『労働者と農民』と「教育の歴社会学」(4)

とりあえず最後です.
■(3)「差別・抑圧・搾取」問題:“個”がいかに析出されてきたかの主体的側面
戦前日本の地主-小作関係や労資関係の前近代性を“差別・抑圧・搾取”という観点で捉えるとき,そうした苛烈な身分・階級関係の最底辺で生きる人々の「意識」の問題がもう一つの重要な問題として浮上してくる.本書は「教育(と階級)の歴史社会学」が一貫して捉え損なってきたこの問題を,ヴィヴィッドに再構成している点で出色であり,学ぶべき点が多い.

女工・小作・坑夫を(1)「戦前日本資本主義の歴史的特徴」と(2)「戦前日本の前近代性」の両面が集約された存在として描く本書は,社会の最底辺におかれたこれらの人々を,(1)経済的搾取の対象であったと同時に,(2)人間的・人格的に貶められた差別と抑圧の対象でもあった,という二重性のうちに捉える.とくに後者の点は,トマス・C・スミスの初期工場労働者の意識,その自尊心のありようと「恩恵への権利」の渇望という指摘とも共鳴する.

スミスによれば,初期労働運動にみられる労働者意識は「権利」ではなく「人格」(の尊重)という考えに基づいていたという.それは労働者の「人格」の承認を求める運動であり,資本家・使用者と労働者との道徳的平等性に基づく待遇改善要求であった.近代日本の最底辺におかれた人々の「集団的」闘争の主題は,(経済的搾取の解消もしくは緩和というよりも)自らへの差別・蔑視の解消に収斂した.こうした指摘は本書後半部分のさまざまな抵抗運動の叙述とも共鳴する.

これは経済的搾取と人格的差別とが重層化した戦前日本資本主義のシステムに対する抵抗の形態に,特殊歴史的な刻印をもたらしたかもしれない.集団的アイデンティティとしての「階級観」は(経済的)搾取ではなく(人格的)差別の面に特化した.したがって,たとえば企業社会における職員・工員間身分格差の明示的なシステムが解消されれば,そこにいかに階級格差が温存されていようとも,あるいは搾取のメカニズムが残存していようとも,戦後に明瞭となる組織的な労働運動の退潮はある意味で“約束”されていた,といえる.

換言すれば,こうした経済的搾取のシステムに対する抵抗の形態は「個人的」なそれへと特化・収斂したともいえる.そして,その具体的な表現が学校教育経験とそれを通じた階級移動という形で実現された,と考えることもできる.「学歴主義の沸騰」である.

これらの仮説は,近代日本において“個”人がいかに析出されてきたかの主体的側面について明らかにすることにつながる.たとえば最底辺の民衆の抵抗運動のなかに埋め込まれていた共同的な“教育”体験という次元を,これまでもっぱら焦点化してきた学校教育の選抜・配分機能の解明とあわせて明らかにしていくことも,「教育(と階級)の歴史社会学」が取り組むべき分析課題なのかもしれない.(終)
経済学とのつながりをまったく意識していない時期のメモ.『労働者と農民』的な議論との接続をもって「経済」的要因を論じているかのような錯覚があった時期.でも,そうじゃないですよね.

エントリを改めて考えますが,ある時期以降の日本の教育社会学が,歴史研究もそうでないものも含めて,ごく一部の例外を除くと「人的資本論」的発想をまったく打ち棄ててきたことの反映かな,と.

よく教科書的な議論では,「教育学」は価値を論じ(「当為論」),「社会学」は現実を分析する(「存在論」)といった対照がなされて「教育社会学」は後者なんだ,って強調された時期があったけれども......でも「人的資本論」的発想がきれいに忌避されてきたという程度には,教育社会学も「教育学」的であったわけです.

人的資本,労働生産性...といった用語系で教育社会学の既存の議論を論じなおす必要があるでしょう.

それは「格差」と「貧困」を論じる「もう一つ別の」論じ方をもっと洗練させていきましょう,ということでもある.