学への進学を許してくれた。私の小学校で旧制中学まで進学したのは、一学年約五十人中、八人しかいなかった。(376頁)

たしか野中氏の旧制中学進学が1938年,卒業が1943年のはず(←要確認).時期的な進学率からみて「地方」型の中学校か.やはり「教育熱心」というエトスがうかがえる.

 父親は私を師範学校に行かせたかったようだが、私には国鉄に行きたいという憧れがあった。園部の駅につとめる駅長の制服の金の筋が三本の襟章、助役の金の筋が二本の襟章を私は子どものころからまぶしく見つめていたのだった。(376頁)

 昭和十八年三月に京都府立園部中学を卒業すると、すぐに旧国鉄の大阪鉄道管理局に入った。その後、昭和二十年三月に召集されたが終戦とともに再び大鉄局に復職した。業務部審査課の旅客係だった。(376-377頁)

このあたりの記述からは上↑で指摘してきたような家族の経済的/文化的背景にもとづいた教育戦略が再確認できる.ある種,「典型的」な地方型旧制中学校への進学者「類型」である(「典型的」と「一般的」は違うが).以前,他の地方の旧制中学の分析を行った時の感覚でいえば,二大「類型」のうちの片方,すなわち,“あまり”家計が豊かではなく,“安上がり”の「立身出世」ルートへ傾斜していくタイプ,か.進学なら軍人養成機関(陸軍士官学校海軍兵学校)が頂点,進学と就職の折衷的進路先としての「師範学校」,就職なら「国鉄」などは最たる進路先.

「安上がり立身出世」ルートとしてはもっとも有力な進学先である軍人養成機関に進学していないのは,彼が「農家」の6人兄妹の「長男」であったから,か.近場の大都市へ.かつて「農家の長男/二三男」問題の再検討をやったときの感覚でいえば,近畿地方というのは良好な雇用機会が近在するがゆえに東北日本などとは異なって,「とりあえず就職して,機をみて還流・帰農」という「機会主義的な移動戦略」が支配的な地域である.その一環か?

戦前期の「国鉄」は軍隊以外の近代組織としては国内最大の“メリトクラティック”な上昇移動システムが完備された世界.低学歴/「ノンエリート」達の小さな,けれどもきわめて重要な「立身出世」を争う物語の舞台.急いで留保を加えれば,「旧制中学→国鉄」の野中氏は「低学歴/ノンエリート」とは純粋な意味では呼べず.というか,「低学歴」とか「ノンエリート」という表現でどの程度の範囲を想定するかによるが...以下にみるように,彼はほんの数年間で異例のスピードで「出世」するし(追記:彼の出世のスピードは旧制中学卒の学歴として「異例」ということ.この辺もう少し要検討).1930年代の旧制中学進学率は都市部でこそ高くなっていたとはいえ,そこはそれ,「地方の最高学府」.

ちなみに当時の「国鉄」には戦後,重要な地位にのぼりつめる人物が何人もいる.その最たる人物が↓.

 私の直属の上司である課長からずーっと上まで、全部で三十ぐらいハンコが必要な案件だった。
 そして残るは、大阪鉄道局長の佐藤栄作の印鑑だけになった。ちなみにこの佐藤栄作氏は後に内閣総理大臣になるあの佐藤栄作氏である。(379頁)

それ以外にも,業務部長に細田吉蔵(元運輸相)とか.まあ当然か.

 国鉄は私の第二の学校だった。いろいろなことを教えてもらった。後に私が政治家になったときにそれは宝となった。(380頁)

...というのは↑で先述した「国鉄」という組織の性格を鑑みれば,「いろんなことを経験させてもらった場所だった」という一般論以上の意味が込められていると(客観的には)みるべき.

実際,「国鉄」は野中氏を異例のスピードで「出世」させることになる.

 そうした気力の充実を評価してくれたのか、普通は「試雇い」から「雇い」になって、初級課員、中級課員になって当たり前のところを、それらをトントンと飛び越えて準上級課員、上級課員まで上がった。それに給料がついてくる。その当時は、課長が二人、部長が四人、局長が五人といった具合に、部下についての昇給枠を持っていた。私は係長や他の課長らとお付き合いする機会が多かった。・・・そのためか「あいつまた付けてやろう」と昇給枠を付けてくれる。だから、こっちはひとつも頼んでいないのにどんどん昇給していく。・・・(中略)・・・
 戦地から職場に帰ってくる人が、私より年上で、「試雇い」の状態であるのに、私が上級課員というような状況になってしまった。(382頁)

地方・旧制中学卒・ホワイトカラー.

このあと,383頁には,「政治家・野中広務」を生んだ,忌まわしき“あの事件”の件......「七転八倒」して苦しみぬいた数日間の想いが,まるで勘所の言葉が喉の奥に押し込められた真綿のようにつっかえたまま綴られる.この部分,省略.

こういう軌跡を描いて誕生した「政治家・野中広務」の初心.

 人間はなした仕事によって評価をされるのだ。そういう道筋を俺がひこう。(386頁)

彼によって採用された画期的な政策.

[自分が町長になってから:引用者]三年で財政赤字は解消し、町の財政に余裕が出ると、国に先駆けて、小学校の教科書代を無料にした。(388頁)

彼が最後に至った境地.

たとえどんな過酷な環境にあろうと、努力によって人生は必ず開けてくる。(398頁)

戦前-戦後日本の社会移動とメリトクラシーの規範.

彼が「同和利権」を断ち切ることに全力を注いだことも,この延長上に捉えてしかるべき.

政治史であれば最重要視するであろう「政治家・野中広務」を生んだ個別の「事件」にではなく,あるいは,「政治家・野中広務」がなした個別の「事件」にでもなく,他にも多くの無名の人によって経験されたであろう社会移動の軌跡の一つの典型を「野中広務」に見出すことによって,戦後日本を理解しよう,という志向性.私がこれまで多くを学んだ「教育の歴史社会学」の手法(の応用),のさわり.

最後にこの自伝,とくにここまで見てきた「第16章」の末尾に置かれた著者の言葉を置いておく.この「第16章」が拡大鏡に映し出されたものが,先日紹介した辛淑玉氏との対談『差別と日本人』.そこにつながる,というわけ.

今回、この章を書くことは勇気のいることだった。しかし、私の苦しみも、その苦しみを癒した人の愛も、率直に書くことで、ひとりでも多くの人が希望を抱き、未来に向かって前進してくれればと考えた。(398-399頁)

老兵は死なず―野中広務全回顧録 (文春文庫)

老兵は死なず―野中広務全回顧録 (文春文庫)

社会移動の研究 (東大社会科学研究叢書)

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