この中学が母校だったら私もっと“かしこかった”のに...

私の勤務する私立教員養成大学では「教員養成GP」プログラムの一環として2年次に現場の小・中学校に出向いて,学習指導案を事前に公開していただいたうえで授業実践を観察させていただく(しかも一日かけて)という,(破格の)実習が都合3回設定されている.1回目は中学校,2回目は小学校,3回目は秋に実施される研究指定校での公開研究授業発表会.

1回目・2回目は普通の学校の日常に闖入するかたちであるにもかかわらず,学生(しかも2年生)相手とはいえ,いわば公開研究授業の形を(相手方にとっては見返りも明確でないまま)とって授業を観察することが認められているということだ.そのうえ,学習指導案が公開されて観察させてもらった授業(「示範授業」とよぶ)の終了後には,授業者を囲んでの研修会も設定されて,学生は直接質疑ができる(もちろん授業者には通常職務がありますから授業者同席での研修会がかなわない場合も多くありますが,その場合でも教務主任の先生は必ず研修会に出席して質疑に答えていただける)という,まあ私の感覚では“破格”の実習です.「ぐっどぷらくてぃす」というのもダテじゃない.

私が毎年学生を引率していく担当の学校は小学校・中学校ともに小規模で「生徒指導」の行き届いた,いわゆる「落ち着いた」学校です.とくに中学校のほうは非常に学校内が「落ち着いて」いる.授業中の立ち歩きや私語など皆無.校舎内のトイレや壁や窓ガラスに何がしかの「暴力」的な力が加わった形跡も皆無.もちろん,そこに至るまでの教師たちの長年にわたる努力の蓄積があるわけですが,それにしても現時点で教師は授業中に「学習指導」のみに集中できる.授業研究や教材研究にかなりの割合で力を割ける状況にある.

そして,私の教え子(つまり学生)たちは毎年決まってこの光景に,文字通り“驚愕”する.こんな中学校が本当に自分と同時代の日本に存在するのか!? ――それほど,授業が授業することだけに集中可能な時空として展開しているという事実は,かれらにとって驚天動地の出来事なのだ.だから,なぜこんなことが可能なのか,と現場の教師に質問する.必ず.毎年.ほとんどの学生が.

それは,かれらの出身母校の中学が多くの場合「荒れた」中学校だからである.

廊下をバイクで走る(「尾崎豊」じゃないよ,現代日本のお話ですよ),授業中騒ぐ,立ち歩く,机の上には学習用のものは何もなく,広げられているのは化粧道具と手鏡のたぐいのみ,当然授業中にしていることはお化粧の手直し(延々と続く),自由に廊下を徘徊し奇声をあげる...しかし何より決定的なのは,それを見ても何も言わず何もせず,見て見ぬふりをする教師という名の大人たちの態度,それへの絶望.

ここでは「こういう生徒」に対する道徳的非難のたぐいは脇に置く.

問題はそこで低下する「学習指導」の質.「授業崩壊」だけは避けたい教師.すると授業中に「本時の目標」とはなんの関係もない「雑談」が繰り広げられる時間がどんどん長くなる.とりあえず「本時の目標」なんてどうでもいい.廊下から見られてもなんとなく生徒が座っていて(なんの話かはしらんが)教師の話を聞いている,という“絵”だけ成立させたい.座って聞いてさえくれるなら,中身がなんであるかはどうでもいい.隣りの教室で授業している教師に「崩壊」している授業風景を見られることだけは避けねばならない.「指導力不足」教員は「指導改善研修」を受けねばならず,それによっても「改善」の兆しがないと判定されれば職を取り上げられる,という法改正(教育公務員特例法第25条の2,第25条の3)が行われたので,以前にも増して,より一層.

授業時間50分のうち15分を「雑談」に使ってしまえば,50分で1時を構成するはずの教育内容を35分で消化しなければならなくなる.あるときは抽象的な概念を理解させるための具体例による説明部分を削るだろう.あるときは授業計画の「展開」部分での「作業」の時間をまるまる削るだろう.あるときは,とにかく全部やりきってしまうために信じられないぐらいに(たとえば学会発表するときの大学教員wぐらいに)早口でしゃべりたおすだろう.あるときは,そのいずれの努力もせず,ただたんに内容の消化を先送りにするだろう.

そういう積み重ねが毎日蓄積することで起こること.

「こんどの期末試験,授業では○○までしか終わってないけど,試験範囲は××まで入れるから,終わってない部分は今から配るプリントで自習しておくように」...という,「自習」...という名の教育の放棄.

よくある風景.

授業で「展開」部分が削られても,異様に「早口」で授業が終わっても,「本時のまとめ」もなく授業が断ち切られても,「自習」のみで期末試験に臨まざるをえなくなったとしても...(以下省略),「学校」以外の教育機会(まあ塾とか家庭教師とか)が与えられる生徒は何の問題もない.あるいは(与えられた課題をこなすという側面に限定した意味での)「頭の回転の速い子」は問題ない.問題が発生するのは(=こういう「授業」で切り捨てられるのは),学校教育以外での教育機会が与えられない(っていうか,最初っからそんなもん「学校」教育の前提にすんなよ)生徒たち.具体的に説明されたり時間をかけて正当に教授されればなんの問題もないのに,その努力が放棄されたとき,ちょっとつまずきがちな生徒たち.

