「教育(学)」をいかに語るか

最近すっかり「教育学」者としてのお仕事に駆り出されまくりの広田照幸先生.まあ引き受けてるんだからしようがないですけどね.岩波ヒューマニティーズ・シリーズのほうは貰えないみたいなんで(←最初から期待すんなよ)買いました.けれども今日は先日いただいたほうの『格差・秩序不安と教育』.ずいぶん前に読了でしたが,故あって少し触れておこうと思います.

前著・岩波「思考のフロンティア」シリーズの『教育』ですでに打ち出されていた方向性をさらに明確化したような作品.ここ10〜20年ほどの間,まるでそれ以外のオルタナティヴがないかのような勢いで日本の教育界を席巻した「新自由主義新保守主義」的改革であったが,今回のサブプライム・ローン破綻問題は明らかに国際的なレベルでの「新自由主義神話の崩壊」につながると著者はいう.それは同時に世界の一層の先行き不透明感につながるであろうとも.このことは,すでにここ10年来矢継ぎ早に導入された教育改革に疲弊している学校現場では,一層の「教育のシニシズム」――教育を通じてどういう社会が作られていくべきなのかについての反省的思考が欠落した実践ベッタリの発想――につながるだろうと危惧する.著者はそのような近視眼的な教育観から脱して,「まだ現前していない未来の社会秩序に関する構想」を模索することの重要性と,その「構想」にもとづいて「長い時間軸」(著者のなかでは最低でも30〜50年ほどのスパン)のもとで具体的な教育制度の設計を進めていくべきことを説く.もちろん,その「構想」は「対立する複数のもの」が併存する(し,併存すべきである).そのためには現時点では現実性が希薄でしかない「対抗軸」のもつ意義を重視し,積極的に「対抗軸」を構築していかなければならない.このあたり,「少数派」の「対抗軸」がもっている潜勢力に対する想像力は歴史研究者ならではと思わせるところでもある.

野党勢力や少数派が別の社会構想に依拠しながら行なう抵抗は,無意味ではない.1970〜80年代の[日本の:引用者]教育政治の構造を考察したショッパ(2005)は,常に少数派であった野党勢力が,…(中略)…世論を喚起して保守派の一部を切り崩したり,地方での実施レベルで協力を拒否したりする戦術を採用することで,多数派の保守勢力による政策プランの一部を,うまく無効化していったというのである.(13頁)

1950〜60年代の[日本の]教育の中での対立については,進歩派の手になる著作では,運動としての敗北や妥協ばかりが強調されがちだが,実は,仮に何もしなかった場合と比べると,運動側にとっては大きな成果をあげていたといえる.抵抗する少数派の存在が,現実に作られる構造や過程に対して,実は大きな意味をもっているのである.(13頁)

余談だが,97年の神戸連続児童殺傷事件等をきっかけとして少年法改定が政治日程に上っていたころ,広田先生自身,自民党連立政権を組んでいる公明党勢力に対する説得を通じて,少年法の「改悪」(と彼が考えるところの要素)をなんとか最小限にくい止めようと奔走していたように記憶する(まあ記憶違いかもしれませんので,ご関心の向きは歴史研究の題材としてそのうちきちんと検証してみてください).

したがって焦点は,複数の「あるべき未来像」をめぐる「教育政治」の動態であるということになる.教育改革を進める側にもそれに抵抗する側にも,「「教育と経済」というつながりのみが強調され,「教育と政治」の関連が見失われてしまっている」(26頁)傾向がみられることに対して警鐘を鳴らす.このあたりが最近の広田先生の強調点でしょう.現代日本の教育政治を「三極モデル」(376頁)で把握することや,「新自由主義」的改革か「日本的モデル」への回帰かという問題構図に「社会民主主義路線」の可能性を提起しようとしたり,戦後自民党の保守政権に渾然と底流を流れてきた「個別主義的な裁量行政による利益分配型政治路線と,普遍主義的な社会民主主義路線とに切り分けて,選択肢の性格を明確化することが必要だろう」(21頁)といった提言や,「一国主義で国際経済競争に勝ち抜くという国家像」ではなく「東アジア共同体」に向かう新たな国家戦略上に必要となる教育改革の可能性(3章「新自由主義の教育改革に抗し,公教育の再生をめざして)を探ったり,あるいは,最終的に複数の「構想」のなかから政治的な選択をする主体を育成することの重要性(13章「学校は政治教育をタブー視するな」)=いわゆる「シティズンシップ教育」への着目などなど,すべてこうした問題意識から必然的に導き出される提言となっている.

そのうえで,教育(や教育学)にできること,そしてやるべきことは2つに集約される.1つは,適確な現状分析と冷静な政治判断とにもとづいた「ピースミール(漸進的)な改善」を積み上げつつ,「未来社会の構想――ユートピア的なそれではなく,制度構築のレベルでのそれ――と結びついた教育改革構想を,教育学が理論的・実証的に練り上げていくこと」(28頁),これである.キーワードは「対抗軸」.この次元での「構想」は複数になるであろうし,なるべきである.むしろ,既存の制度や制度改革には具現化されていない(潜在している)「対抗軸」を構築していくことが重要だという.

