(告知)第13回 教育の歴史社会学コロキウム

私が開催日を勘違いしていたため前日告知となります。申し訳ありません。

元森絵里子さんと太田拓紀さんによるご発表。教育の歴史社会学に関心のある方なら、だれでも気軽に参加できます。学部生、大学院生の方も、ふるってご参加ください。

第13回 教育の歴史社会学コロキウム

日時:2017年8月19日(土)13:30~
会場:電気通信大学・東1号館705会議室(7階)


【プログラム】
報告1:元森絵里子(明治学院大学) 「「子ども」の近代を問い直す意味と視角」
司会:井上義和(帝京大学

概要:
子ども観の歴史社会学的研究に取り組むことになった経緯と、『語られない「子ども」の近代』とアラン・プラウト『これからの子ども社会学』の翻訳等々を通して考えている研究課題などについてお話し、意見を交換できたらと思います。

参考文献:
元森絵里子、2014、『語られない「子ども」の近代――年少者保護制度の歴史社会学』勁草書房.
元森絵里子、2015、「テーマ別研究動向 (子ども)――子ども観の歴史性・構築性の反省の現在」『社会学評論』66(1): 123-133.
(PDF)アラン・プロウト、元森絵里子訳・解説、2011=2014、「子ども社会研究はモダニティからいかに距離をとるか:「新しい子 ども社会学」再考」『子ども社会研究』20: 119-135.


報告2:太田拓紀(滋賀大学)「教師の歴史社会学における名簿・自伝資料」
司会:吉岡三重子(お茶の水女子大学・院)

概要:
これまで、教師の歴史社会学、教員社会史研究を進める際に、主な資料として名簿と自伝を活用してきました。研究内容をご紹介しながら、それらの資料探索上の問題・困難や、資料の有効性と限界などについ て、みなさんと議論できればと考えています。

参考文献:
太田拓紀、2015、『近代日本の私学と教員養成――ノン・エリート中等教員の社会史』学事出版.
②太田拓紀、2015、「戦前期中等教員社会における給与・異動・昇進の構造――昭和初期岩手県の事例」玉川大学教育学部紀要『論叢』2014: 15-31.
③太田拓紀、2013、「近代の私学夜間部における中等教員養成機関の機能――日本大学高等師範部の事例」『日本教師教育学会年報』22: 78-88.
太田拓紀、2006、「戦前期私学出身者の中等教員社会における位置と教師像――早稲田大学高等師範部出身者の事例」『教育社会学研究』78: 169-189.


スケジュール:
13時30分~17時00分:研究発表(各90分間、途中、休憩15分間)
17時00分~17時15分:茶話会(情報交換会)自由参加
17時30分~19時30分:懇親会(食事会)自由参加


連絡先:教育の歴史社会学コロキウム事務局
    電気通信大学 共通教育部 佐々木研究室(東1号館513号室)

ボーダーフリー大学、ブタとハマグリ、産業化

またダラダラと、フラフラと書く。

「ブタ」と「ハマグリ

先日、ツイッターのタイムラインを眺めていたら、大学教員アカウントを中心に、「教育困難大学」なる語を冠した記事が少しくバズった(リンクは貼らない)。元高校教員の教育ライターによるもので、以前は高校段階における「教育困難校」ルポ風記事で見かけたお名前である。

記事の趣旨を好意的にとれば、ユニバーサル段階――とはいえ4年制大学でようやく5割、OECD諸国のなかで低めの進学率だが――を迎えた大学が抱える課題を、(後期)中等段階の「教育困難校」における教育実践面での「困難」の延長上に把握しようとする問題提起、となろうか。

だがすでに「ボーダーフリー大学」、「マージナル大学」、「ノンエリート大学」、もっと下卑たところでは「Fラン(ク)大学」などの呼称で、類似の学生の現状も教育現場の実態も、それに正面から向き合う数々の教育実践の模索もその課題や意義も、すでにすぐれた(あるいは詳細/リアルな)報告・考察がいくつもあるなかで、当該記事(から始まる連載?)が何を新たに伝えたいのかは必ずしも明瞭でない。連載予定の初回だからか、ご自身も非常勤で教壇に立っているはずの大学を対象とした記事のほうは以前に比べてもやや機微に疎い、というか少なくとも教育(/ケア)実践の意味や機能への細やかな目配りは感じられない。

