ステイクホルダーの所在,あるいは「構造改革イデオロギーの文明化作用」の問題

事業仕分け,花盛り.仕事柄,科学研究費関連のあれやこれやの議論などを中心に散見.「国民の前で議論を公開する」と言われましても,そもそも,なぜ,他ではない「この」事業が仕分けの対象として選択されたのか,の部分や,仕分け人から繰り出される疑義や意見に対する「利害関係者」からの応答・反批判等々に割かれる時間はそもそもないか,あるいはあまりにも不十分なので,「議論」ではなく「裁定」だけが「公開」されているんじゃないですかという,まあほとんどこの程度の素朴な感想に尽きる.

「議論」が公開されているというよりは,「議題(に決定したあとのもの)」から「議論の入り口(と考えるべきもの)」(←その実,相当程度最初っからあったとおぼしき「議論の結論」(?))のところだけが公開されてる感じ?

公開すべき「議論」というのは,第三者=事業仕分け人からの疑義や意見(そのなかには相当程度真っ当なものももちろん多く含まれています)に対する「利害関係者」(科学研究費であれば学者,道路やダム建設であれば各地域住民,漢方薬保険適用の話であれば患者や医療関係者...などなど)からの応答や当該問題の専門家からの意見,それらに対する事業仕分け人からの再質問や批判意見,さらにそれに対する......というプロセスであろう,とまあほとんど素朴にそう思うわけなのですが.

誰もがすべての問題に通暁することなどできない「高度に複雑化した」「不透明な社会」にあっては,事業仕分け人が当該問題についてはズブの素人,っていう状況が標準なわけで,その事業仕分け人からの「攻撃」を主としたきわめて短時間での「議論」でものが決まっていくというのは,素人目にみても危なっかしいことこの上ないよな,って思ってしまうのは否定できず.

「利害関係者」っていうのは「自分に都合のよいように国民の税金からくすねて私腹を肥やす奴ら」っていう以前に,当該問題に日常的にかかわらざるを得ないが故に個別事情にもっとも通じており,それゆえに,一応それなりに(あるいは誰にも「もっともだ」と共感できるような)切実な要望をもって存在しているはずなので(それなりの,あるいは,もっともな「事情」というのはある),専門的見地からの評価と第三者的立場の(しかし支払っている税金を「使われる」立場の)目から見た評価に付されたその「要望」が,それぞれの利害得失の大小/強弱とその根拠の妥当性に応じて全体的に調整,最適化されていく,っていうプロセスが(まあ机上の空論としては)あるべき.というか,ないとめっちゃ危険.

それだと現状が変えられない!とか,時間がかかる!とかいうのは違うでしょ.「時間をかけない」ことで損なわれるものは何なのか,と.これまでは難しかった最適化プロセスも,これからのアーキテクチャなら,ほら可能!っていう,そのための「アーキテクチャ」の進化の言祝ぎであったはずです.なんのための「アーキテクチャ論」,なんのための「○○2.0」.いやまあ,いまは始まったばかりの過渡期のとば口でして,って言われればそれまでなのですが.

たとえばこういうことって漢方薬も使わないし医療内部の現実も知らない人間にとっては,こういう形で「公開」されないかぎり,それが「ムダ」とも「ムダじゃない」とも評価のしようがない(はず).

科学者は自分の利権を守るために科研費削減に「ただ反対する」だけじゃなくて(それじゃ「道路」利権を守ろうとする土建屋と一緒でしょ!)実際にムダをなくすための検証しましょうよっていう話も,それ自体は真っ当な問題提起であることこの上ないのですが,いやそうじゃなくて,そこでなされているムダをなくすための必要性の吟味にもとづいた「こちらからの提案(と再要望)」を提出する“余地なく”議論が終結させられそうなことに対する抗議,と捉えるべきだろう,と.念のため申し添えれば,私自身は「道路」や「ダム」だって,同様の観点から「利害関係者」からの反論はもっとフェアに「公開」されるべきだと思います(現状はあまりにも「利害関係者」にとってアンフェア←今までがあまりに“アンフェア”に優遇されてきたんだ,って言う人もいそうですが,少なくとも「その」個別問題関係者や「その地域」の住民は「優遇」されてなどいなかったからこそ“いま”「要望」しているわけで*1).

