貧民の帝都

秋だ.大学教員=研究者であればお国の税金から研究に必要な資金をいただけるようお願いすべき季節だ.幸い個人的には昨年度すでに研究費をいただけた.自分にとって新しい試みで.しかし今年はどういうわけか共同研究へのお誘いを1つではなくいただいて,その関係で少しあわただしい.いや,ありがたいことこの上ないわけであります.

研究関連でお誘いを受ける場合,(少なくともちょっとは自分のやっていることが見込まれているわけでありますから)どういうものであってもありがたいことに変わりはないのであるが(「労働力」としてこき使う魂胆まる見えでない限り),とくにうれしいのは自分より若い世代の挑戦的な課題をかかげた共同研究へのお誘いのほう.

院生時代に恩師の一人が言っていた気がする.自分より上の世代は恐れる必要などない(←いやほんとにそう断言していいのか知らんけど).もう終わっているか終わりかけているのだから.自分より若い世代はそうじゃない.本当にそこから学ぶ必要があるとしたら自分より若い研究者からなのだ,と.

そのときは「ふーーん」としか思わなかったが,この年になって実際に自分より上と下と両方からお誘いを受けてみると,たしかに「下」から誘われたほうがなんか嬉しい感じがする.

もう一つは「教育学」や「社会学」の方よりも「歴史学」の人からお声がかかったほうが嬉しい.一番リスペクトしてるから? 自分に一番ないもの,そして自分が一番ほしいもの(=スキルや知識)を身につけた「達人」たち? もちろん,なかにはいろんな方がいるわけですが.

そういうことで「自分よりもお若い」「歴史学」の方々のなかに入れるのは嬉しい.最近ちょっと生活にハリがでている(←おじいちゃんか).

ハリがでた効果だろうか,その共同研究とも関係あるな,とか思い出して読みました,塩見鮮一郎『貧民の帝都』(文春新書,2008年).

著者はこれまで弾左衛門や車善七に代表される被差別民(「非人」),乞胸や辻芸人といった芸能民や娼妓など江戸幕末〜維新期にかけての「賤民」を中心的素材とした歴史ノンフィクション等を多数著わす.本書は「東京養育院」(1872年創設)の歴史を中心に叙述する.

歴史叙述としては2つの論点が提起されていると思う.1つは江戸期以来の被差別民が明治初期に「貧民救済」の実践の実質的担い手であったことの歴史的意義を強調する視点.

養育院の創設を福祉関係の人[=アカデミック研究者―引用者注]がかたるとき、しばしば非人の組織との関連が無視される。ふれてもお座なりで、お茶をにごしている。その悪弊を廃し、江戸とのつながりをここでは明確にしたい。(3頁)

「福祉の歴史」の初発における「非人」組織の位置づけ.

もう1つは1点目とかかわって,「貧民救済」における江戸期までの「仏教的な『ほどこしの文化』」(69頁)や「農村に沈殿した仏教の古俗」(109頁)の歴史的意義と明治初期への連続性(あるいはそれ以後の消失)を強調する視点.東京養育院を生涯支えた渋沢栄一は「獰猛なブルジョアジー」としてではなく「仏教の古俗」の担い手として描かれる.

1点目について.現代でも「貧民支援」や「福祉サービス」のある種の具体的実践では「異臭」や「汚物」とのかかわりを避けられない.いわんや江戸期/明治初期をや.

きたないこじきの世話はだれにでもできるわけではない。病者は熱のためガタガタふるえている。小便をたれ流している老人もいる。皮膚がただれて血がにじんでいるのに掻きむしっている小児がいる。邏卒[=巡査―引用者]は鼻をつまんで遠巻きにしているだけで、おもに働いたのは「元非人」たちであった。(66頁)

「汚い入所者」の世話は誰にでもできるわけではない〈特殊(専門)技能〉であったというわけ.幕末期・蘭学の人体解剖を担ったのも賤民だった,という事実ともつながるものか?

しかし明治維新によって江戸の人口規模は半分になり,都市機能は完全に破壊された.未曾有の無政府状態の混乱のなかで明治新政府は,

江戸という都市で、穢多や非人の身分が果たしていた役割に無頓着なまま……賤民制度を廃止した。 (中略) 明治四年(1871年)八月の解放令(賤称廃止令)は出るべくして出たのだが、かれらが引きうけていた貧民救済の仕事までもが、よく理解されないまま、たらいの水とともに流されてしまった。(52頁)

江戸期の浅草溜・品川溜などは無宿者への授産と更生の道をさぐるものだったことの想起.