当該記事には、「教育困難大学」の「あまりにもひどい授業風景」として紹介される場面の記述がふたつある。「ブタ」と「ハマグリ」のくだりである。「小学生レベルの知識が欠落している学生」を示す事例だという。だが、授業場面の――教員養成・修士卒の元教員による――記述・分析として、それは稚拙だ。理由ははっきりしている。「教育困難校」記事のエピソードの多くが著者の実体験に根ざしているのに対して、これは「聞いた話」だからである。だから、それが「どのような」やりとりであるかについて教育実践としての――教育学的な――分析ができない。

著者は(高校段階の)「教育困難校」の存在意義について、迷いなく謳う。家庭環境の複雑さや困難、貧困、先天的な病気や障害――2人とも、あるいは1人だけの親が長時間労働せざるを得ない貧困家庭では気づくのが遅れたり早期に適切なケアが受けられなかったりして重篤化する場合がある――、義務制学校の教育環境がそれらに十分な配慮もケアもしない/できないまま放置し蓄積した学習上のつまずき、あるいは不登校、そして高校進学後に周囲から寄せられる侮蔑のまなざし、固定化する自己肯定感の低さ、霧散する学習意欲、限定される将来の夢、高い中退率、貧困層予備軍として労働市場に放たれ、世代間で再生産される困難の連鎖。

そんな彼らをこのまま打ち捨てておいてよいのか。それは、そこに通う生徒にとっても、日本社会にとっても大きなマイナスにならないか。

もちろん反語である。私も強く同意する

他方で――なぜか、と私には思えるのだが――、「教育困難大学」のほうは「4年間、学生がほとんど何も学ばないまま、形骸化した「学士」を量産して世に送り出しているのが現実だ」と断じる。もしかしたらこれはあくまで前フリに過ぎず、このあと「教育困難大学」の意義を謳う記事が続くのかもしれない。だとしても、連載冒頭に置かれた記述のトーンがもたらす対比は明らかだ。

「人の不幸に敏感で共感力にあふれ、その一方、自分の能力に自信がない「教育困難校」の生徒たちは、自分より弱い立場の人の役に立ち、当事者や周囲の人から感謝されたり褒められたりしたいと切望」している。そんな細やかな観察を踏まえて著者は、したがって「保育や介護の仕事の賃金や労働条件」の「早急な改善」をと願う。「上級学校への奨学金を拡大することが最良の道ではない」。「基礎学力がない彼らは資格取得の過程で挫折してしまうからだ」。著者によれば奨学金を借りての進学は、「彼らの経済的自立にも、そして貧困の連鎖からの脱出にも功を奏していないと、現状では言わざるをえない」という。ただし著者の「体感」を超える根拠は示されない*1

著者によれば「教育困難校」の生徒は「ヤンキー」系・「コミュ障」系・「無気力」系の三類型に分けられるが、「ヤンキー」系の生徒――とにかく授業を妨害するのが特徴だ――への言及は、似た趣旨で、だがニュアンスは微妙に変わる。

「ヤンキー」の生徒が高校に進学する必要性が本当にあるのか。中退していった彼らの多くは「フリーター」になる。ただ、学歴を重視しない建設業や飲食業、サービス業に就いて真面目に働き、彼らを暖かく育て見守る周囲にも恵まれ、年若くして立派な社会生活を営んでいることも間々ある。そして、20代初めで家庭を持ち、生まれた赤ん坊を抱いて、迷惑をかけた高校にかつての所業を謝りに来ることも少なくないのだ。そんな彼らを見ていると、社会こそ、彼らの「高校」という思いがする。

「進学しても経済的自立にも貧困の連鎖からの脱出にもつながらない」と述べたその一方で、こちらは「中卒・高校中退フリーターでも建設業・飲食業・サービス業なら年若くして立派に自立できる」と言わんばかりに聞こえる。80年代にはよく聞いた話だ。だが21世紀も20年近く経った今日の労働市場のもとでそれはさすがに少しおかしい(重要なのは成功事例の存否ではなく、その「確率」である)。

