社会的排除と教育社会学(2)

承前.

耳塚氏の報告「揺れる学校の機能と職業社会への移行―教育システムの変容と高卒無業者」は,彼が90年代後半から共同研究として着手していた,70年代末に実施したものと同じ対象高校・同じ内容の質問紙調査を軸とした調査・分析以降の諸研究ひっくるめたダイジェスト版のようなものだった.「トラッキングの弛緩」だの「メリトクラシーの空洞化」だのといったキーワードで内容の主旨は尽きている.かつてあった(耳塚氏世代の学校社会学者が若かりし頃には「高校間格差構造」*1だとして何よりも学術的糾弾の対象とした,あの)「トラッキング」が「弛緩」してしまい(←いいことじゃなかったのか?),高校教育の進路の水路づけ機能が低下するなかで職業への移行に失敗する若者(=高卒無業者)がこぼれおち始めている(それも低階層出身者から)現状を告発する問題提起だった.

その後のフリーター/ニート/高卒無業者等を対象とした「教育から職業への移行(トランジション)」研究や,「学力」研究,「意欲格差社会」論などのダイジェスト版のような報告である.

悪くない.ぜんぜん.そういう報告が求められていたのだ.

だが総括討論の時間の質疑応答の場面で,それはやってきた.フロアから挙手があり,一人の研究者が耳塚氏の議論がはらむ「教育学的誤謬」を批判する.

学力の向上であれ進路の水路づけであれメリトクラティックな価値観の内面化であれ...(以下省略)何であれ,教育「内部」の要因をいくら改善したところでどうなるというのか.若年の無業者や不安定雇用者を生み出しているのは「学校ではない」.それを生み出しているのは若年労働市場であり,企業の採用行動であり,それらを規制するマクロ経済の動向であるはずだ.また,若者側の「階層」要因も,直接には税体系や社会保障体系の帰結であって,問題解決のための対応策もそのレベルで設定されなければ意味がない.しかるに教育(社会)学者であるところの耳塚氏の議論は,それら真の要因を隠蔽し,問題を当事者の教育の問題に帰すのみであって,学校教育内部の要因を一般化して社会経済的な問題解決を図ろうとする(それ自体なんら有効性をもたない)「教育学的誤謬」をはらんだ典型のような議論である.

......ごもっとも.

さて,その批判に対する耳塚氏の応答は覚えていない.というか,「応答できていなかった」ということだけ覚えている.大変アンフェアな言い方だというのは重々承知の上で,しかし正直に言ってそうなのだ*2

教育社会学の世界でその後この手の批判(「教育学的誤謬」批判)に対する有効な反論なり(新たな)問題提起なりというのは出現していないように思う.広田照幸氏の「教育社会学はいかに格差‐不平等と戦えるのか?」『教育社会学研究』第80集(2007年6月)*3はこの「“教育学的誤謬”批判」をほぼ全面的に認める.

この批判[“教育学的誤謬”批判―引用者]はとても重要である.「教育さえ変えれば」という無用の幻想を振りまかないためにも,教育の改善を通してできることの限界をきちんと設定し,明示することが必要である.教育学者が「格差に挑む」には,何をすべきなのか/できないのか.教育社会学者だけでなく,他の教育研究者とともに真剣に考えてみないといけない点だろう.(『格差・秩序不安と教育』234頁)

広田氏の論文では別様の問題提起として「教育と政治との関係こそが,考察されるべき隠れた主題である」との宣言がなされる.とりわけ「学校教育システムが政治的な主権者を作っているという側面に,もっと研究関心が寄せられる必要がある」と.まあ,それは絶対に「学校教育」が専らやってることなんで,「誤謬」とか言われずには済みますしね.

教育社会学がこれまで「得意」としてきた研究テーマは,実はそのテーマに関する重要な変数がほとんど「学校教育」という対象の外部にある,という(広田論文が改めて突き付ける)事実の認識自体はきわめて重要である.長くなるが引用する.

教育という対象を通して格差や不平等を論じようとする研究が抱える固有の困難がある.それは,特定の主題に関する重要な変数が,対象の外部にある,ということである.社会的に見て許容されがたさを直接的に生んでいるのは,たとえば,労働市場の構造や職業的な選抜システム,低賃金労働者に対する雇用や税や社会保障のシステムなど,教育の外部の要因である.貧困や失業への対処は,教育の関与(目の前の失業者の再訓練など)が部分的に組み込まれるにせよ,何よりも福祉政策や労働政策の主題である.(中略)「格差に挑む」といっても,目の前の経済的格差に対して教育ができることは,限定的なのである.(前掲書,231-232頁)

......ごもっとも.

そして今の日本の教育社会学はここで行き詰っているようにみえる.「格差」と「トランジション」に焦点化する枠組みであるかぎり,ここで行き詰るのは仕方ない.そして,それで悪いわけではない.十分に必要だし重要な研究だ.

ただまあ,なんだかなぁ...とは思う.

件の批判者(↑)が別段すぐれて卓見に富むわけではない.90年代前半までには前提だった経済的なマクロ状況が消失するなかで*4,教育という対象を通して「格差」や「トランジション」の問題を考えようとする人間であれば誰でも遅かれ早かれこの程度の「誤謬」には気づく.問題は「その先」だ.真に重要な変数はすべて「教育の外部」にあるという.では,それでもなお「教育」を通して現象を読み解く意義はどこにあるのか? あるとすれば,どのように問うべきなのか? それともないのか? ないならもうやめちゃえばいいのに,「教育社会学」なんか.

「教育社会学」は「教育学」の世界にあって例外的ともいえるほど,「教育」外部の要因とそれを専門に扱う諸学問(主に社会科学系の諸学問)に対する感度を高く有してきたように思う.

が,それは言葉を変えると,「教育」外部の要因を専門に扱う他の社会科学系の諸学問に対しては妙に「聞き分け」がよくて,「教育」内部の要因を専門に扱う学問(つまり「教育学」ですね)に対して妙に「横柄」である,という此学の「感じの悪さ」にもつながる(←きめつけ).

「教育」を問うことの固有の意義,というものを考える必要がなかった.「教育固有の価値」なんてものを論じる「教育学」ど真ん中の議論に対して冷笑的でいられた.「教育」に社会科学的な分析のフォーマットを持ち込めば,それだけで「よい研究」ができる.「90年代前半までには前提だった経済的なマクロ状況」というのは「教育社会学」にとってはそういうことを可能にする状況だった,と言い換えられる.「教育学」にとって「感じの悪い」ことこの上ない.

こういう「悪口」でひと区切りおいてしまうのはいかがなものかとも思うのだが,長くなったので,以下つづく.

*1:「トラッキング構造」日本版.形式的には単線化が達成された日本の教育制度が実質的には陸上競技のトラック競技のように社会的「走路」の閉鎖性によって特徴づけられる構造をなしている状況を批判的に捉える概念.

*2:追記11/19:そういえば共通論題報告は『社会政策学会誌』に載るんだった.思い出してざっと読む(第13号).当日の議論を踏まえてのリライトだから当初の色合いは結構変化してる.その最後の部分,「この問題についての社会政策上の課題は,教育システムの内部から現象を観察するだけでは全体像が見えてこない.諸ディスプリンの協同にさらなる議論をゆだねたい」(28頁).あぁ,ゆだねられちゃったよ...ほんとは「ここから先」なのに.

*3:この論文は著書『格差・秩序不安と教育』(世織書房)の第9章として収録されていますので,以下頁数はこちらの著書のものを記載します.

*4:まあかなりの程度「人災」として?...なのかもしれんが,そこはそれ,おいとくとして.