『絶望の国の幸福な若者たち』雑感

既視感

古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011年)という本を読んだ。先月末のテレビ朝日朝まで生テレビ」でのお題になる程度には話題になった本だ。

著者は1985年生まれの26歳(刊行時)。この若さですでに『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書、2010年)とあわせて2冊目の単著。著者自身が「若者」世代だという位置づけも加わって、マスコミの話題にはなりやすく、またそれゆえにずいぶんと毀誉褒貶も激しい。大人気ない罵倒や感情的な表現に流れた反発・批判も寄せられたようである。そのなかには著者の肩書が「社会学者」となっていることに向けられたものもあった(どうでもよい)。

私はというと、率直に言って、面白かった。「若者論」の体裁をとった現代日本社会論である(現代日本の「一億総若者化」というのも本書の主張するところである)。読み始めてから一気に読了まで駆け抜けられる本を手にしたのはひさしぶりである。26歳の頃の自分にはとても書けない代物だ。よくできている。才能というのはこういうものかと、むしろ清々しいほどの読後感であった。

実を言うと、私に本書を面白く読ませた一番の要因は、ある「既視感」である。いささか唐突で我田引水の評になろうかとは思うが、私は本書を1984年刊の村上泰亮氏による著書『新中間大衆の時代:戦後日本の解剖学』(中央公論社を受け継ぐ正統な系譜のもとに位置づけたい。

いや、ちょっと違う。「正統な系譜」などとは、いかにも肩に力の入った表現だ。むしろ私はこう言うべきだった――この本は、村上泰亮『新中間大衆の時代』の、とてもよくできた、完成度の高い、パロディである。

ある面でこの2つの書物はとても似ている。それだけでなく、2つの書物の間に流れた30年という時間の経過を反映して、この2冊はちょうど裏返しの相同性ともいうべき関係にある。どちらもそれぞれの「時代の気分」をうまく映し出した、その意味でpop(大衆的)な本である。洗練された才能が生み出すpopな本。さらにパロディ。無敵である。

村上泰亮氏の『新中間大衆の時代』の元ネタは通常、1977年5月20日付け朝日新聞の論説「新中間階層の可能性」にまで遡られる。その後の批判と反批判を経てアイデアを修正したのち彼が提示した「新中間大衆」という概念は、「一億総中流」社会の担い手を示す記号として彫琢されていく。「総中流社会・日本」というアジェンダ設定はこれ以後、その設定への異論反論を自らと同一の地平に繰り込みつつ一つの言説構造を成り立たせる仕掛けとなる。その決定的な転轍機の役割を果たしたのが『新中間大衆の時代』へと収斂するまでの村上氏による論説群であった。

小熊英二さんは古市さんとの対談(SYNODOS JOURNAL: 震災後の日本社会と若者(1) 小熊英二×古市憲寿)で開口一番、古市さんのこの本を1979年刊のエズラ・ヴォーゲルジャパン・アズ・ナンバーワン:アメリカへの教訓』のような本だ、と評している。「あの時期の日本の気分をよく表した」、そういう意味で、「ある意味歴史に残る本かもしれない」と。そうかもしれない。だが、私はもっと明瞭に、この本は村上『新中間大衆』に似ていると思う。東大駒場の若き才能が、東大駒場の「伝統」に敬意を表した、パロディなのだと思う。

概要

ざっとこの本の概要をおさえておこう。問いはこうだ――「日本の若者はこんな不幸な状況に置かれているのに、なぜ立ち上がらないのか」。

「不幸な状況」とは何か。日本の若年層の多くが非正規雇用者として不安定な生活を余儀なくされていること、大卒者の内定率の低さ、就活の苛烈さ、少子高齢化のもとで社会保障負担はますます重くなり、かつ将来の受益は期待できず、生涯を通した負担/受給をめぐる年長世代との「世代間格差」は覆い隠すべくもない。膨らむ一方の巨額の財政赤字、一向に解消しないデフレ、GDP規模は新興国に迫られ追い抜かれ、あまつさえ東日本大震災とその後の原発事故まで発生し、事故の収束と汚染された環境の回復には見通しも立たない。それが「絶望の国」だというゆえんである。

にもかかわらず、日本の若者は「立ち上がらない」。国を変えようと、理不尽な雇用のシステム、社会保障の仕組みを変革しようと、あるいはグローバル資本主義体制を打倒しようと、立ち上がろうとする気配もみせない。なぜか。