産業化

大学進学の(私的)収益率はざっくり平均で6~8%、もちろん上位大学や医学部などではもっと高くなる(基本10%~、あるいは15%超も)が、人文系・偏差値51、社会科学系・偏差値44の大学でも6%(女性に限れば10%)という報告がある(やや古くなるが妹尾・日下田 2011島 2013(PDF)にまとめ)。1995年SSM調査データを用いた低偏差値(40未満)大学の収益率 2.5% という知見もある(ONO 2004, ONO 2007)が、国立/私立かつ私立・偏差値別による計測では、国立と私立(偏差値55以上)で8%超、私立(偏差値45以上55未満)で4.5%、私立(偏差値45未満)で5%、この(日本的)エラボレイト法による計測値をミンサー型賃金関数の結果のもっとも低い見積もりで調整した値で国立(8.6~6.4%)、私立・偏差値55以上(8.7~6.5%)、同45未満(5.0~3.7%)と報告されており(島 2017(PDF)※ただし男性のみの数値)、市場利子率と比べてもかなり高い。また1990年代後半以降は、他の先進諸外国と同様、日本でも大学進学の収益率は漸増傾向にある。

たしかに日本の大学教育の収益率は諸外国のなかで高いほうではない――大学教育の費用は高く、大卒と高卒の収入格差は小さい――が、十分に高い(先進諸外国のレンジ内に収まる)し、他の市場金利に比べても有利、ましてマイナスなどではない。もちろんこれらはいずれも平均の値であり、それぞれに分散はある。それでも客観的にみて大学進学は、今のところ他に比肩しうる代替選択肢がない程度には重要な投資先である。大学/大学生の数はいまだ過剰ではない。「大学に行くことに意味がない時代」など到来していない。このポイントは私的収益率に「公的(財政)支出」と「税収」(増)分を考慮に入れた「社会的収益率」でみても同様であることは銘記されたい(国立/私立、男性/女性の差異はあるが概ね6~8%で安定、妹尾・日下田 前掲)。

計算される収益率の数値は、大学教育にかかる費用や、高卒/大卒の労働市場状況、賃金構造(学歴間格差)に依存するので、これらの〈制度〉が変動すれば――大学での教育実践に何ら変化がなくても――変動する。90年代以降に大学教育の収益率が上がるのは、その裏面で悪化した高卒の就職・労働条件の反映でもある。

教育の中身がどうであろうと、〈制度〉が変われば、変わる。その教育観は、経済学的にいえば人的資本論ではなくスクリーニング理論、社会学的にいえば社会化モデルではなく選抜・配分モデルに近くなる。問題が〈制度〉にあるなら、それを変えればよい。「高卒でも就職できて、ふつうに働いて食べていける社会」のほうがまともである。だから、その実現を。「保育や介護の仕事の賃金や労働条件」の改善もその一環だ。

まったく正しい。高卒就職で、あるいは保育や介護の仕事で、「ちゃんと稼げる社会」を追求する。このことの重要性は、どれだけ強調しても足りない。だが同時に、その正しさは――スクリーニング理論や選抜・配分モデルの「正しさ」がそうであるように――半面の正しさである。必要な両輪の、片輪である。

先に少し触れたSSM調査では職業威信スコアなる指標を測定・算出している(1995年SSM調査・威信票(PDF))。異なる地点(国際比較)と異なる時点(時点間比較)におけるスコア間の相関係数の高さ(=職業威信序列の安定性・普遍性)で知られる指標である。この職業威信スコアの出生年代別の平均値を、生涯キャリアに沿って20代から50代まで結んだラインを描き、その長期趨勢を示した図(佐藤・石原 2000: 209, 図10-3)*2――それは社会レベルの歴史時間とライフコース・レベルの個人時間の2つの要素を含んだグラフとなる――を眺めてみると、2つのことが読みとれる。個人レベルでは、年齢を重ね、就業年数を積むにつれ、職業威信スコアが上昇する「年功効果」がみてとれる。当たり前の話かもしれないが、ひとはキャリアを積んで、より「高度」な職業へと「上昇」する、その趨勢が明瞭にわかる。もうひとつ、社会レベルでみた場合には、より若い世代(コーホート)ほど、先行世代よりスコアの高い職業からキャリアをスタートし、生涯キャリア全体のレベルが上昇している趨勢――元論文では「時代効果」――がみてとれる。社会全体の職業が「高度」化しているのだ。だから若い世代ほど、職に就くということが、先行世代より威信スコアの「高い」職業への「跳躍」を伴うものとなる。それが持続的な趨勢として存在することがわかる。

