社会的排除と教育社会学(3)

だが「教育社会学」が社会政策論的問題関心から脚光を浴び始めたのは,まさにそうした「前提状況」の消失が誰の目にも明らかになってきた頃からだ.何が「教育」研究に求められてのことなのか? そんな感じで岩田正美著『社会的排除―参加の欠如・不確かな帰属』(有斐閣,2008年)なんかを読んでみる(←実に長い前フリであった).

社会的排除―参加の欠如・不確かな帰属 (有斐閣Insight)

社会的排除―参加の欠如・不確かな帰属 (有斐閣Insight)

「格差」や「貧困」が人びとの関心の的となる変化のなかで,これまで華々しいスポットライトを浴びることもなく,しかし地道な実証研究と政策提言とを継続してきた研究者や研究領域に注目が集まるようになった.著者の岩田正美さんなどはその代表格ではないだろうか.

前著『現代の貧困』(ちくま新書)も貧困研究の入門書として恰好の良書だったが,本書『社会的排除』(有斐閣)はさらによいと思う.著者自身は自分が「貧困」研究者であるとのアイデンティティのもと,「フランス生まれ,EU育ち」のこの概念の射程を(「貧困」概念とのズレと重なりも含めて)理論的に整理・検討するだけでなく(第1〜2章),日本社会の現実を対象とした実証分析へと適用してみたうえで(第3〜5章),既存の制度・政策の問題点を抉出する(第6章)と同時に,新たな制度・政策の理念と枠組みを提言するにまで至る(終章)という,よくこの分量とこの平易な文章とでここまでの包括的な(専門的)入門書を達成しましたね,とまずは感服の一言.

間違いなく学生さんにはおすすめ.

日本社会の現実に「社会的排除」概念を適用して分析する3〜5章の部分以降に限定して,雑感.

「究極の社会的排除を示す『定点』の喪失」.その典型例としての「路上ホームレス」の調査からは「排除の軌跡」に2つの形がみえてくる.

1つは「社会からの『引きはがし』」.いったんは社会のメインストリームに組み込まれた人の身の上に,多様で複合的な要因が一気に押し寄せることで「定点」から引き剥がされホームレスにいたるというルート.失業・倒産といった要因に同時に生じた離婚や借金,その原因でもあり結果でもあるアルコール依存症や疾病・けが,交通事故や災害など......これらが一気に襲いかかることで社会から引き剥がされるという「転落」の道筋.

もう1つは「社会への『中途半端な接合』」.そもそも「引きはがされる」ほどのメインストリームへの参加それ自体を最初から(つまり若年時代から)十分経験していない人びと.多くの場合途切れ途切れの不安定な就労だけが唯一の社会参加のチャンネルである.家族形成や住居の獲得をともなわない.その住居の獲得も,この不安定な就労チャンネルのみを通しているため,地域関係からも孤立しやすく,就労を失ったときにはもう何ひとつ社会参加の「定点」を手元に有していない人びと.こちらの「中途半端な接合」層は「引きはがし」層に比べて人生の長期にわたる「排除」を経験しているという点で特徴的であるという.

そして,若年層に焦点をあてた「ネットカフェ・ホームレス」の調査では,後者の「中途半端な接合」のプロセスが拡大鏡のように映し出される.今まさにプロセスとしての「中途半端な接合」を生きている若者たち.

親との関係も不安定.就学も(中卒や高校中退)就業も(切れ切れの非正規雇用を転々)不安定.あるいは高校や大学の卒業まではこぎつけ,何とか就業生活も始めたがその後に生じた就労不安定のため家族との関係を悪化させて家出,など.総じて,社会人としてのスタート前あるいは直後から社会への参加がきわめて不十分な人びと.

ここから著者は2つの指摘を行なう.

まず,こうした社会との「中途半端な接合」を生きてきた/生きている若者には,「おそらく十分保護された子ども時代を経験していないことが推測される事例」が少なくないということ(98頁).若年者の「定点」の喪失にあっては,「移行期における『完全な参加』獲得の挫折としての『中途半端な接合』がある」(99頁)という.それが一点.

もう一つ(これが重要),「学校の影」がきわめて薄い,ということの指摘.そもそも中卒や高校中退など,教育年数それ自体が社会全体の平均値よりも短く,学校卒業までこぎつけた者も「学校からの紹介で正規職へ就職している例がきわめて少ない」(101頁).

彼らの多くは実質的な学力,学歴において,社会参加に不利な条件を抱えているだけでなく,学校や教師たちが,人生に強い影響力をもって出てくるような,そうした状況を経験していない.・・・若年者の一部が,社会への「中途半端な接合」のままに経過して,ついには「定点」を失うのは,学校のこのような影の薄さともかかわっていよう.(103頁)

ここからの著者の議論は,日本の教育社会学にとって非常に示唆に富むものとなっている.引用したい.