古市さんの答えは一見すると簡単明瞭だ。「なぜなら、日本の若者は幸せだから」。お金をかけなくても工夫次第でそれなりの日々を楽しく送ることができる。ファッション、趣味の世界、そして、SNSをはじめとするネット環境。無駄なヒロイズムを追求するのではなく、身近な人びととの関係を大切にし、その取るに足らない日常のなかに「小さな幸せ」を見出していく――「成熟した現代の社会に、ふさわしい生き方」(13頁)。「幸福な若者たち」というゆえんだ。

だが話はそれほど単純じゃない。若者たちは「幸せ」だと思っていても、その「幸せ」を支える社会構造が腐食し始めている。そのような歪んだ社会構造のなかで当の若者が幸せだと感じる「奇妙な」安定。そこに見出される「いくつかの含意」こそが、古市さんがこの本で、とくに3章のワールドカップに盛り上がる若者たち、4章の尖閣問題への抗議デモに参加する若者たち、5章の東日本大震災後・原発事故後に各地でさまざまなアクションをとりはじめた若者たちへの取材から、明らかにしようとすることだ。

キーワードは「コンサマトリー化」。何か大きな目的達成のために邁進するのではなく、「小さな幸せ」に自己充足する若者たち。「奇妙な安定」の正体はそれだという。

1章では日本の「若者論(若者語り)」の系譜が明治期まで遡って辿られる。彼によれば語りの対象として「若者」と呼ばれるカテゴリーが誕生するのは1970年代のことだという。そして、それは当時の「中流意識」の浸透を背景にした「一億総中流」(という認識)の成立とパラレルに展開したのだと。階級論がリアリティを失い、「総中流」という「階級の消滅」幻想によってようやく世代(のみ)を単位とし、それ以外の多様性を捨象した均質集団としての「若者」が誕生した。古市さんはそういう言い方はしないが、「新中間大衆」の誕生がイコール「若者」の誕生であったのだと。

2章では「今の若者は『内向き』だ」とする現代日本の若者論が、種々のデータの参照を通じて検証される。その詳細は重要ではない。「内向き」というほど「内向き」ではないが、「外向き」というほど「内向きでない」わけでもない。むしろ凡百の現代若者論は、今の日本の若者を特徴づける最大のポイントを決定的に取り逃がしてしまっている点で同罪である。

本書が強調する現代若者の最大の特性とは、「高まる一方の生活満足度」である。それこそが、本書の題名にもなっている「幸福な若者たち」の存在を根拠づける、実は唯一の客観的エビデンスである。

村上氏いうところの「新中間大衆」の存在を根拠づける唯一の客観的エビデンスが「生活程度を『中』と答える9割超の回答者」であったのと同様に。

「生活満足度」の焦点化

内閣府が行う「国民生活に関する世論調査」では1960年から50年以上にわたって「生活満足度」が調査されている。それによれば現在、20代男性の65%、20代女性の実に75%が「満足」と回答していて、20代計では約7割の若者が「満足」しているという。それは過去40年間で15%近くも上昇して過去最高値、また現在、他の年齢層と比較しても20代の満足度は最高値を示す。

同様の傾向は他の類似の調査でも認められるとして、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査や「世界青年意識調査」「中学生・高校生の生活と意識調査」が補強材料として挙げられる。

生活に「満足」だというワーディングだったのが「幸せ」「幸福」にあっさり変換されていたり、「幸福度」であるなら当然参照されてしかるべき国際的な調査データ(たとえば世界価値観調査(World Values Survey)などは比較的容易にデータにアクセスできる)には言及がなかったりするのは気になる。あと、これはすでに指摘があったが(SYNODOS JOURNAL:新春暴論 ――「幸福」な若者を見限ろう 山口浩)、同じ内閣府の『平成21年度国民生活選好度調査』では20代の「幸福度」が他の年齢層より高いわけでないといった自説と整合的でない調査結果も放置されている。

しかし、それはここでは問うまい。むしろ重要なのは、この時点でこの古市『絶望』本の書かれ方が、根本的なところで村上『新中間大衆』本と同型であることが露わになる点である。

