「社会学」雑感(ひとりごとver.)

himaginaryさんのところ経由でJohn Quiggin さんの「ミクロ経済学帝国主義に抗して(Against (micro)economic imperialism)」を読む.

Second, the fact that egoistic rationality assumptions work well in a lot of microeconomic applications proves little or nothing about their viability in other contexts; these include macroeconomics as well as sociology, political science and other targets of microeconomic imperialism.

なんていうのを引用してしまうと,もともとミクロ経済学嫌いの土壌があるところでは喜ばれてしまいそうでなんなんですが,それでもやはり,

In particular, deviations from given assumptions that roughly cancel out locally may nonetheless be significant in the aggregate.

というところに目がいく.

ミクロ経済学(っていうか「合理的主体モデルの社会科学」)に行動経済学的なモデル修正を積み重ねていくと説明力が「上がる」のか,それともモデルの精緻化=複雑化が進展すると包括的になりすぎて「モデル」としての機能を失うのか."locally"には相殺されるが"in the aggregate"にはsignificantっていうところの(Quigginさんの記述に込められた意図がどうとかっていうレベルではなく)実質的な意味がポイントなのでしょうかね.

あくまで自分の個人的問題として,とりあえず実証的水準でできることといえば,合理的主体モデルの臨界があることを“信じて”,異なるアプローチの説明妥当性を上げていくことしかないけれども.そこに〈臨界〉なんてもともとないよ,〈地続き〉だよ,って可能性につねに怯えながら.

ちょと学期末疲れがまた出てしまって,今日は正直,調子よくないです.