〈産業化〉とは――少なくとも今のところ――そういうことである。新たな産業が次から次へと生み出される、ダイナミックな構造変動。それはしばしば「二極分解(論)」的想像力をかきたてる/てきたが、産業社会はそれほど感応性高くはなく、脆弱なものでもない。その基底において、漸進的かつ持続的に、職業の「高度」化が進行する。産業化/産業社会のメインボディはむしろそこにある。それは企業経営者と労働組合や、その他の政治勢力やなにやかやの力学の帰結として生み落される〈制度〉や、あるいはひとびとによる〈現実の構築〉とは別水準の問題としてある。

繰り返すが、必要なのは「両輪」だ。全体として「高度」化していく職業に、かつてなら支払われたはずの、それに見合う賃金や労働条件が与えられなくなっている。そのことは〈制度〉の問題として撃ち、是正しなければならない。「高卒で働く」職業で「ふつうに働いて食べていける社会」の追求にもつながるはずだ。だが他方で、産業化という持続的な変動は、それとは別次元で厳として進行する。教育から職業へ、あるいはある職業から別の職業への移行に際して、かつてより個人は「高く」跳ばなければならない。「大卒の優位性」とは、こうした水準の〈構造〉問題と切り離されて、まったく「恣意的」に構成されるわけではない。その恣意性「だけ」を切り取り強調するのは、悪しき素朴な「社会学主義」である。

だとすれば、以前より「高く」ある職業への「跳躍」を可能にする「踏み台」を――「跳躍」に「失敗」しても絶対大丈夫な「網の目」を整備するのと並行して――より強固なものにし、拡大する必要がある。その焦点は――必然的に職業と何らかの関連性を含むものとしての――「高等教育」となるだろう。

ボーダーフリー大学

個人的な印象だが、ツイッターであれブログであれ、「ボーダーフリー大学(というか大衆化大学)」ネタはバズりやすい。90年代以降の設置基準の大綱化で、大学の数は増えた。そのすべてではないが、多くは既存の大学序列構造の下位に組み込まれる。量的拡大期には、それまで経済的に――それゆえ/あるいは――学力的に進学しなかった/できなかった層が流入するため、教育の質的変容は不可避である。「ブタ」と「ハマグリ」を前にして、「いったいどうやって教えればよいのか」とも思うだろう。だがそこから「こんな大学は無駄だ」という判断は直接には導かれない。現在の四大進学率と同レベルの進学率だった1950年代の高校でも、「いったいどう教えるのか」「こんなのは高校ではない」「そんな高校は無駄だ」という議論は喧しかったが、そこからユニバーサル化に至る道を、われわれの社会は採択した。今は次の選択を迫られた分岐点である。「大衆化大学」をめぐる議論が炎上しやすいのは、それが現在、わたしたちの社会の「分断」の行く末を左右する、〈社会的〉な争点となっていることの証左である。

グローバル経済の進展にともない、剥き出しの生の脆弱性に曝されることとなる個人をいかに社会に繋ぎ留め、分断と亀裂の深化からこの社会を守るのか。大学教育の収益率の現状と、産業化がもたらす職業構造の変動趨勢を踏まえれば、高等教育・職業教育訓練投資をひとつの基軸とする――いささか不自然な表現にはなるが――「教育機会の再分配」という構想に辿り着く。

この消極的な大学有利説は、今日の社会経済政策を考える上で示唆的だ。かつての経済成長期は、「期待と確実性」に裏づけられた明るい未来があり、学歴間格差も縮小する時代だった。だから、世間の学歴無用論も罪なく許されてきた。しかし、現在は、「不安と不確実性」に悩まされ、未来が見えない危険な時代である。激動する危険な社会を生きるための人生保険が切実に求められている。その有力な人生保険が教育投資である。現時点における学歴無用論や大学過剰論は、若者の進路を誤らせる罪深い無責任なメッセージである。(矢野 2008: 121-2

危険な社会を生きるためには、お互いに助け合う再分配モデルへの舵取りが求められる。手垢がついたかもしれない「福祉社会モデル」を再構築する必要がある。構築の鍵を握るのが教育への公共投資である。不確実な未来を生きる若者だけでなく、30代、40代の中年世代への教育投資が求められている。学歴間格差の拡大は、学歴の有効性だけでなく、中年世代に対する職場教育訓練投資の重要性を示唆している。賃金(=結果)の平等化ではなく、教育機会を平等化する再分配政策が、「社会変動と不況」による「不安と危険」を回避し、しかも経済を効率化する社会経済政策の要である。教育機会を再分配する「教育社会(Education-based Society)」の構築が新しい福祉社会モデルだと思う。(矢野 前掲: 122

