『ニッポンの思想』で考えてみた

「新書で考えてみた」シリーズ第一弾.

今思いついた.第二弾があるんかどうかは知らん.

昔,修論で参考文献に新書が載ってると怒ったり馬鹿にする人(先輩)がいたけど,そんなことないよ.新書以下の学術書なんていっぱいあるよ.学術書以下の新書はもっといっぱいあるけど.

佐々木敦『ニッポンの思想』講談社現代新書,2009年.

軽い気持ちで読み始めたら面白く通読してしまいました,という作品.浅田彰から始まって東浩紀にいたる80年代以降の日本=「ニッポン」の,「思想」の整理‐引用が秀逸で(ということはつまり高度に一貫した読みが完了されていて)よい本です.引用と引用の合間を縫って現時点の著者による見解が挿入されていきますが,そのそれぞれが非常に真摯かつ的確な筆致で引き込まれます.「あとがき」での著者の自負も「さもありなん」という感想.

浅田彰はここでも完膚なきまでに「正しい」。しかし、彼には次の二つの問いかけが致命的なまでに欠けていると筆者には思えます。第一に、どうしてひとは、そのような「馬鹿」で「くだらない」考えに、時として陥ってしまうのか? 第二に、どうしても、その「馬鹿」さから逃れられないのだとしたら、じゃあ一体どうすればいいのか?(245頁)

など.

個人的にも卓抜な引用の連鎖からなる本書は大変有益なものでした.とくに「浅田彰」による「ふたつの教室」の比喩は忘却の彼方でしたので.そこと「東浩紀」とがつながるライン上に私個人の現在の関心事が位置しているように思えます.少し本書を借用させていただきます.

 何の変哲もないふたつの教室。同じように前をむいて並んだ子どもたちが思い思いに自習している。部屋の大きさや形、席の数や配列、どこをとっても何らかわりはない。ただひとつの違いは、第一の教室では監督が前からにらみをきかせているのに、第二の教室ではうしろにいる、いや、いるらしいとしかわからないという点にある。たったこれだけの違いが生徒たちの行動様式に根本的な差異を生じさせていると言えば、大げさにひびくだろうか。

 第一の教室が前近代、第二の教室が近代のモデルとして提示されているということは、あらためて確認するまでもないだろう。たとえば、第二の教室の機能はフーコーが近代のモデルケースとしてとりあげたベンサムパノプティコンの機能と同一であり、第一の教室の機能はそれに先立つ絶対王制の権力装置の機能と共通している。さらに、第一の教室と第二の教室を、ドゥルーズ=ガタリのいう超コード化(専制)と相対的脱コード化(資本制)の部分的モデルとみなすこともできるだろう。
クラインの壺からリゾームへ――不幸な道化としての近代人の肖像・断章」

という浅田彰の引用――この引用部分には筆者による指摘以前の「不正確さ」があるような気がしますがそれは措くとして――に接いで筆者は次のようにつなげます,

・・・・・・しかしこの「第二の教室」は「第一の教室」と、それほど違うものでしょうか。少なくとも「監督」の存在という点では、ふたつは共通しています。
 あくまでも理想的/理念的に考えてみるならば、この二つの教室は、実はどちらも「超コード化」の段階にとどまっているのであって、ほんとうは、「監督」などどこにも居ないのに、各自がてんで勝手に振る舞うことによって、何もかもがうまくいくような「第三の教室」が構想されなくてはならないのです。
 しかし、それが明らかに困難であるということを、浅田はよくわかっており、だからこそ「相対的脱コード化の部分的モデル」という、しごく曖昧な書き方をしなくてはならなかったのです。(以上,62-63頁)

と指摘します(さしあたり筆者が指摘する「理想的/理念的」な浅田の曖昧さはここでは問題ではありません).

そこから20年ほどジャンプした「東浩紀」の章にいたり,上記の課題は次のように引き継がれます,

『構造と力』に出てきた「ふたつの教室」を思い出してみてください。一つ目の教室では「監督」がずっと見張っており、二つ目の教室では「監督」の姿は見えないが、確かに居る。「環境管理型社会」とは、いわば「第三の教室」です。しかしそれは、もはや「監督」がどこにも居ないのに、ただそれだけで全てがうまくいく、ということではなくて、確かに「監督」はいない、だがいわば「教室」それ自体が、けっしてそうとは見えない「監督」になってしまったようなものなのです。(318頁)

と.

これを東さん的「思想」の今日的文脈から引き剥がして私の個人的なテーマに引きつけてしまうと,「明らかに困難」であるはずの(いや実際に「困難」なのですが),「教室それ自体が…「監督」になってしまったようなもの」としての「第三の教室」は,現実の70年代末以降のある種の教育運動のなかで,これ以上ないほどの愚直さで,文字通りの「物質性」をともなって,戯画的なまでに真摯に追い求められ,そしてその結果,00年代には通俗化=世俗化された公式の教育政策として社会全体へと拡散していった...という風に記述していけるのではないかと.

まあこれ,ちゃんとわかってる人から見れば,教育学のスタンダードな議論を無理やりパラレルに変換してるだけのおっちょこちょい問題設定の最たるものなんですが.

とりあえず私は「思想」そのものというよりも,その「思想」性がひとびとの繰り広げる日常の「物質性」と接する平面で生起することどものほうに,そしてそれを叙述することのほうに,さらにはそこから得られるもののほうにより多く魅かれます.

現在の「思想」が悲観しているよりもずっと現実の〈アーキテクチャ〉はユルユルなのでは/でしかありえないのではないか.そしてそれゆえの希望と困難とがあるはずです.それが一つ.

もう一つは,現在の「思想」が暗黙に,そしてあからさまに思考の前提としている単位=〈ひと〉はいきなり〈ひと〉ではないということ.〈ひと〉に〈なる〉のだという端的な事実.このことが思考のアキレス腱となっていること.これがもう一つ.

つまり「世代の再生産」という端的な事実性が現在の「思想」にとっていかなる意味をもちうるのかという,ありふれた問題設定.

あとは「叙述」次元の問題.おっちょこちょいな問題設定でも「叙述」に入ると面白くなる(ものもある).

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)