それは、「国民生活に関する世論調査」という年1回(途中2回の時期もある)行われる「アンケート調査」の、きわめてざっくりとした、たった1つの質問文への回答傾向の趨勢だけをもとにして「日本社会」全体を論じようとする、「あえて」の気宇壮大さである。あるいは、同様の質問に寄せられる回答パターンの国際比較の視点を閉ざしたまま「日本社会」を論じようとする「あえて」の自閉性というのも加えてよいだろうか。

古市氏は「あなたは,全体として,現在の生活にどの程度満足していますか。この中から1つお答えください」_「満足している/まあ満足している/やや不満だ/不満だ」という質問を用いた(ちなみに以前は「あなたは、お宅の暮しについてどう思っていらっしゃいますか、この中であなたの気持に一番近いものを選んで下さい」という一層ふわっとした質問文だった)。村上氏は「お宅の生活程度は、世間一般からみて、この中のどれに入ると思いますか」_「上/中の上/中の中/中の下/下」という質問を用いた。「生活程度」と「生活満足度」。違いはそれだけだ。

ついでに言えば、後者の「上/中/下」の階層帰属意識に深く魅入られ、1975年の調査以来30年以上にわたって「一億総中流」意識が成立した謎の解明に取り組んできたSSM調査研究に代表される計量社会学の成果によれば、そもそもこの両者の変数間には一貫して有意な相関性が認められる。大半の回答者が「中」に収斂する階層帰属意識は、大きくわけて客観的な社会的地位指標と主観的な生活意識の要素との2つの構成要素からなっている。その意味で、もともとこの2つの質問文への回答には、完全にではないが、大きな重なりが存在するのは――計量社会学にとっては――自明のことでもある。

私の目には、「いまの生活にどの程度満足か」という「ただそれだけのこと」を尋ねた質問への回答をめぐって、日本の若者が現状に「満足」しているとか「幸福」だとか、いや違うとか、喧々囂々の議論が交わされる様は(件の朝生でそれを見た)、それにほんの少し先立つ時代に「お宅の生活程度は世間一般からみてどれくらいと思うか」という「ただそれだけのこと」を尋ねた質問への回答をめぐって、日本は「総中流」社会だとか、いや違うとか、喧々囂々の議論が交わされた光景の、純粋な――あるいは縮小された――反復としか映らない。

誤解してほしくないのだが、私は感嘆したのである。『新中間大衆の時代』の見事なパロディだと。もしそうだとしたら、それは同時に、『新中間大衆』が同時代論として有していた卓越性もくだらなさも、程度の差こそあれ、この本に引き継がれていることも意味するだろう。

拡散と錯綜

客観的には「不平等」なのに意識の面では「総中流」、客観的には「不幸」なのに意識の面では「幸福」。すでにみたように、「中流」も「幸福」も、ワーディングの微妙な(重大な?)変換がなされている。だが、だからこそ、議論はそこから迷走して(≒盛り上がって)しまう。

炎上マーケティング」だとみてもよい。

「中」意識をめぐってはそれで30年以上にわたって盛り上がれたし、先月末の朝生では各論者による「満足」の講釈や果ては人生訓の開陳まで目にすることができた(←ただし前半30分ほどの視聴による)。

このように議論の出発点を設定された以上、批判者側は「客観」と「意識」の乖離を埋めざるを得ない。客観的な「不平等」や「不幸」の存在を提示することでは、たとえその妥当性が誰の目に明らかだとしても、この議論の設定を無効化することはできない。むしろ反対に、客観的な「不平等」や「不幸」の訴えのほうが無力化されてしまうかのようである。古市さんの本(というよりその後のインタビュー記事など)に、やや感情的な反発が寄せられたのも、こうしたアジェンダ設定が何か「不当性」を帯びたものとして感得されたからであろうか。

質問紙調査において質問文と回答選択肢のワードの選択は決定的に重要である。回答者が「満足」や「上/中/下」というワードにどのような意味を読み込んでいるか、それは調査者が想定したそれと正確に対応しているか。もちろん、究極的にはそれはブラック・ボックスの中である。だからこそ、このようにただ一つの質問=回答のセットを大きな問題を論じるアジェンダ設定に用いてしまうと、重要なワードの意味=解釈をめぐって議論は百家争鳴、あるいは混乱の様相を呈する。

