おべんきょうしながら,いろいろ雑感

建築評論や建築史を専門とする人も,建築の設計図は(書けと言われればたぶん)書けるのでしょうね.同じ水準で教育評論や教育社会学・教育史あるいは教育心理学を専門としている人のなかで,学校の教育計画or教育課程(=教育の設計図)を編成することが(やれと言われた時に)できる人ってどれくらいいるのでしょうか?

教育実践・教育運動にかかわってきた人びとへのインタビューの事前準備としていろいろとお勉強している最中なのですが,調べれば調べるほど,自分がほとんどこういうトレーニング受けてきてないよなぁ...と実感(教職課程の単位とって教員免許もってる人ならもうちょっといけるのでしょうが,私ぜんぜんその気なかったので典型的な「無免許運転」の教育学(もどき)者).

カリキュラムの自由度が上がれば上がるほど教師の即興的・即時的な授業構築の余地とその重要性が増すわけですが,同時に,そうした即興的自律性をトータルとしては全体的な教育計画やナショナル・カリキュラムと整合性をつけていかなければならないわけで.

逆に,学習指導要領による縛りのなかで現場の実践を自律的に編成していくには,上述とは逆向きのイメージ形成能力(紙の上の教育計画から教室での活動をどのように組み立てられるかイメージできる)が要求されるわけで.

こういう教育計画(=教育の設計図)からの/へのイメージ変換という水準において,教師の頭のなかで起こっている作用の位相をインタビューからつかみたくて急きょお勉強しているわけですが,まだ感覚がぜんぜんつかめん.

...というか,「教育の設計図」について考察し始めると昔習ったJ.マイヤーさんの「脱連結」って概念が思い起こされて,だからこそインフォーマルに教師によってなされる「変換」の具体的な手ごたえが欲しいんだけど,そこがね.

以下備忘.

84年中曽根・臨教審で道筋がつけられてから90年代〜00年代の教育改革.「総合学習」にしても高校の多様化政策(総合学科とか総合高校)にしても,戦後初期の当時は「理想」でしかなかったものが,高度成長とバブル経済によって世界の最先進国となって実現可能になったみたいだから実現させてみた,という側面があるよね,と.「コア・カリキュラム」と「総合学習」.ハイスクールの「総合制」の理念と「総合高校・総合学科」.

戦後初期の民主主義の理念と20世紀後半からの新自由主義

ところで「総合学習」って要は大学の研究者が日常やってる活動と本質的に同一だよね,と.とくに小・中の現場の先生は「総合の時間」のカリキュラムづくりに苦心されてるわけで「外部の人の協力がほしい」って切実に感じてるわけだけど,それって大学の研究者がいちばんうってつけの人材だよね,と.

自分の研究活動(その学術的意義や社会的意義)に自信がある人は小学校に行って「総合」の授業やってみるべきじゃん?

自分がやったことないのを棚にあげてゆってるわけですが.

そこにチャレンジすることもなく小・中の「総合」がもってる可能性を切り詰めようとするかの発言,とくに大学の研究者の発言は端的にむかつく.その時間がやろうとしていることは,あなたがふだんやっている活動と「直接」(←この部分強調)つながっている課題なんですけど.っていうか,あなた「総合」のプロですよねぇ,と.

大学の研究者は自分がやってることに自負があるなら小・中の「総合」をけなすな.自分が大学でふだんやってることには意義があるが小・中で子どもがそれをやることには意義がない,と考えるなら,その理路を説明せよ.

私にはその理路が見当たらない.

プロ野球の選手が小学生に「野球やるにも基礎基本が大事だから,小学生のうちは走り込みと筋力トレーニングと素振りとかの反復練習(だけ)にしておいて,実際の野球は大学に行ってから本格的にやればいい」って言ってたらやっぱりちょっとおかしいでしょ?

で,現実の「メディア・リテラシー」教育とか「環境」教育とか...(以下略)が「おかしい」っていうなら「おかしくない」教育実践をみせてあがればいいんじゃん? 「プロ」が「アマチュア」に対して.