いくつか銘記しておく必要がある。投資‐収益の効率性に鑑みて、より早期の教育段階――大学よりは高校、それよりも義務教育、とりわけ就学前、わけても貧困層対象の――への優先性は疑うべくもない。貧困対策としても、費用対効果にみる収益性の「高さ」の「確度」という点で就学前教育への投資の重要性は強調しなければならない(上に言及した「保育の仕事の賃金や労働条件の改善」という課題とはここで結びつく)。だが他方で、中等・高等教育への公的投資や職業訓練プログラムもちゃんと「ペイ」する(Levine & Zimmerman 2010)。子どもの、とりわけ乳幼児期の発達が、純粋に経済的な要因だけでなく、親の――主として労働条件がもたらす――時間的余裕、身体的・精神的健康、ストレス/ゆとり、といった家庭環境を主要な経路として規定される以上、世代間連鎖を断ち切り事態を好転させるためにも、子どもの「教育機会の均等」は、親への再分配を通じて達成される必要がある。

早期(とりわけ就学前)の教育段階の優先性と並んで留意しておくべき付帯事項は、教育の「質」である。「教育困難校」記事の著者が適切にも示唆するように、教育実践の質――たとえばその著者によれば高校段階での“5つの「リ」(リセット、リハビリ、リメディアル、リフレッシュ、リボーン)”の実現――を問わない「無償化」論は無意味である。かりに高等教育を「無償化」するとして、予想される量的増大に即した追加投資が伴わなければ、教育の質は悪化する。それどころか、教育を支える公的財政基盤をいっそう掘り崩しつつ推進される「無償化」政策でさえ、論理的には実現可能だ(「維新」以降の大阪を注視せよ)。

教育投資(-回収)の長期性・不確実性と正の外部性を認めるかぎり、公的支出は必須である(家計(個人)に任せると過少投資になる)。教育投資に見込まれるいくつかの社会的「便益」――知識獲得のスピルオーバー以外にも、将来の失業手当・生活保護受給者予備軍を納税者へと押し上げ、健康・衛生管理や治安維持の観点からみた政府支出の削減と税収増加 etc.――の諸論点を、件の「教育困難校」連載はじつはすべてカバーしている。だからこそ「教育困難校」の生徒を打ち捨てておくことは「日本社会にとって大きなマイナス」だと述べる著者は正しい。

国際人権規約にある「中等・高等教育の漸進的無償化」条項の実現は、もちろん追求されなければならない。その旗を下ろしてはならない。だが大学教育の費用にかかわる〈制度〉の変容は、計測される収益率の数値にも大きな影響を与えるだろう。それはあくまで「漸進的」に、バランスと方法・手段を吟味しつつ進められる必要がある。「質」に言及しない、気安い「無償化」の大盤振る舞いには慎重であらねばならない。だから、「大学進学希望者への新しい経済的援助が考えられつつある今、本連載を通して(略)現在の大学が抱える問題の一端を、少しでも多くの人に考えてもらう機会になるよう願って」開始される「教育困難大学」連載初回の意図も、間違ってはいない。

つまり――途中気になる記述は目につくとしても――、ざっくり言って、そんなに異論はないのである (←オウフ。長々と書いてきたオチがこれではなんだか申し訳ないが、ただし気になるところはすごく気になる――たとえば「試験前夜か当日朝の電車の中で、対策プリントと教科書をひたすら暗記」「対策プリントをひたすら暗記」「プリントで試験に出そうなところをひたすら書き写す」といった「教育困難校」の生徒たちの「本来の試験勉強から懸け離れた」勉強法は、少なくとも20数年前の東大・駒場の試験期間恒例の風景そのものなわけだが、そのことはどう整理する?――ことは確かであるので、許してほしい。

ふたたび「ブタ」と「ハマグリ」へ

教育が「困難」とは、それだけ教育の「リターン」「ベネフィット」も大きいということだ。その点を外さず、広く訴えていく趣旨であるなら、「教育困難」という冠のもとに高校・大学を貫く問題提起には意義がある。