とくに階層帰属意識に関しては、最終的な「上/中/下」の回答に至るまでに、社会を把握する階層イメージ_イメージされた階層体系内部の一定の地位を評価する階層基準_その基準に照らした自らの階層帰属の判断、といった複数段階にわかれたプロセスが想定され――それを定式化した数理的モデルさえ複数提起された――、さらに加えてここに日常実感的な生活意識の要素が絡んでいることもあり、議論は錯綜した。

「生活満足度」についても、最終的な回答に至るまでに「全体としての現在の生活」というワードにもとづいて自らの現状がサーチされたうえで_満足/不満足の基準を想定し_回答する、というプロセスは想定すべきである。「現状サーチ」の段階の重要性を考慮すれば、この質問文は「キャリーオーバー効果」に対して脆弱ではないかという留保はつけておいたほうがよい。

ともあれ、焦点は「ただそれだけの質問」への回答――正確には回答傾向の趨勢――をどう解釈するかである。

念のため断っておくが、こういう論題の立て方自体、すでに「ダメな議論」(@飯田泰之氏)のとば口には立っている(がそれはこの際不問に付す)。

「ただそれだけの質問」の、「ただそれだけ」性の同じ地平に立ったうえで、この「若者の満足度の高さ」をベースに組み立てられた話題の本を批判することは可能か。

村上『新中間大衆』に関連する「中」意識をめぐるあれこれについては、すでに比較的まとまった形で文章にした(「「総中流の思想」とは何だったのか:「中」意識の原点をさぐる」『思想地図』vol. 2)。そこで私自身の枠組みによった「中」意識の再解釈は提示しておいた。その後、さらに数理モデルを洗練させた研究も発表されたが(数土直紀『階層意識のダイナミクス:なぜ、それは現実からずれるのか』勁草書房、2009年)、今のところ自説を大きく変える必要は感じない。ご関心の向きは参照されたい。

「生活満足度」をめぐっても同様にオルタナティヴの解釈を提示できるだろうか。まずはその前提として、古市さんがどのようなデータとその解釈を提示しているのか、かいつまんで確認しておこう。

古市解釈

古市さんの「幸福な若者」像を支持する端的なデータは図11(98頁)である。そのデータを解釈する補助線として図12(101頁)と図13(103頁)が挿入される。

ちょっと細かい指摘で恐縮だが、グラフを図示する際、軸の目盛や間隔、最小値・最大値の設定は印象を操作する余地がでてしまう(小さな変化を大きく見せるなど)ので、とくに重要な図11と13に関して、図11の縦軸の最小値を40%で切るのではなく0から示したものに変え、図13も同様に軸を設定し直し、かつ20代以外の年齢層と「全体」も含めて提示したもの(ただし男女計のみ)に差し替える(データ自体は、古市さんも言う通り、web上からのダウンロードと図書館(県立図書館レベルで全部揃う)資料のコピー&入力で数時間で終わる程度の作業量だ)。

※本エントリの後の議論にとっては図13修正がより重要である。

図11修正.pdf 直
図13修正.pdf 直

彼の図11の読み方はこうだ。現代の若者は過去の若者と比較して自分たちのことを「幸せ」だと感じている(縦断的/経時的側面)。また、他の年齢層と比較すると、40代や50代の「中年」のほうが若者より「不幸」だと、言い換えれば「若者」の方が「中年」より「幸せ」だと感じている(横断的/共時的側面)。

これをどう解釈するか。

ここで別の質問文への回答傾向が挿入される(図12)。「日頃の生活の中で、悩みや不安を感じているか」への20代の回答(不安度)は、近年一貫して「不安」が高まる傾向にある。

また、他の調査によれば(図示はない)、「21世紀は人類にとって希望に満ちた社会になるだろう」や「自国の社会に満足しているか」といった「大きな」質問に対する満足度は、生活満足度という「小さな」ことに比べてずっと低い。

以上を整合的に解釈可能にするのは、次のような推察である――人はどんな時に「今は不幸だ」「今は生活に満足していない」と答えうるか、それは「今は不幸だが将来はより幸せになれるだろう」と「希望」がもてるときだ。これからの人生に「希望」があれば「今は不幸」と考えることが自分を全否定しない。逆に言えば、もうこれ以上幸せになると思えないとき、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない。

したがって、現代若者の満足度が高いのは、彼/彼女らがもはや将来に希望を抱けず、「今、ここ」の身近な幸せを大切にするしかない(=自己充足/コンサマトリー化)状況にあることを反映しているのである。「大きな世界」の「未来」には希望も満足も抱けないが故の「小さな」「今、ここ」への満足、というわけだ。

この解釈は高齢者が一貫して満足度が高いこと(図11より)とも整合的だし、それを裏付けるように20代の満足度が上昇するのは「不況」期や「暗い時代」が多い(図13より)という。

さて、どうだろうか?

