虚焦点としての連合赤軍事件

ちょっと面白そうだなぁ,ひやかしにでも行きたいなぁ,という感じになったお知らせを耳にした.

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【第6回ジェンダー・コロキアム】
『戦後日本スタディーズ2巻 60-70年代』.
上野ゼミ関係者の3つの論文を選んだ書評セッション.

7/8日18:40-20:30@法文1号館315室
書評セッション:
岩崎稔上野千鶴子北田暁大小森陽一成田龍一編2009『戦後日本スタディーズ2巻 60-70年代』紀伊国屋書店
福岡愛子「日本にとっての「文革」体験」 コメンテーター:岩崎稔
・松井隆志「60年安保闘争とは何だったのか」コメンテーター:中村淳子
北田暁大「問題としての女性革命兵士」 コメンテーター:松井隆志

[執筆者・コメンテーター紹介]
福岡愛子社会学東京大学大学院博士課程)
岩崎稔(哲学・社会思想史、東京外国語大学教授)
松井隆志(社会学東京大学大学院博士課程)
中村淳子(現代文芸論、東京大学
北田暁大社会学東京大学情報学環准教授)

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北田暁大さんの論考「問題としての女性革命兵士――永田洋子と総括空間」を読む.一読してから随分おいての再読.

北田さんのこれまでのお仕事のなかで個人的なベストをあげるとすれば『嗤う日本のナショナリズム』.連合赤軍事件を光源として現代史を描く手法に脱帽.「現代史」っていうか,〈歴史〉の叙述が〈現在〉の剔出そのものになっている作品.「こんなもの学術研究ではなく社会評論でしかない」といった類の罵倒によってこの作品が達成しているものを貶めようとする(そういう人をちょっと見かけたことがある)のは,学術研究の世界そのものにとっても不毛な態度です.ここには確かな歴史の〈手触り〉がある.それって決定的じゃないですか?

それと,これはあくまで個人的な偏った趣味なんですが,すべての光源になっているかのように見える連合赤軍事件には,実は「そこには何もない」っていう底の抜けた読み方ができるのが好き.

連赤事件−消費社会−2ちゃんねるの系譜を描いた前作に対して,本論考は連赤事件からリブ/フェミニズムを経由した現代史の考察をつうじて高度に思想的な問題の入口まで辿りつこうとする力作.というか,これも「現代史」というより〈歴史〉でもあり〈現在〉でもある社会の基底にまで問題を掘り下げていく思考の軌跡.「袋小路」――それがキーワードか.とことん思考の密度をあげ深度を掘り下げていったとき,その思考が行き当たる堅固で巨大な岩盤,それ以上はどうあがいても掘り進めない行き止まり...それを指し示すことこそ,北田さんの仕事の真骨頂なのかもしれない.

思えば北田さんの仕事にはそういうものが多い.『責任と正義』をそこにカウントしてもいいだろう.その思考の強度たるや,私なんかにはちょっと真似できる水準ではない(当り前か).

連赤事件後,言説によって過剰に「女性化」された永田洋子.では連赤事件の総括には本当にジェンダーが関係していたのか.それに対する北田さんの答えは「Yes&No」.Yes,なぜならそれは,「カクメイ派」/「カワイコちゃん」という二項対立の強制が生み出したもの.しかしながら同時にNo,なぜなら総括空間が要求したのはgenderlessなゾンビ的身体――生きながらにして死を賭している主体――だったから.

この論考の白眉,

対抗暴力のロマン的憧憬と,非暴力・非抵抗の女性化に抗いつつ,社会的な水準での変革を求めていく――この根底的なジェンダーの問いの困難さが,連合赤軍事件において,永田洋子という女性革命兵の存在によって,相当に残酷な形で明確化されてしまったからこそ,長らく上野[千鶴子]は沈黙せざるをえなかったのだ。(164頁)

しかし,この論考を読んで何よりうならされたのは,最後の注69の記述を目にしたとき.この論考はあくまで入口にすぎないのだ,という宣言.それは〈男〉が自身に問うことが相当に困難な問い,あるいは,少なくとも今まで深く問われたことがない類の問い,そういうものが予告されているのだ,というふうに読めたとき.

要求される思考の強度たるや,いかばかりか.

これを上野ゼミではどのように読まれるのでしょうか.興味があります.私はうならされました.もしかしたら,今までの北田さんのもので一番,かもしれません.ここには歴史家/歴史学者には書けない〈歴史〉叙述の実践があると思います.

余談:
8日は行きたい気持ちはあるのですが,さすがに行けないよなあ,と思います.翌日の9日,実はくるりの武道館ライブがありまして,そちらに参戦いたしますもので.楽しみ.かつて武道館で聞いた&目にした,数十分(十数分7/9)もの演奏が続く「Army」以来の衝撃があるか.待ちきれないよー.

戦後日本スタディーズ2

戦後日本スタディーズ2