もう1つは,教育それ自体が果たしていくべき役割を果たすこと.具体的には,未来社会が不透明ななかで「あるべき未来」に「もっと関心をもち,情報を集め,議論したうえで判断を下せるような市民(国民)が登場してくるように,社会として工夫をしていく」こと,「きちんとした政治的判断を下せる国民(市民)を育成すること」(29頁),これである.キーワードは「市民」.このような意味での「市民」を育成する必要があることについては「立場を越えた合意がえられるはずである」(同上).

この2軸が主題をなして本書全体を貫いていく.「一方では,どういう立場の人でも合意してもらえるような議論」(上述の後者の軸)を組み立てつつ,「他方では,私なりに選択した立場から,これからのあるべき方向を探そうとした章」(上述の前者の軸)もある.あちこちの媒体に書き散らされたものの寄せ集めでありながら一書全体の統一感が感じられるのはそのためである.

まず書き下ろしの序論(「社会変動の中の教育――その争点」)の水準がきわめて高い.すごいドライヴ感である.そしてエッセンスがすべて書き込まれている.これから教育について真剣に考えてみたいという学生さんには必読の章である.外国語に翻訳されてもよいと思う.

本論部分は第1部「グローバル化と教育」,第2部「格差と学力」,第3部「教育と政治」からなる.この順で序論にみられた議論の緊張度が弛緩していく.第1部がもっともよいと思う.第2部もよいが広田先生でなくても書けるだろうし,すでに書かれてもいるだろう.第3部はすでにそれまでの章で書かれていること以上の何かが出てくるわけではない.切れ味も鈍る(ただし,それまでの議論がよりスッキリと整理された章などはあるので,読むのが無益というわけではない).

それにしても教育基本法の改定(2006年)の際に「[新基本法は]作られたときには時代遅れになっている」という批判のロジックが展開されたのは本当に瞠目ものだった.他に誰がその批判のロジックに思い及んでいただろうか.詳しくは本書132-133頁あたりをお読みください.

広田先生の議論は第1部のように「グローバル化」という大づかみにされた社会変動を念頭に〈政治〉のオルタナティヴを構想していく際にもっとも切れ味を発揮する.しかし,その〈政治〉の問題がミクロ・レベルに降りてくるにしたがって,解釈や問題提起の切れ味をなくしていくように感じられる.このあたりは,なぜそうなってしまうのか,ということも含めて考察のしどころだろう.

また本書のなかで前後のどこにも繋がっていかない発言なのだが,個人的には非常に興味深い一節があったので紹介しておく.

[「基礎学力」という概念が経済的政治的要請や社会的な定義から隔絶されたところで教育学的な枠組みから内在的に定義されてしまうような議論の仕方に対して異を唱えたい,ということを主張したうえで]そのうえで――教育学者にとってイヤな話をしますが――,社会の経済的・政治的ニーズが,「何を基礎学力とみるか」というのを規定するとして,それを教育学的にかみ砕いて翻案して,経済・政治的色合いを見えなくして押し付けるイデオロギーが必要となる.それが教育学の役割ではないかと思うわけです.(205頁)「8章 イデオロギーとしての基礎学力」

これは教育学者を前にしてしゃべっている章なのだが,これ,面白い.広田先生ご自身の趣旨は文脈から正確には判断しづらいけれども,ここで書かれていることを私は,実は「ポジティヴ」な「教育学の役割」として日々痛感しています.教員を目指している学生たちに研究成果の蓄積が指示している達成をどのように語るか,という課題と接するなかで.実は「経済・政治的色合いを見えなく」しないと「教育を語る」こと――いや正確に言うなら,教育を「実践する」こと――ってなかなかできない(ような気がする).でもこれ,よくよく考えると,一気にいろんな問題を派生させることになる.

それはまた別の機会の宿題に.

それにしても,『陸軍将校の教育社会史』や『士族の歴史社会学的研究』の著者が序論の末尾にこのように書き記す日が来ようとは誰が想像しえたか(←おおげさ).

教育によって作られる主権者が社会を民主的に動かすという,かつてコンドルセが描いた理想は,まだ実現の途上にあると私は思っている.(31頁)

あえて言えばナイーヴである.しかし,「思想」「構想」「ビジョン」...を語るということは,あえてこのナイーヴさを引き受けることなのかもしれない.もう「ゼロ年代」も終わるわけだが.

そういえば,もうすぐ総選挙でした.政権交代が実現すると教育政策にもかなり影響がでそうです.ご関心のある方は,本書の序論だけでも流し読みしてから各党のマニフェストを評価・判断してください.私個人の意見としては,どっちの政権となろうとも,「少数派」の「抵抗」は「無意味ではない」という本書のメッセージをよく噛み締めるところに鍵があるのではないかと思っています.

格差・秩序不安と教育

格差・秩序不安と教育