竹内洋『学問の下流化』

教育社会学の歴史研究における碩学の著書を読む.題名に「下流」などを使っている時点で手にするつもりがなかったものを今回読了したのは,一部,うちの奥さんが「登場」する場面があるとの情報を得たため.

さっそく確認.彼が東大大学院に集中講義に行ったのは,たぶん1995年(「選抜の社会学」という科目)しかないでしょうから,そこで「東大合格発表後,お礼の挨拶をするために高校を訪れたら,先生たちに「快挙」を祝われて胴上げされてしまった,九州出身の女性大学院生」とは,うちの奥さん以外にないですね.打ち上げコンパのときしゃべってた記憶があるから.

「彼女が九州大学合格だったら,早稲田大学合格だったら,慶応義塾大学合格だったら…….先生方は胴上げしてくれたであろうか.東大合格だったから胴上げがあったのではないか」(p.107)

碩学の筆はここから「京大vs.東大」の毛色の違いを描くほうへと流れていきますが,「実態」のほうは,はい,九大でも早稲田でも慶応でも東京学芸大でも……(以下略)……それが本人の第一志望の合格報告であれば「胴上げ」してくれる高校だったみたいですよ報告まで.

でもまあ,ふつう「胴上げ」はないよね.「東大」という「快挙」だからありえたのだ,っていう類推(結果的に邪推)も無理はないでしょ.驚くもん.まず高校に各教科の先生全員がいる職員室っていうものがあって(私の高校は各教科ごとに研究室があった),第一志望合格の通知がきたことを報告に行ったら,おおそうか,つって先生がわらわら集まってきてその場で(!)胴上げ始まるって……ていうか,胴上げされに行くというわけです,職員室に報告に行くってことは.

結論的には,日本における「東大」という記号の社会的意味の特殊性(学校歴社会)よりも,日本の高校教員がもつ「生徒の進路が希望通りに収束していく事態」に責任と喜びを感じるメンタリティの特殊性(トランジション)を示す事例であったということ.なんかいい話ですか,これ?

あのコンパでの話のときに,その「九州にある公立高校」が「小学区・総合選抜制」であるという情報がくっついていたら,このような筆すべりもあったかなかったか.

何がいいたいかというと,わたしたち,歴史研究というフィールドでは,こういう勘違い叙述をたくさんしちゃってるんでしょうね,という教訓.

学問の下流化

学問の下流化