「学力」研究,雑感

これは質の低い雑感である.詰めた考察は改めて行う(どうせそういう機会がすぐくる).

...という保険をかけたうえでいうと,今の日本の教育社会学の「学力」研究は偏向している.「格差」しか見ていない,という意味で.私の気のせいでなければ,そこには「格差を生み出している要因を取り除けば格差はなくなる(ただし,ふつう「格差」の世代間連鎖という側面に限定して)」といういささかナイーヴで,かつよく考えるとそこかしこに矛盾を生み出す暗黙の前提があるような気がする.「努力そのものや努力による成果が現出するのを妨げている要因を取り除けば必ずみんな努力するし,努力すれば必ずそれは報われる」みたいな? それまでの人生でずっと「努力が報われてきた人」にありがちな暴力的な前提だ.まあ「日本の」に限らないけれども.

もちろん「出身階層」と「学力の格差」との「相関関係」は取り除くに越したことはないし,そのための努力は必要だ(そして実際,いくばくかは取り除けるだろう,きわめて困難なことではあるけれども).けれども「出身階層」と「学力の格差」との「相関関係」が取り除かれたあとにも「学力低位層」は存在しつづけるし,その「学力低位層」はものすごく(身を切り刻むような)努力をしたうえで「学力低位」なのだ.

そんなことは私の勤務校ぐらいのレベルで教えていればほんとに「痛い」ぐらいに「痛感」する(「痛感」とはよくできた言葉だ.その感覚はほんとに「痛い」.「イタい」ではなく).

ものすごく努力している,しかし,「できない」.その自分自身の「情けなさ」にかれらは何年も付き合いつつ,それでも挫けずに,今「教師」を目指す(私の勤務校は私立教員養成大学だ.みんな「国立」には行きたくても行けない.18歳時点の「学力」が足りないからだ).かれらが自分を指してよく使う言葉,「わたし/おれ,バカだから...」は,この「情けなさ」をやり過ごすためにかれら自身で編み出したツールだ(ちなみにその用語系で「バカ」の対義語は「かしこい」).よく見ていればわかる,ときにかれらは自分が情けなくてほんとに「泣く」(その場で涙は流さなくても).

「学力」を身につけることが,相対的順位で「いくら頑張っても上位に行けない人」にとっても,いやそういう人にとってこそ,どのように有意味であるか,ひいては社会全体にとってどのように有意味であるか...そういうことを示す「実証的」な研究が必要だ.「学力」の集合的効用,とでも言おうか.個人的に上昇移動できますよ,あるいは下降移動するリスクを下げますよ,という話(だけ)ではなく.

それがないと今後求められるべき教育への公共投資を正当化できない.今の「格差」論ブームが去ったのち(去るに決まってる),この「学力」研究の蓄積がどのような社会的訴求力をもちうるだろうか.

かれらの用語系(バカ/かしこい)でいえばこういうことだ...「“バカ”はどうあがいても“バカ”かもしれんが,“バカ”が今あるよりも“かしこい”社会のほうが良い社会になっていくとは思わねーか?」...こっちの側面.

矢野眞和先生が(大卒者比率の増加にもかかわらず大卒の対高卒相対賃金が上昇し続けているというデータその他を根拠として)「生涯大学進学率100%」というスローガンにこだわる理由はここにあると思う(もちろん,かれは“バカ/かしこい”なんて用語系は使わない).そして私はそれに共感する.

「学力」の改善って実践レベルではものすごく地道で継続的な努力が必要で,かつそんなに急に成果が目に見えてあがるなんてことは,なかなかない.だから,その努力を継続するための決意を社会の側が挫けることなく持ち続けるための「根拠」が必要だ.

だって,「ちゃんと教育すれば」,ちゃんと「学力」は伸びていく.うちの学生の多くが実際にそれを証明している.そして,ときに「泣き」ながら,それでも挫けずに「学力」をつけていく努力を継続するなかで,「学力」以外のなにかの「力」もついていく.それはきっと「教師」になってから(ならなくても)少しは何かの役に立つ(あるいは,すごく役に立つ).問題は,このプロセスを継続するにはものすっっっごく多くの資源(人的/経済的/時間的etc.)が必要だということだ.へとへとだもの.

だから繰り返すが,そういう地道な努力を継続するために,そこに必要な資源を投入する決意を社会の側が挫けることなく持ち続けるための「根拠」が必要だ.

そんな気がする.