2点目,江戸からの連続性という観点を導入すると,(1)「仏教の古俗=ほどこしの文化」(筆者は周到にこの「古俗」が必ずしも「善意」のみにもとづいていたわけではないことを行間ににじませるが)と,(2)明治国家・行政の「自己責任論」(「働かざる者食うべからず」イデオロギー)と,(3)西洋渡来の慈善の思想(「西洋のバザー」)・「クリスチャン」の思想と実践,という3者の絡み合いが展開するプロセスとして日本近代の「福祉の歴史」を捉える必要があるということか.

渋沢栄一は……[東京養育院への]寄付金をつのる「檄」を市内の有志にあてて出した。その内容は、入居している六百人はけっして怠惰で財産をうしなったのではなく、なが患いのためとか、身体上の障害のためである。しかも独り身で頼るべき縁者もいないと強調して、「人類相憐むの慈恵」をもとめた。「慈恵」はいつくしんで恩恵をほどこす意味だろうが、仏教でもあり、欧米ヒューマニズムの色づけがなくはない。十九世紀末の日本では、このような呼びかけがもっとも効果を発揮した。(116頁)

素人目にはこういう問題提起は比較社会史の観点からもかなり示唆に富むものであるように映る.さらに言うと,とくに「非人」組織からの連続性に目をつむった「研究者」が書いてきた「福祉の歴史」叙述に,こうした視点がほとんど存在しないことに対する著者の皮肉と憤りは相当なものだ.「研究者」はこの問題提起にきちんと応答すべきなのではないだろうか(私も含めて).

これは単なる歴史好きの娯楽にとって重要な指摘なのではない.現在の「貧民救済」にかかわる著者なりの真摯な問いかけがその底流に流れている.「個人」の「人権」を尊重することをなによりの根源に据える「近代の人権思想」が,いま・ここで喫緊に必要な「ほどこし」を妨げてしまう防波堤となってしまってはいまいか?

目的の店に入り、あたたかい空気につつまれてから、不意に悔恨の情にとらわれた。ああ、なんで千円札の一枚をわたして、「酒でも買って体をあたためてくれ」といわなかったのだろう。あのときなにかしてあげたいと心のどこかが叫んでいたのに、それをしなかったのは、そうする習慣がいまの社会にないという、ただそれだけのことだ。母が花売りからだまって野の草を買ったように、仏教のほどこしの文化がまだこのっていたならカネをすなおにわたせた。(240頁)

著者によれば,現時点での考えはこうだ,

「同情」とか「あわれみ」の気持ちを封じるものが近代の思想にはかくれていた。(240頁)

[水平社宣言が人間をいたわるかのような言葉や運動を拒否して融和運動との違いを強調したところにある思想も,賀川豊彦が「尊敬に値しないものは救う必要がない」という理由のもとに貧民窟のすべての乞食と淫売婦を尊敬するように言う思想も―引用者] これらの考えは近代の人権思想のひとつの到達点をしめしていると思うし、若年のころ、目からうろこがおちるような感動をおぼえたが、いまでは、同情・あわれみ・惻隠の情を復活させてもいいのではないかと考えはじめている。(241-242頁)

同意するかどうかは別として,立ち止まって耳を傾けるに値するつぶやきであろう.

かなり冗長になってしまった.学部生時代に卒業論文を東京都内の被差別部落に通って書き上げた頃の記憶がよみがえってしまい饒舌に流れてしまう.

被差別部落」を卒論のテーマにしたのも,「一億総中流」という物言いに引導渡してやろうとずうぅぅっともがき続けてきたのも,そこに「ある」のに「ない」ことにされてしまったり,「すぐそこ」にあるのに「ずっと遠く」にあるかのように扱われてしまう「不平等」や「階層」や「貧困」のありかにこだわらざるをえなかったから.95年に大学院に入学して「階層」を研究テーマにしたとき,「なんでいまさら『階層』なの?」と聞いてきた先輩院生・研究者は1人や2人ではなかった.言った本人は忘れているのだろうが(でなければ最近になって「格差」が「貧困」が,と声高に騒げないだろう),言われた私は絶対に忘れない.

しかしそんな私の「こだわり」とやらも,この著者にしてみたら「しきりに頭をさげているこじき」のいるかたわらで「政治的なスローガンをさけびながらカンパを要請する学生」と五十歩百歩なのだろう.

いろんなことを考えるきっかけが行間にあふれかえる一冊.ぜひお手にとって読んでみていただきたい.良い本だと思います.

貧民の帝都 (文春新書)

貧民の帝都 (文春新書)