『労働者と農民』と「教育の歴史社会学」(2)

■(2)「階級概念の単位」問題−1:“個”がいかに析出されてきたかの構造的側面(いろいろ瑕疵のある叙述が続きますが,まそこはひとつ)
「階級概念の単位」問題を典型的に示すのが小作農家と女工との関係のありかたである.さて,結婚前の何年間かを製糸・紡績工場の苛酷な労働条件下で過ごしている女工は「労働者階級」なのだろうか.しかし,その賃金はほとんどそっくり(父)親の懐に入っている(=家計補助的である)のだから,父親の階級をもってして(=「小作農階級」)彼女の階級所属とすべきなのだろうか.これは1973年にAckerによって階級研究に提起され論争にもなった「女性と階級」問題と同型である.階級の単位は「個人」か「家族」か,という,あの古典的な問題である*1

これは女工の場合にもっとも先鋭的にあらわれるが,戦前期の農家出身者の若年労働者であれば男女の別を問わずに存在する本質的な問題だろう.この時期の農家未婚女子やいわゆる「農家の次三男」においては,階級概念が一元的に理解可能と想定している「市場状況」と「労働状況」という二つの構成要件が一個人において分裂しがちだからである.労働状況としては「労働者階級」であり、同時に市場状況は生家である農家の経営状況やライフサイクル状況に依存する,という関係性を生きているのがかれらだからである*2.「個人単位でみれば労働者階級であり、家族単位でみれば小作農階級」という,文脈に応じて階級所属の定義そのものが揺らぐ現実を生きているのがかれらであるはずだが,その点に十分に留意した「教育(と階級の)歴史社会学」研究はいまのところない.

むしろ講座派マルクス主義の議論のほうがこの点の理解において「進んでいる」とすらいえる.少なくともそれは,戦前日本資本主義と半封建的地主制との相互規定的=相互制約的関係性が高率小作料と低賃金という形で具現化され,戦前日本資本主義の急速な発展そのものが可能になったプロセスと,そのダイナミズムの矛盾を一身に体現した存在として女工を描き出すという“ダイナミック”な歴史認識を有していたのである(とあえて言っておくべきだろう).

単にこれまで得難かったデータが手に入ったからといって,そうした個票データの計量的な分析さえしておけば教育と階級のかかわりについての目新しい事実が顔を出す,というわけではない.「個票」分析といっても,ここで必要なのは通常のミクロデータ分析がアプリオリに前提する単位としての「個人」そのものが析出されるメカニズムの解明なのである.近年(注:今から数年前の話)活発化している個票分析は,そこにどのような形で積極的に家族/世帯や地域共同体といった変数を組み込んでいくかを論じるべきだろう.それは同時に,近代日本を対象とする社会移動研究がとくべき固有の問題群を提示しているように思われる.「イエ/家族/世帯」と「個人」との関係性変容を媒介する要素として「移動」を捉え,そのダイナミックな展開過程として近代日本史をたどること.個票を構成する“個”人が家族/世帯や地域共同体からいかに析出されてきたかの構造的側面を明らかにすることである.

*1:ただしアッカーの議論は女性の「社会進出」の進展,個人的な賃金稼得のある女性の増加を背景として提起されたのに対し,ここでは近代日本の階級形成のそもそもの基点に「女性と階級」問題があると主張している.近代日本の階級現象はジェンダー現象ぬきでは現出しえない,階級現象が“すなわち”ジェンダー現象でもある,と主張している.「世の中には女性が半分いるのだから,それを除外した階級分析には問題がある」という“ぬるい”話ではない.

*2:ということはすなわち,社会移動研究に個人ライフコース・世帯ライフサイクルといった時間軸の変数も挿入していかなければならないことを意味する.少なくとも歴史叙述を適切なものにするためには.