『労働者と農民』と「教育の歴史社会学」(1)

原点回帰で問題を考え直す今日この頃.むか〜しのメモ.個票データを用いた社会移動の計量的歴史研究からどのようにブレイクスルーするか.〈計量〉の向こう側の〈計量されざるもの〉をどのように叙述するか.中村政則『労働者と農民』(小学館ライブラリー版)から.

■はじめに
(小作/貧)農民・女工・坑夫という社会の最底辺で「日本近代をささえた人々」に焦点をあてた歴史叙述の面白さもさることながら,1976年執筆の本書の視点から「教育(と階級)の歴史社会学」が学ぶべきことはかなり多い.というより,「教育(と階級)の歴史社会学」がいかにこれらの研究成果といかに離れたところで展開してきているかを改めて感じる.

本書が(小作/貧)農民・女工・坑夫を対象として選ぶのは,まず「戦前日本資本主義の発達の特質は,農民問題・農村問題をはなれては,とうてい論じることはできない」(33頁)し,また,これら3つの社会集団が「日本資本主義の発達の歴史的特徴をもっともよくしめし、かつ戦前日本の労資関係の前近代的本質を解明するうえで格好の対象となる」(34頁)からだという.これらを(1)農民・農村問題,(2)「階級概念の単位」問題,(3)「差別・抑圧・搾取」問題に分節したうえで、以下に階級分析と教育分析の歴史社会学的研究における問題群として敷衍する.

■(1)農民・農村問題;近代日本は階級再生産ではなく階級形成
戦前日本(に限らず高度成長期までの日本)の階級分析において、農民・農村問題が基底にある事実は避けて通れない .しかし,意外なほど近年になるまで(歴史)社会学的研究においては,この事実を正面から取り上げなかった.「基底としての農民・農村問題」という視点を「教育の歴史社会学」的な用語系におきかえれば,「近代日本は階級再生産ではなく階級形成の展開過程」という理解になる.このことは同時に,「欧米式の階級再生産論ではなく,むしろ“階級的な開放性”を近代日本の基本的特質として理解することが重要である」との指摘にも通じる.近年の代表的研究でいえば菊池城司の『近代日本の教育機会と社会階層』(東京大学出版会)がそれである。

「近代日本は階級再生産ではなく階級形成」というのはそのとおりだと思う.だからこそ農家出身者の社会移動や農民層分解を(も)個人単位で分析可能にする(かのような)個票分析研究の有する重要性は強調されてよい.だが,正確には「階級再生産ではなく階級形成」という論点と「階級の開放性」の論点とは似て非なるものである .この点と関連して、農家出身者の社会移動は歴史的には厳密な意味で「個人単位」の移動ではありえなかった,というのが②「階級概念の単位」問題が提起している論点である.

(以下(2)(3)へ続く)

近代日本の教育機会と社会階層

近代日本の教育機会と社会階層