脳科学の真実

坂井克之『脳科学の真実―脳研究者は何を考えているか』河出ブックス,2009年.

2007年に文科省の科学技術・学術審議会に脳科学委員会が設置され脳科学研究の基本構想や推進の方策についての審議がなされている.2009年には第一次答申案も出された.脳研究の大きな柱は「脳科学と教育」の交錯点にある.個人的には「個別化教育」を考える延長上に「脳科学」が立ち現れる.

とはいえ,本書では「脳科学」全体のなかの「ほんの一分野」である「認知神経科学」(これが巷の「脳科学」ブームを支えているわけだが)のみが議論の対象.著者はその分野の専門研究者.「心理学に脳を付け加えただけの研究」とかつて呼ばれていたという自嘲気味の挿話も興味深い.

脳領域とその働きは一対一の対応関係にはないこと,したがって(脳活動計測によって)「ある行動の際の脳の活動パターン」を示せたとしても,そこから「脳が“この”活動パターンを示した際には“その”行動をとるであろう」という予測が正しいことにはならないということ,にもかかわらず大半の「脳科学」言説はこの「因果の逆転」を所与の前提とする物言い(=非科学的な物言い)によって社会に流通してしまっている...というのが骨子.「脳科学は後付けの説明原理としてのつじつま合わせにしかなっていない」(100頁).

1990年代後半から盛んになった脳画像研究(脳活動計測実験)は装置さえあれば手軽に実施可能で,かつ精度も必ずしも高くない(測定数値の加工過程の問題←われわれの研究における統計的な多変量解析の問題と同質ですか)ことの指摘にはじまって,本書の後半は別に「脳研究」にかぎらず社会科学系の実証的研究者であれば皆に共通する普遍的問題(研究者・研究成果と「社会」との接点の問題)をまじめに議論しているという印象.

学校教育が記憶重視の方針だったころには「海馬」への注目が多かったのに対して,「自ら学ぶ力」重視になるころから「前頭葉」への注目が高まる(そして「前頭葉神話」が生まれる)という指摘なんか(25頁)は(妥当かどうか知らんけど)ありそうな話.

自分のための引用,

脳研究の分野では1970年代に現在の前頭葉研究の基礎が固められ、1980年代には動物実験による研究が大きな進展を見せるようになりました。そして1990年代後半から、とくに人間を対象とした脳画像研究がさかんになってくるにしたがって、人間の前頭葉の働きについての研究が認知神経科学の分野で大きな割合を占めるようになってきました。(24頁)

身の回りでも逸脱行動を専門とする社会心理学者が脳科学研究者と共同研究をしているといった類の話が日常的になっています(よね).日本教育学会の学会誌『教育学研究』(第74巻第2号,2007年)でも緩利誠・田中統治「脳科学と教育の間―カリキュラムへの応用方法を中心に」も書かれていますし,いまさら,という感まるだしですが,最近個人的に気になる話題でしたのでエントリ化してみました.

門外漢からみると,基本的に本書で指摘されている「脳科学」の現状の「構図」は広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)で論じられている「実証的な教育科学」に宿命づけられてきた「議論の縮図」と同質にみえる.

教育社会学教育心理学のような実証的な教育科学は、厳密な手続きで明らかにできている部分は、実はそれほど多くない。複雑な連関構造をなしている現実の、ごく一部分を、限定された枠組みで切り取って検証した知にすぎない。だから、現実に対して何かを提言しようとすると、実践的教育学から規範を借りてきたり、実践的教育学が作ってきた推測を補助的な仮説として使ったりすることを、どうしても避けられない。(広田前掲書,114-115頁)

だからダメだということではない.そのうえで何をなすべきか,ということだ.本書はそういう風に書かれていると思うし,私も読んでいて共感するところがいくつもあった.

個人的な研究上も「教育」の観点から「脳科学」の議論を概観しておく必要もあろうかと.いまの私の関心は“「テクノロジー」の進展と「思想」の更新”という問題系をどのように考えようか,みたいなところにある.テクノロジーの飛躍的発展が起こるときに,私たちが「教育」を語る際に用いてきたさまざまな基本的な観念の指し示すものが根本的に変質してしまうということが起こりうる...現在の「脳研究」も「教育研究」も「科学」としての精度は十分には高くない.そして通常,その「精度」の低さゆえに科学的把捉から漏れてしまう現実の存在こそが問題視される.しかし本当に考えるべきなのは逆なのではないか.「科学」の精度が十分高くない時代にその「低さ」を前提として組み立てられた「思想」やそれにもとづいた「制度」が臨界を迎えてしまうときに,どのように基本的概念を更新して「思想」を組み立て直すか,ということのほうが困難な,しかし不可避の今日的(あるいは近未来的)課題なのではないか...

...なんていうふわふわした話ではなく,この本はもっと地に足をつけた「科学と社会との接点」を真摯に考えた良書だと思います.

脳科学の真実--脳研究者は何を考えているか (河出ブックス)

脳科学の真実--脳研究者は何を考えているか (河出ブックス)