しかし,もっとも深刻なのは,いつまでたっても「授業」をしようとしない無気力な教師や,あるいは自分たちのことを心底みくびっている(「どうせこんな難しい問題,説明してもわかんねーだろ?」)教師の姿を見続けることで「学び」そのものへの意欲,なんてものを捨て去っていく生徒たち.「学び」による喜び,というもの――そんなものがこの世に存在するのか?――から疎外されていく生徒たち.

大学に入学してから基礎学力テストをさせてみて浮き彫りになる,ある特定の科目に信じられないぐらいの「学力」上の“穴”がある学生(それは「国立」を断念せざるをえなかった,わが教え子たちの大半であるわけだが)の多くは,こういう中学生活を経験している.

さて,問いたい.

このような学生たち(つまり私の教え子たち)は――かれら自身が自分で自分のことをそう言うように――“バカ”なのか?

そしてたとえば東大生(つまり昔の私)は――かれら自身が口には出さずに自分で自分のことをそう思っているように――“かしこい”のか?

もともと? 生まれつき? 遺伝の要素?
あるいは逆に,本人の努力の問題?

申し訳ないけれども,かつて東大生であって東大生の知り合いを多くもつ者として言わせていただければ,東大生の大半は「鈍い」よ(当たり前だね,わたしを含めて).だいたいうちの大学の学生と同じぐらいの比率で,「鈍い」と思う.「あ,この人なかなか鋭いね」っていうのはもちろん少数派で,それは東大でもうちの学生でもおんなじだし(毎回講義でレスポンスカードを書かせて提出させるが,何回か講義を重ねて中身を咀嚼し始めるとほんとにびっくりするぐらい鋭いカードを書いてくる学生がいる.その発生頻度が「ほとんど同じ」っていうこと).

ただ違うのは,うちの学生は「耕されて」いない.東大生は「耕され」尽くしてる.そりゃ違うわ,見た感じ.東大生,“かしこい”と思うよ,ほんとに.

......閑話休題

件の実習の最後,公開授業を題材としての研修会など,当日のスケジュールが全部終了した開放感のもとで学生たちがふざけあう雰囲気のなか発した言葉が本エントリの題名です.

「わたし,この中学が母校だったらもっと“かしこかった”のに〜〜www」

ほんとだよね〜〜www,とか言いながら笑いあってた学生たち.

「かしこい/バカ」というかれらがよく使う用語には,そこはかとなく「もともとそうだから...」というニュアンスが隠れている.努力したってむだっしょ,だってオレ/ワタシ,バカだもん...みたいな? まあこれはかれら自身にとっても都合のよいエクスキューズにはなる.「もともと」バカなんだから今さらギチギチ努力したところでタカが知れてるんだから...といって努力を中途半端なまま回避するためにはもってこいのロジックなのである(←きめつけ).

だけど同時に,そこはかとなく「後天的にそうさせられたのだ」的なニュアンスの匂いもする.「オレ小5まではかしこかったんだぜ」的な言い方には,先天的な能力差が生み出したものではないのだ,というかれらなりの最後の自尊心による抵抗の痕跡を見出すことも不可能ではない(←おおげさ).

「この中学が母校だったら私もっとかしこかったのに」という独白には,もともとかれら自身の「バカ/かしこい」用語系に込められている,このような両義性が浮き彫りになる感があって興味深い.

学力差,その蓄積結果としての学歴差...(主として)後天的な社会的要因がもたらすものでありながら,あたかもそれが(主として)先天的に備わった能力(gift)がしからしめた帰結であるかのように見せかけるメカニズム,というものを抉り出すために,ピエール・ブルデューというフランスの社会学者は考察をめぐらせた.

彼が駆使したさまざまな概念(文化資本ハビトゥス,文化的正統化,象徴的暴力...etc.)は,たぶん,「この中学が母校だったら私もっとかしこかったのに」的な言い方が浮き彫りにする,「能力(とみなされるもの)」がかもしだす両義的なニュアンス,あるいは「能力(とみなされるもの)」の違いが社会的な要因のもとで構成されているにもかかわらず,あたかも先天的な(gifted)賜物がもたらす必然的な階梯秩序であるかのごとく見せかけるメカニズムを暴露するために仕込まれた仕掛けである.

ブルデューが晩年に言ってたことどもにさしたる共感をもつわけではない.あるいは,ブルデューが駆使したさまざまな概念が経験的研究にそのまま変換できない曖昧さや融通無碍さを帯びている(「まず“文化資本”とやらを定義してくれ!!」)ことを否定するものでもない.今日の研究の水準からすれば,その議論の大半に無視しがたい多くの限界がみえてくるのは当然だろう.

それでもなお,ブルデューの仕事は顧みられるべきだと私が思うのは,こういう「ニュアンス」を,たぶん初めて学術的な考察に値するものとして俎上にあげることに成功した人だと思うからだ.

「この中学が母校だったら私もっとかしこかったのに...」という学生の乾いた独白を,その両義的なニュアンスを壊すことなく引き取って,学術的な考察と分析の水準にまで引き上げる...他にそれを可能にする枠組みがあるなら教えて欲しい.

ないのであれば,少なくとも私はこれからもブルデューの議論を参照し続けることだろう.

うちの学生は「バカ」ではない.そのことを主張しつづけるためにも.

遺産相続者たち―学生と文化 (ブルデュー・ライブラリー)

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再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

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