大澤真幸氏や宮台真司氏といった有名人の言葉や解釈が借用されていたりもするが、ちょっと無理がある。仮に「満足度の高低」が「希望の有無」の函数だとすると、現代の「中年」は過去の「中年」に比べてどんどん「将来の希望」がもてるようになっている(がゆえに「満足度」は低くなる)ということになりそうだが、そうなのだろうか。解釈に横断面と縦断面の要素が混在するために、合成するとなんだか訳のよくわからないことになってしまう。

傍証として用いている図13の読みはさらにおかしい。「バブル前の1985年」や「格差社会論が盛り上がった2006年」がいかなる意味で「不況」や「暗い時代」なのか。それぞれ安定成長期と戦後最長の景気拡大期だと記憶する(まあ、このあたり「ネタにマジレス」なのではあるが)。

むしろ、1973年オイルショック直後にはきちんと激減しているし、その後の安定成長期には堅実に漸増しているように見える。焦点の「90年代半ば以降」はそれ以前からの「変調」(?)なのかもしれない。

これまでの「中」意識の計量社会意識論が確認してきたように、「生活意識」系質問への回答傾向は景気動向に対して比較的敏感に反応する変数でもある。

「生活満足度」の再解釈

横断面と縦断面の要素を同時に考慮したいなら、とくに図13については他の年齢層の分もあわせた趨勢を確認した方がよい。ということで、まずは私が提示しなおした図13修正を虚心坦懐に眺めてみる。すると、私の目には長期的な傾向は以下のように映る。

まず「20代」に限定して。(1)「20代」の増減の波は基本的に「全体」の増減の動きとパラレルに生じていること、そして、(2)「全体」の満足度の水準は一貫して60〜70%の間を上下しており、さらに「20代」と「全体」との関係に焦点を絞ると、(3)1990年代の半ばまでは一貫して「20代」と「全体」の満足度の水準はほぼ同程度であり、最後に、(4)なるほどたしかに90年代半ば以降は「20代」の水準が「全体」から上向へと乖離していくこと、が確認できる。

さて、「他の年齢層の分もあわせた趨勢」をより精確にとらえておこう(図13修正の「20・30代」、「40・50代」、「60・70代以上」の数値の変遷をそれぞれ「全体」とあわせてグラフ化した)。

ここから横断面と縦断面の傾向をあわせて読み解くために、各年齢層の趨勢を「全体」の水準との関係において読み取り、まとめてみよう。するとそれは私には以下のように見える。

観察α:
(a)「20代」は90年代初頭まで「全体」と《同水準》だったのが90年代半ば以降《上方乖離》へと【上昇】する。
(b)「30代」は90年代初頭まで「全体」より《下方乖離》していたものが《同水準》へと【上昇】する。
(c)「40代」は観察期間を通じて「全体」から《下方乖離》で【一貫】している。
(d)「50代」は80年代末まで「全体」から(小さく)《上方乖離》していたものが、その後90年代後半以降《下方乖離》へと【下降転換】する。
(e)「60代」は90年代半ばまで「全体」から《上方乖離》していたものが以後《同水準》へと【下降】する。
(f)「70代」は観察期間を通じて「全体」から《上方乖離》で【一貫】している。

私も少し補助線を引くことにする。

古市さんの図11では1970年には年齢に応じて右肩上がりだった満足度がだんだんU字型になる変化として読み取れるが、全年について同様のグラフを作ってみると、1970年代からすでに「弱いU字型」を示す年が多いことが確認できる。30代が底になる感じで、「ちょっと高い」→「低い」→「右肩上がり」のように。

さらに5歳区切りで数値が公開されている年のデータを見てみると、明らかに「20代前半(20〜24歳)」が高く、「20代後半(25〜29歳)」から30代にかけて低下して、のち「右肩上がり」となっていることが確認できる。

