『教育と平等』からの方法論的考察(書きなぐりver.)

こんなことしている時間的余裕はないのだ,とわかっていても広げてしまう本というのがありますね.アマゾンさんが届けてくださった以上,これを読まずには他の仕事を進められないという感覚.

苅谷剛彦『教育と平等――大衆教育社会はいかに生成したか』中公新書をざっと「眺める」.

「大衆教育社会」というキーワードに引かれて,前著『大衆教育社会のゆくえ』の直接的な「続編」(格差社会論的文脈での「焼き直し」的な)を期待した人は,期待をはぐらかされます.むしろ,前著出版後に若手研究者・院生との共同研究で行った00年代の教育改革に関する実証研究の延長上で生みだされた「歴史研究」です.教育財政,とくに義務教育費の配分システムの戦後における構築過程を追うことで,その「戦後レジーム」が崩壊しつつある現在を浮き彫りにしようとする意欲作.たとえば,「面の平等」といった斬新な分析カテゴリーの生成.一応こういった問題群を考えてきた者であれば誰もが感じていた「感覚」を,一つのカテゴリーの生成によって切れ味鋭い分析概念にまで昇華させる見事な手腕は健在.

苅谷先生固有の用法における「知識社会学」のスタンスがここでもはっきりと打ち出されています.

お金の配分を決めている仕組みに埋め込まれたルールや,それを支えるロジックの中に,教育や社会の基底にあって,私たちが通常疑うことのない,ある意味ではもっとも自明にされた「知識」があるに違いない,という着想・・・・・・(あとがき)

他のすべての具体的内容をすっとばして私の目に留まったのは,次のくだり.長くなりますが引用します.

ひとつには,いわゆる「言説研究」とは異なる類の知識社会学的研究のあり方を示したいと思ったところにある.古い雑誌や文献から言葉を拾い集め,それらの関連性をもとに,ある時代の社会意識,メンタリティ,「時代精神」を取り出す.そういう研究スタイルの流行が,教育の社会学的研究でも続いた.だが,取り出された言葉をもとに,パッチワークのように再構成されたある時代の社会意識なりメンタリティが,どこまでその社会に根深く埋め込まれた基底的な知識にまで到達できているか.私自身のこれまでの研究を含めて,隔靴掻痒の感を持ってきたのである.文献に残された「言葉」だけに頼らずに,「言説と実態の二分法」にとらわれずに,ある社会のある時代の基底にある「知識」を取り出すことはできないのか.財政の仕組みとその実際の動き(お金の配分のあり方)への着眼には,そのような方法論的な企図があった.語られない部分を含めて,ある社会のある時代の「知識」に迫りたい.それがどれだけ成功しているかは読者の判断に任せるしかない.(あとがき)

「言説と実態の二分法」にとらわれずに社会の基底にある「知識」に触れること.こういう方法論は,あるいは,こう言い換えたものとも同じものでしょうか.「言説と言説の置かれた物質性の領野とのずれと接合を丁寧にトレースしていくこと」(北田暁大『思想地図』vol.2,p.234).観察されるものを丁寧にトレースしていくことで,ようやく「観察されざるもの」をおぼろげに浮き上がらせていく作業.

ここで一気に話が飛躍してしまいますが...

本書は教育言説と教育財政の動きをトレースする.それは,言説だけでなく実際に民主社会の手続きを踏まえつつ決定される配分システムのありように「知識」の所在を求める手法.さて,ここでの手法がトレースする「物質性」の領野は,教育財政といった地域・国家単位データであるわけですが,この同じ手法は,マイクロ・データ(個人単位データ)によって示される「物質性」に対しても同等の方法論的負荷でもって適用可能とみなせるか否か.

マイクロ・データの分析モデルで説明しきれない残余というのは常にある(「モデル」というのはそういうものだ).一方で,行為者の合理的選択を前提にしたミクロ経済学行動経済学)や数理モデルを応用した数理社会学などは,つねにその説明力を漸次的に,あるいは飛躍的に向上させ続けている.そのとき,それらのモデル分析がその特定の時点で有する説明力のもとで,それでも残さざるを得ない「説明不可能性」を系統的に解釈するアプローチとしての「言説分析」は存在しうるか.存在する「余地」はあるか.

それが「行為者の合理的選択を前提にした」行動経済学や数理社会学がモデルを複雑化・高度化して説明力を十分にあげる日までの「三日天下」でしかなくても構わない.問題は,合理/数理が説明しきれない残余の系統的読解/体系的解釈という方法論が,単なる「個性的なメタ語り」の次元を超えた一定の妥当性を有する方法として存立可能か否か.

もし「否」であるなら,社会分析はすべてマイクロ・データの数理/定量解析に還元しうる.

・・・・・・ちょっと今ぜんぜん整理できてないです.鬼のように書きなぐってしまいましたが,そのままここに置いてみます.しばらくしたら本エントリには手を加えるかもしれません.

とりあえず,これから講義.

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)