後期大衆化段階の大学問題

なんと幸いなことに,矢野眞和先生の東大社研ワークショップでの報告パワポを拝見することができた.よっぽど東京まで行こうかしらんと思っていただけにラッキー.うちの奥さんが別の社研プロジェクトとかかわっているドサクサでまわってきた資料が見られたのでした.

内容は(パワポのスライドから推測するに),既発表の「人口・労働・学歴―大学は,決して過剰ではない」と,「なぜ,大学に進学しないのか―顕在的需要と潜在的需要の決定要因」(濱中淳子さんとの共著)のエッセンス,プラス,新しいミクロ・データをもとにした「進路選択の社会・経済・教育モデル」を提唱し,矢野先生の年来の主張であるところの,教育への公共投資を軸とした新しい福祉社会モデル=「教育社会 Education-based Society 」の構築を結論するもの.今回のご発表の言葉では「社会的矛盾を孕んだ“偽り”の(大学)全入時代」から「“正統”な全入時代=生涯進学率100%」への転換をめざす政策提言.

『賃金構造基本統計調査』によって大卒対高卒の相対賃金を被説明変数にした年齢別学歴間弾力性をみると,50代を除いてすべて大卒労働者比率は正の相関.高学歴化により大卒者比率が増加したにもかかわらず大卒の価値は上昇した.

注意しておかなければならないのは,「大卒が増えれば大卒の価値が減少する」という説は,いつでも,どこでも通用する法則ではないということである。労働需要が変わらなければ,労働供給の増加によって賃金は下がる。しかし,高卒よりも大卒の労働需要が多くなれば,労働供給が増えても賃金は減少しないし,増加する場合もある。知識集約的な仕事が増えれば,高卒よりも大卒を優遇するようになる。世間の通念とは逆に,日本の大学は決して過剰ではない。(「人口・労働・学歴」p.120)

にもかかわらず,進学率が50%で停滞しているのは学力選抜の帰結でもなければ進学選好の問題でもない(なぜなら,前者は最頻値周辺で飽和・安定・均衡するとは考えにくいし,後者は親の望む学歴水準が8割近くにのぼるという事実が存在するから).それは「奇妙で,社会的に歪んだ不安定な状態」だ.進学需要分析の結果によれば,

現在の大学進学需要が停滞し,安定しているのは,実質所得の減少,実質授業料の上昇,および失業率の高止まりによる帰結である.失業不安が進学需要を高めているが,所得と授業料の2つが進学需要を下げるように作用し,相反する力関係のために均衡している.(「なぜ,大学に進学しないのか」p.95)

しかも,大学志願率という顕在的進学需要のほかにも,「大学進学の潜在的需要が,家庭の経済事情と(社会的な大学合格率の状況という;引用者)進学事情に応じて,専門学校に吸収され,埋め込まれている」(同上,p.96).

個人の選好によって「進学しない」のではない。進学したくても「進学できない」のである。「大学全入時代」という言葉を用いて,進学を希望すればだれでも大学に行けるようになったと断定するのは誤りである。(中略)50%進学が将来も安定的に推移するとか,「大学全入時代」が到来したとかいう最近の風潮は,根拠のない判断であり,高等教育「政策」の問題の所在を隠蔽してしまう危険性がある。(同上,p.100)

ここから急務とされる政策の要点は「授業料の負担軽減策を加味した機会均等政策」だといえる.なぜなら,現在の進学率停滞は,「経済合理的な選択の帰結だと結論するだけでは済まされない社会規範の問題」だから.一方で,個人レベルでいえば「激変する危険な時代だからこそ,教育投資が生活を守る鍵」という側面があると同時に,全体の社会経済レベルでも「大学教育に対する公的資金の投入は,機会の均等化政策のためだけでなく,経済の効率性からみても支持される政策的含意である」(同上,p.101)(=大卒者への労働需要).

大学は過剰なのではなく,過少なのだ.

賃金(=結果)の平等化ではなく,教育機会を平等化する再分配政策が,「社会変動と不況」による「不安と危険」を回避し,しかも経済を効率化する社会経済政策の要である。教育機会を再分配する「教育社会(Education-based Society)」の構築が新しい福祉社会モデルだと思う。(「人口・労働・学歴」p.122)

なるほど,単純な統計だけど,今回のスライド資料をみて改めて認識したのは,都道府県別大学進学率の状況.全体の大学進学率50%超とはいえ,実際に50%を超えている都道府県の数は3分の1(15都府県)にしかならない.残りの3分の2は50%を割っているし,最低の岩手県は実に3割にしかならない(東京は7割超).人口が集中している都府県の進学率の高さにひきずられているが,進学率の地域分布を考えると,これはかなり深刻な事態である.

さて,以上の既発表の分析に今回プラスされた部分では,「前期大衆化」段階の親世代と「後期大衆化」段階の子世代のあいだの世代間学歴移動に着目した進路選択モデルを提示されている.親学歴(社会),所得(経済),子どもの在学する高校類型(教育)の3要素を考慮したモデル.

「大学一世」をめざす層の進学意欲は衰退していないが,「大学二世」となるべき層の大学進学忌避行動の背後にある要因として「高校教育の経験」に着目したのが今回の報告の骨子かと推測する(あんまり詳しく書けませんが).

大変面白いし,自分が日頃学生と接している感覚とも呼応する部分が多いように感じます.とても「大学一世」が多い大学ですので.ただ,そんな日頃の感覚や3年間で10件ぐらい行かされた高校出前授業(へき地・中堅から底辺ちょい上ぐらいの高校)での感覚からいきますと,「高校教育の経験」というよりは,その前段階での「中学校教育の経験」がずいぶん重荷になって大学進学から脱落する層が多いように感じます.

人口密度が低く,校区が大きく,職業的多様性が大きい地域の比較的大規模な中学校では,生徒指導面での教師の負担が大きく,授業の質に問題があるケースがままある.そこである特定の科目につまずきが発生すると,本人の高校教育における学習効率が大きく低下してしまう事態に直面する.そうした形で中学校教育を通じて,教育投資の収益率に人為的な低下圧力がもたらされる要因が埋め込まれているのではないかという実感をもつ今日この頃です.

「高校教育の経験」自体が,「どの高校に入れたか」という問題,すなわち「中学校教育での成果」の帰結の指標ではないかと思うわけです(ご報告に対する不十分な情報をもとに勝手に言ってるだけですけども).

ともあれ,矢野節(やの・ぶし)炸裂だったことはスライドの端々からもうかがえます.「50%がピークになり,その後に安定する財・サービスを見たことがあるか?見たことがあれば,教えてほしい!」とか.と同時に,「教育が〈われわれ〉にもたらす恩寵」に対するゆるぎない信念.正直,院生時代にはいくぶん懐疑的だった面もありましたが(なにせフーコーとかはやってた頃だったし,大学への公的投資は「逆進性」をもっている,とかってゆってたような次元だったし),今の大学に就職して学生指導にあたるようになってからは,その信念の正鵠を射ていることを痛感しています.

また会ってお話したいな.いろいろと.