つまり、横断的には「労働市場に出て結婚・出産・家庭ももって」的年齢層を「底」として、【それ以前(やや高め)→低下→(底)→上昇→それ以後(高い)】という構造がありそうだということだ。

ここで労働と生活の両面からざっくりとライフステージ的な類型化として、

「若者」:「未働(学生など)/初働(まだ働いて間もない)&未婚/既婚・子なし」世代
「中年」:「実働(いわゆる働き盛り)&既婚/子あり・子育て」世代
「高齢」:「終働(定年後)&子育て終了」世代

とでもおさえておこう。そうすると「生活満足度の経年変化」を解釈する前提仮説として、横断的には「実働世代は低め、未働/初働世代は高め、終働世代はもっと高め」説が採用できそうである。

未働/初働世代は「大学生は気楽な状態の人が多いし、20代のフリーターでもまだよくわかっていない人が多いから。雨宮処凛さんも赤木智弘さんも、30代になったときに変わったわけですしね」(小熊,前掲対談)というわけで高め、なにより子育て・介護・ローン返済・仕事の責任等々に直面せざるをえない実働世代(中年)で低く、それらの責任・負担から徐々に軽減・解放されていく終働世代(高齢者)に向かって上がっていく――十分ありそうな話である。

とすると、ここまでで「生活満足度の経年変化」に対する私の解釈仮説は定まった。

私の答えは、社会全体の「高齢化」、である。

ここでの「高齢化」とは、さまざまなライフイベント経験年齢の上昇、というぐらいの意味である。一番は「高学歴化」。教育拡大の発展段階論には「進学率15%超でエリート段階からマス段階へ、さらに5割超えたらユニバーサル段階」という定説がある。それを基準に記述すると、高校進学率が5割を超えたのが1970年代半ば、専修学校専門課程も含めた中等後教育への進学率が5割を超えるのが1980年代半ば、さらに、70年代から80年代にかけての20年にわたり4割弱で頭打ちだった大学・短大進学率が上昇期に入るのが90年代初頭、5割を超えるのが00年代前半、である。現在は四大のみで進学率5割超、専修学校・大学・短大あわせた進学率は8割、大学院進学率(対大卒)がとくに男性で15%を迎えようかという状況。図13等の経年グラフの左端から右端までで、労働市場への参入年齢が10歳近く上昇した(15歳→22/24歳)。

あとは晩婚化、出産年齢の上昇、さらに労働市場からの退出も10歳近く遅くなった(55歳定年制から65歳へ)。

観察α(:「20代」「30代」は【上昇】、「40代」は《下方》で【一貫】、「50代」は《上方》から《下方》へ【転換】、「60代」は【下降】、「70代」は《上方》で【一貫】)を整合的に解釈する枠組みとして「高齢化」などと応答するのはまったく大山鳴動しょぼくてすまぬ。だが、ライフステージ類型の達成年齢が全体として10歳ほど「高齢化」したことが「90年代半ばを転機として」グラフの推移に現れたとするこの解釈は、古市解釈よりも多くの情報量(「20代」以外の変化含む)を、それなりに筋の通った形で処理してくれる。

かつての20代は「若者」である以上に、もう10年近く就業経験もある職場の中堅、結婚・出産もすでに終えてそろそろマイホーム購入も検討、子どもの教育費や少ない頭金で組んだローンの返済に汲々とする日々を過ごす、ただの大人であった。他方で、かつての50代・60代が味わえた「悠々自適」感は今はもっと先送りにされてしまっている、ということもある。さまざまな制度的インフラ条件が10歳分ほどスライドしたということではないか。

しかしそうすると、観察αの変化がいずれも90年代半ばに同時的に起こっているということは逆に、戦後史における「95年転換説」(笑)も俄然説得力をもってきそうにも思える(実際、先述の小熊×古市対談でも小熊さんは「90年代初頭からの産業・雇用上の転換が95年あたりから変化として顕在化し始めた(大意)」とする見方を提示している)。そうかもしれない。だが、これまた「高齢化」説以上にしょうもない話で恐縮だが、一応もうひとつ、当該調査のなかで当該質問文が置かれた「位置」が変化したという事実は指摘しておいたほうがよいだろう。

