技芸(アート)としての大学教育

昨日のNHKスペシャルセーフティネット・クライシスvol.3 しのびよる貧困 子どもを救えるか」を見た.よくできていたと思う.途中,学費負担ができないがゆえに進学(大学であったり看護学校であったり)を断念せざるを得ない生徒,いやそれ以前に高校教育の学費が負担できないために退学か否かの瀬戸際にまで追い詰められている生徒,一家の生計のために「バイト」(という名の底辺労働)を余儀なくされる生徒,「バイト」(という名の底辺労働)の過重負担のために学業に深刻な支障がでている生徒...といった,知っている人にとってはあまりにも見慣れてしまった,しかしながらいつまでたっても「痛み」なしには正視することのできない風景が淡々と,粛々と描かれる.

未納分の学費が記載された書類を生徒自身に突きつけなければならない教師の胸中やいかに.

現場の最前線で支援する立場の人間が一番の悪者になって厳しいことを言わなければならない構造をなんとかしなければならない,という湯浅誠さんの言葉は重く響く.

さて,大学教育のお話.

入学偏差値(ひらたく言って「学力」)と学生の出身階層とが相関関係を有しているという前提がある.したがって,一般的傾向としては入学偏差値ランクが下がってくればくるほど低階層出身者が多くなる.だが,言うても「大学」.起こってくることは,おしなべて全員「貧しい」という現実ではなくて,たとえば大学教員(多くは大学院博士課程修了者という超高学歴集団)の経済常識を共有可能な学生集団と,まったく共有できない学生集団との分離現象として現れる(私の勤務校での経験ベースの話ですので,もっと厳しい大学ではもっと違った感覚をともなった現象として経験されているでしょうが).

一応「教育社会学」などという科目を担当して,一応それなりの内容を講義でしゃべっていると,やがて学生が講義中に提出するリアクション・ペーパーのなかに,大学に入って以来感じていたその辺の「違和感」を表明する(出身階層「中〜高」の学生の)反応が続出する.

たとえば...

たまにみんなで一緒に食事をしよう,となったときに,ちょっと昼飯としては高いけど(1000円超えるかどうかの瀬戸際)せっかくみんなと行くんだから大学近くのおいしいお店で...という学生と,あくまでマックのバリューセットで,という学生とのあいだの違和感.

ささいだけれど,決定的な断層.

このことに気づいてしまうと,大学教員としても,日常的な学生への指導活動や懇親活動においてどこまでを許容可能な学生の経済的負担基準とすべきか悩み始める.具体的にはゼミでのコンパとか合宿とか.3000円飲み放題でも十分に重い経済負担としてのしかかってくる学生はゴロゴロいる.

私が現勤務校で働き始めて以来ずっと悩んできたこと(そして悩んだあげく断念してきていること)は,卒論ゼミでのゼミ合宿.明らかな違和感を感じさせつつ「バイトだのなんだの」を理由として合宿に「行けません」と答える学生が(必ず)一部出てくるからである.ならばいっそ,合宿なしで十分行き届いた論文指導をしちゃるけん! つって力入れてがんばってきたこの3年半.

同じフロアの研究室にいる元小学校・中学校校長先生あがりの教育学の先生(いわゆる「実務家教員」というやつですか)のゼミ,4年生最後の卒論ゼミ総仕上げの一環として,某国での小学校教育実践の視察をかねてのゼミ単位卒業旅行(当然海外旅行)を敢行! という噂を耳にする.

「え,○○先生,学生全員旅費負担できますか? 全員行けますか?」と私.

「(何いってんの?という顔で)ん? みんな行くよ.3年の最初っから全員そのための積み立て金,ぼくのところで毎月積み立ててるから」とその先生.

積み立て金......


おれバカか.


こんな簡単なことに気づかないとは.そうだ,あらゆる「階層」の人間が混在する義務教育学校では当たり前の工夫だ.毎月少額ずつなら積み立てられる.2年貯めれば某国への海外旅行ぐらい(ゼミ合宿の費用ぐらい)簡単に貯まるじゃないか.

「教育」の「実践」というのは技芸(アート)である,というのを痛感した,そのとき.工夫が大事.それもちょっとした工夫.大上段に構えて「貧困が」「格差が」とかいうしか能がない自分の愚かさを痛感させていただきました.今ある条件のもとでも,家計に困難がある学生に対してこれまでの「伝統的学生」が享受してきたと同等以上に意義のある教育実践を提供していくことはいくらでも可能だ.教育実践を提供していく側にほんのちょっとの発想の柔軟性と工夫さえあれば.

大学教育はこれまでそういう技芸を発展させる必要もなく教育が成立してきた特権的な空間だった.そこに通える人間はそもそも特権的な階層出身者であったからだ.しかしこれからは(いや,もうすでに)違う.大学教育をユニバーサルな空間にしていくためには,そしてなおかつ,そこでの教育実践をこれまでの「伝統的学生」が享受してきたものと同等以上の内実をともなったものにしていくためには,それ相応の技芸を駆使していく必要がある.

そのための蓄積は義務教育学校にゴロゴロ転がっている.

大学はもっと学ぶべきだ.義務教育学校から教育の技芸を.