で,社会学っぽい話題に無理やり転換しようとすると,ここに現れているのは「利害関係者」はいかなる理由があろうとも「議論に関与すべきではない」っていう前提が支配している状況.それは必ず自分の「既得権益」を守るために(いや実際には「既得」なんかじゃないケースだって多いんだけど←注1参照)議論を歪める存在である,っていう前提.

したがって,その領域にぜんぜん利害をもたない人間(≒その領域のことをぜんぜん知らない人間)による裁定にもとづいて重要な制度設計の方向性を“選択”していこうという現状.

↓はhamachan先生による政労使三者構成原則についての日本での認識のあり方を批判する文脈でではあるのですが,やはりこういう認識は労働問題に限らず必要だろうと思いますし(労働問題では“とくに”必要だとも思いますが),他方で,こういう認識がなかなか“まっすぐ”には届いていかない現代日本の状況は,それとして重要な考察の対象だろうと思います.

少なくとも、労使が最も重要な利害関係者(ステイクホルダー)であるがゆえに政労使協議体制を要求していることを踏まえれば、「利害当事者たる労使間における見解の隔たりは常に大きく、意見分布の埋まらぬままの検討により、結果は妥協の産物となりがち」などという見解は撤回されるべきものでしょう。労使の利害がもともと大きく隔たっているがゆえに、時間をかけた丁寧な協議によって徐々にその見解を接近させ、結果として労使の一方のみに有利な決着ではなく、双方がそれなりに納得しうる結果に到達しうるという点が、三者協議体制の最大のメリットであり、これは国際的にも確立されているのです。「妥協の産物」ゆえにけしからんとなどという論法は、ミクロからマクロまでおよそありとあらゆる政治的意思決定において必要とされる妥協というものの存在意義を頭から否定するということなんでしょうか。そのような妥協なき意思決定は、独裁国家においてのみ可能であり、さまざまな利害関係者の利害調整が民主的手続によって行われるべき先進国にふさわしいものではありません。

EU労働法政策雑記帳「三者構成原則について」

現代の日本にみられる「利害関係者」「既得権益」という言葉の磁力.

あるいは,3月に開かれた比較教育社会史研究会での小沢弘明(千葉大学)さんのご報告「新自由主義の世界史と高等教育改革」での言葉でいえば(高等教育改革に限定したご報告だったけど),「新自由主義イデオロギーの文明化作用」の問題*2.ま,いまの話題の場合,「構造改革イデオロギーの「文明化作用」といったほうがいいか.

もちろん,ここでの「文明化作用」という語には両義的な意味合いが込められている.だからこそ,一方でそれは現在のわれわれを捉えて離さない.しかし他方で,現代日本ではこの「文明化作用」(がもたらす両義性の一面)の磁力は,他国に比しても格段に強いのではないかという印象.

あるいは高原基彰さん『現代日本の転機』(NHK出版)の言葉でいえば「蔓延する被害者意識」の問題か.

このあたり,現代日本社会論のテーマの一つが存在していることは確か.

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス)

*1:「裏日本」の,現在新規新幹線の建設問題にかかわる地域出身者として言わせてもらえば,(私個人は新幹線なくてぜんぜんかまわんけど)やっとこっちのインフラ整備に順番がまわってきた,と思った矢先に,「表日本」のインフラ整備でもたらされた「現状」のツケを理由にしてそれが「つぶされる」っていうのは,さすがに「お前らに言われたくない」っていう感情が湧き出るのを否定できない.そこでの事実認識自体は間違っていたとしても,この「感情の湧出」という事実は事実としてある.

*2:このご報告では「新自由主義イデオロギー」の分析には「ファシズム研究」で構築されてきた分析枠組みが不可欠だ,という宣言もなされていた.