1992年調査を境にして「生活満足度」を尋ねる当該質問は「Q2」に繰り上げになっている。Q1:「お宅の生活は、去年の今頃と比べてどうでしょうか」_「向上している/低下している/同じようなもの」のすぐ直後。

それ以前は、もっと生活のさまざまな面が根ほり葉ほり訊かれたあとだった――「お宅の生活で,去年の今頃とくらべて何か良くなっている面がありますか」「何か悪くなっている面がありますか」_「食生活/衣生活/電気器具,家具,自動車などの耐久消費財の面/住生活/レジャー・余暇生活/その他」、「お宅の暮らし向きは,去年の今頃とくらべてどうでしょうか。楽になっていますか,苦しくなっていますか」「暮らし向きが苦しくなったということは,実際に生活をきりつめたり,家計が赤字になったということですか,それとも,感じとしてなんとなく家計にゆとりがなくなったということですか」「お宅の生活は,暮らしむきや生活環境などの面で,5,6年前とくらべてどう変わったと思いますか」_「資産・貯蓄/食生活/衣生活/住生活/電気器具,家具,自動車などの耐久消費財/レジャー・余暇生活/家族(家庭)の人間関係/近隣・地域との関係/買い物などの日常生活/道路などの公共施設による地域環境/自然環境」、「あなたの生活をこのようにわけた場合,2,3年前とくらべてどのような時間がふえていますか」_「仕事,勉強のための時間/家事,育児のための時間/社交,社会活動のための時間/教養のための時間/旅行,スポーツ,遊びなどを楽しむ時間/休息,休養のための時間」、「貯蓄や不動産について伺いますが,この中でお宅でお持ちになっているものがありますか……どれとどれでしょうか。現在住んでいる家や耕作している農地も忘れずに含めて下さい」、「お宅の貯蓄や不動産は全部でどれくらいになりますか」、「お宅の家計支出のうちで,日頃から負担が重いと感じている費目がありますか」_・・・・・・・

さすがにくどいのでこのへんで。

ある時期までの政府が国民のこまごまとした生活状況のリアリティを能うかぎり微に入り細を穿つ丁寧さで掬い取ろうとしている様子への感慨を分かち合いたかったのですすみません。

話を戻すと、つまりかつては、途中で留意しておいた「生活満足度」質問へのキャリーオーバー効果が発生しやすい質問紙の構成になっていたということだ。質問紙の構成自体が「全体としての生活の満足度」を判断する前に「自分の現況のサーチ」を強制する形式から、「サーチの強制なし」で回答する形式へと変化している。各年齢層の回答傾向が同時的に変化の兆し(=観察α)を見せる時期と重なっている。だからどうした、というほどのことでもないが、「ただそれだけの質問」で話を進める際には留意しておいてよい情報かとも思う。

もちろん、「生活満足度」の読みとしてここまで提示してきた解釈の正しいことが論証しきれたわけではない。それどころか、この調査と整合的でない動きをみせるデータすらある。もしもそれが重要だと思われるなら、「満足度」「幸福度」研究として突き詰めればよい。数十年は退屈しないだろう。

だが、私はもう十分だ。私は「ただそれだけの質問」の「ただそれだけ性」を示したかっただけである。古市さんの本を読むにあたって、「それが正しいかどうか」はあまり重要ではない。議論の形式と主張の内容との関係性こそが、重要なのだ。

「含意」

「幸福な若者」像を強調する本書が、結果として現実に存在する「若者の苦境」を隠蔽し、その告発を無効化し、既存の雇用=社会保障システムの歪みとそこから恩恵を貪る者たちとを免罪するイデオロギー効果しかもたないと批判する人がいる。

だがこの批判は、古市さんがなぜ図11の解釈に「コンサマトリー化」などという、そんな無理無理にして大仰かつ時代掛かった枠組みをもってきているのかも、またその後の3章以下の記述の行間に滲み出る彼の(同じ世代の「若者」に向けられた)「苛立ち」も、まったく読もうとしていない(もしくは端的に「読んですら」いない)というしかない。

前者について、彼は「コンサマトリー化という現象は・・・数十年前の研究者も行っている」(105頁)と述べたうえで、その研究者の名前に「村上泰亮」の名前もちゃんとだしているというのに(!)。

かつて、「コンサマトリー(化)」とは「イデオロギーの終焉」と「消費社会」を論じる際のクリシェであった。「保革対立の時代」の終焉とそれゆえに新しい「新中間大衆政治の時代」を展望した村上の論説でも同様だ。