ところで,こうした日本の[耳塚氏などの教育社会学者や小杉氏などJIL系の調査研究などの:引用者]「移行期の若者」論は,あくまで「職業人」への移行に偏っているきらいがある.ジョーンズらが・・・シティズンシップとしての権利と義務を若者がどのように獲得していくか,あるいはそれを社会がどのように支援するかを問題にしていることと対照的である.(104頁)

また,事例分析で述べた「中途半端な接合」の二つのルートでいえば,あくまで移行期問題としての第二のルート[卒業したけど正規職がなくて親と衝突→家出パタン]がその焦点にあって,第一[もともとの家族も不安定就労で家族関係が劣悪,十分保護された経験がないパタン]のような「中途半端な接合」の世代的再生産はあまりふれられていない.が,実は職業人への移行がうまくいかない背景に,若者の実家の経済状態や家族関係の問題があることは早くから指摘されていた.・・・(中略)・・・このことは,問題が移行期にだけあるのではなく,まず実家それ自体の社会への「中途半端な接合」がそもそもの出発点に存在しており,そこから子どもの自立が中途半端な形で始まる場合が少なくないことを示唆している.(104-105頁)

同様に,移行期問題は学校の出口,つまり耳塚のいうプッシュ機能の問題であると同時に,出口以前の問題でもある.・・・(中略)・・・この[大阪フリーター調査の]インタビューでは,学校の出口の問題よりも,「学校にあがってすぐ」といった早い時期から生じている「勉強がわからない」ことやそもそも家庭に問題があって学校に出られない「脱落型不登校」の状況が問題であることが指摘されている.・・・つまり,移行期問題以前に学校からの排除がある,という見方である.・・・ここでも,社会的排除の形成が,社会参加からの「引きはがし」だけでもなければ,移行期の「中途半端な接合」だけでもなく,「中途半端な接合」の常態的再生産でもあることが,読み取れるのである.(105-106頁)

最後の点にさらに踏み込めば,ホームレスの人びとのなかに多様な慢性疾患,精神障害アルコール依存症など)にくわえて軽度の知的障害者が混在していることへの(従来から支援者からは指摘されていた)議論ともかかわってくる.「支援」されなければ「発見」されることさえなかったであろう「障害」の存在.

佐々木洋子は[インタビュー調査の報告書の中で],一般に知的障害者の手帳取得は20歳までになされており,それはこの「障害」が家族や学校教育の現場の中で発見される機会があるからだとしたうえで,それが五十代までもちこされている人々が存在しているということは,それらの人々がそうした機会をもてるような生活状態になかったからだ,と指摘している.・・・家族の生活も不安定で,学校への統合も不十分なまま「中途半端な社会との接合」状態を生きてきた人々にとっては資格認定の機会すら与えられていないのである.(159頁)

表現を逆にしたほうがよい.(義務制の)学校教育には,こうした人々(=子ども)への資格認定をつうじてその後に必要な支援を獲得しやすい条件を付与すること「も」できる.

問題がまったくないとはいわない.けれども,その機会すら与えられないまま放置した場合に何が生じているか,ということを,よくみてみよう.

そして,こう問うてみよう.義務制の学校教育以外にそれが可能な機関が他にあるか.義務制学校の教師以上にそれが可能な職業があるか.外してはならないポイントは,その子どもの生育家族自体が「中途半端な接合」に留まっているケースにも,漏らすことなくその認定(と初期的支援)が可能な機関/職業が,義務制の学校教育以外にあるか否かということだ.あるならよい.そこに任せよう.しかし,ないのならば(残念ながら私には思いつかない)考えるべきことがあるはずだ.

「どんな家庭の子どもも」受け入れて,その発達と成長に関与する,専門の教育を受けた責任ある立場の大人,が必ず常駐している機関......

著書の終章は求められるべき「社会的包摂のあり方」について,もっぱら労働参加のみを促す自立支援策の問題点を指摘したうえで,「包摂の基礎におかれるべきなのは労働であるよりも,むしろある社会への帰属の現実的基点となる住居・住所の保障と市民としての権利義務の回復にあるのではないか」(175頁)という問題提起がなされる.

非常に重要な問題提起だと思う.本書を読んでいただければ,より具体的な問題提起もあわせてなされている.「アセットベース福祉」の考え方や,それと関連して,子ども用の貯蓄口座「チャイルド・トラスト・ファンド」の政策など.「子ども手当」を「パチンコ手当」とか揶揄する前に,この考え方の可能性の射程をもう少し考えてみるのもよいだろう(というか,私は考えたい).

でも,ここではもっと狭い「お客さん」相手の議論に絞ってみる.「教育」研究,とりわけ(私がここまでお世話になってきた)教育社会学という領域にとって.やるべき課題の所在について.

......と思ったけど,すでにすんげー長くなったので,また後日.