この本で、その同じ「コンサマトリー(化)」というクリシェがわざわざ使われるのは、そういうかつての言説構制を反転させて差し戻す意図がそこに込められているからだ(と読むべきだ)。

70〜80年代には「階級間格差」(と結びついたイデオロギー的対立)が「コンサマトリー化」によって無効化し「一億総中流」社会=無階級社会が成立したとされ、「若者」論が誕生した。10年代の今日その同じ構図を裏返しに用いて、「世代間格差」(と結びついたイデオロギー対立)が「コンサマトリー化」によって無効化し「一億総若者化」社会=階級社会がもたらされた/もたらされる_と論じることで_「階級」論の復興を展望するのが本書である(と読むべきだ)。

それ以後の古市さんのインタビューの表現に、ここまで丁寧な注意書きがないのは確かである。だが、こういう本書の構図をきちんと踏まえていれば、インタビューで彼があたかも「若者」を代表して語っているかのような箇所の「僕」という主語にはすべて、「のような階級の人間」という注を入れるべきことは自明である(例:「『若者はかわいそう』と言われても僕ら[のような階級の人間]に実感はないですね」)

そう読めと書いてある。

彼は「世代間格差」という問題提起の適切さに重大な疑問を呈しているし(232頁)、「世代」という変数の陥穽にも警鐘を鳴らしている(240頁)。裏には「階級」や「貧困」が重要だ、の含意がある。真っ当な主張である。

そうであるだけに、3章から5章にわたって彼が取材した「若者たち」の現状の叙述には、むしろ彼の「苛立ち」が滲み出る。古市さんによれば、「幸せの条件」には「経済」と「承認」の2つの次元があるという。前者は辛うじてまだ「家族福祉」が機能して、今すぐには問題が顕在化しない(んなこたないけどね)。「貧困」は「未来の問題」だ(んなこたないけどね)。一方、「承認」は「現在の問題」だ。そして「承認欲求」を満たすためのツールはいまや「無数に」ある。ある種の「社会(変革)志向」に突き動かされて行動を起こした「若者たち」の集団も、そこで「仲間」を得、それが「居場所」化することによって、当初鮮烈にあったはずの「目的性」が生ぬるい「相互承認」の「共同性」へと回収され、冷却される。社会変革志向が霧散する。

前著から繋がる彼のモチーフである。

古典的、といってよいほどの問題意識である。社会運動論としても、階級論としても。

しかし、彼はただ「苛立って」いるのではない。むしろ、そういう同時代の同世代の「若者たち」が身近な人間関係と日常のなかの「小さな幸せ」を大切にする価値観に共感し、擁護し、その行く末に「希望」を見出そうともしている(佐藤健氏との対談:293-294頁)。

そういうアンビバレンツこそが、彼のいう「幸福な若者」像に込められた「いくつかの含意」ではなかったか。

誠実である。素朴といえば素朴である。だがいずれにしても、そんな悪しざまに罵倒されるような問題意識ではなかろう。少なくとも、そこから話を始めるべき、そういう地点が指し示されてある。読みもしないで罵倒する人間の方が軽侮されるべきである。

最後に。

この本をここまでみてきたように読んだ人間として、問うてみたいことが一つある。『新中間大衆の時代』の元となった論文が、新中間大衆“政治”の時代、と題されてあったこと(「新中間大衆政治の時代」『中央公論』95(15)、1980年)、そして、その著者が「政策構想フォーラム」――ところがこれが私には未だに掴みきれていないのだが――のなかで新しい政治ビジョンを発信してもいたことをどのように考えるか、ということだ。

2000年代以降の政治状況を知ったうえで改めて70年代後半から80年代前半にかけての村上氏の論説をまとめて読んでみると、そこに一定の「先見性」があったことは否定しようもない。『新中間大衆』は、そのような「構想」を論じるために書かれた「現状分析」の書であって、その逆ではない。

だとすれば、『絶望の国の幸福な若者たち』の著者はどのような「構想」を語るのか。また、古市『絶望』本を村上『新中間大衆』本のパロディとして読んだ読者――つまり私のことだ――はどのような「構想」を語るのか。あるいは、「語りうる」のか。

ここから、話を始めよう。