教育困難校」連載中の記事のなかには、「能力が十分でない学生のサポートに力を入れ」、「入学してきた学生の能力や学習習慣をしっかりと把握し、そこから社会で必要とされるレベルまで能力を育成・伸長し、高い評価を得ている大学」が出現していることへの言及もある。それが「大学の教育の質」であると。教育困難「大学」の連載では、そうした実践について、高校と大学の双方で教鞭をとった著者ならではの報告と分析を期待したい。もっと教育実践そのもの、「ブタ」と「ハマグリ」の意義と課題こそ、掘り下げて論じられなければならない。

「大衆化する大学」に対する私のスタンスは、「私語する学生、居眠りする学生」(これも長いです)というエントリを書いたときと基本的に変わっていない。にもかかわらず、今回このようなエントリを書く気になったのは、たぶんこの著者が、私も年間1コマ3単位の社会学の授業(ゼミ)を担当して――個人的に「駅弁へのディスタンクシオン――卓越化とも差別とも訳してよい――が残した高等師範の化石のシッポ」と呼んで――いるTKB大学院・教育研究科(社会科)の卒業生(朝比奈 なを | 著者ページ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準)だからである(世代的にはカブってないだろうと思う)。

日本語で読めるEMCA(エスノメソドロジー/会話分析)研究の入門書も少しずつ増えてきたので、教師をめざす院生さんとゼミで読み、秋からは授業外に読書会を開催する企画もある。教育学(教科教育法 etc.)の授業分析とは少し異なる、だがそことの接続も意識した教育実践(というより授業)の分析がもっと模索されてよいのではないか。そんなことを考える「EMCAと授業研究」の研究会、というか勉強会をとりあえず今年度は金曜夜に始めようと思っているので、ご関心の向きはどうぞ(←宣伝オチ。

*1:ただし引用箇所の文脈上、主にASUC職業( 荒川葉、2009、『夢追い型進路形成の功罪――高校改革の社会学』東信堂)型専門学校への進学を念頭に置いた記述であることは付記する。

*2:佐藤俊樹・石原英樹、2000、「市民社会の未来と階層階級の現在――「中」社会の終焉から」高坂健次編『日本の階層システム6 階層社会から新しい市民社会へ』東京大学出版会、201-222.

(告知)「多様な教育機会を考える会」と教育学会ラウンドテーブル

満を持して(?)ということでもないのですが、告知です。

2年前の8月終わり近くに3人で始め、その後少しずつ人数も増えていき、2016年の4月から本格的にスタートしました、「多様な教育機会を考える会」というのをほそぼそと継続しています。

今回、8月25日(金)に開催される日本教育学会第76回大会ラウンドテーブルで「公教育の再編と子どもの福祉――「多様な教育機会」の視点から」を開催します。それにあわせて、本会の簡単なウェブサイトも開設しました。

会の趣旨と、そういう趣旨の会ができあがった経緯はこちらに書いたとおりです。最下部にある名前をみて(私とか山田さんとか同姓同名の多いタイプも混ざっていますが)、知っている名前があり、かつ、趣旨文を読んで関心を持ったという方は、遠慮なくこのうちの誰かに話しかけてみてください。

見知った人間がいない、でも関心はある、という方はこちらに掲載している連絡先(つまり私になってしまうわけですが)宛てにご連絡ください。念のため補足しておきますが、研究者でないと入れないとか、そういうことはありませんので。実践にたずさわっている方や、なんらかのかたちで当事者であった/あるという方、強い関心をもっていて深く掘り下げて考えたいという方など、広くお待ちしております(レスが遅れることがあるかもしれませんが、あらかじめ悪しからずご了承ください!)。

これまでとくに告知もせず、粛々と議論を進めてきた会ですが、今回はじめて「外部」に向けた発信の場を企画しました。8月25日(金)の17:00〜19:00に桜美林大学(明々館 A812 )で開催するラウンドテーブルですが、日本教育学会第76回大会プログラムを見ますと(私も学会員になってまだ3ヶ月ですのでいちいち確認しないといろんなことがわかりません)、「ラウンドテーブルのみ参加」という枠があるようで、それだと「1,500円」で入れるみたいです。こちらにプログラムのPDFファイルへのリンクと、本ラウンドテーブル該当部分の内容転載とを示してあります。(※なお、山本・土岐報告のもととなる平成28年厚生労働省社会福祉推進事業の報告書と別冊資料編はこちら(NPO法人さいたまユースサポートネットさんのウェブサイト)からダウンロード可能です。)

これまでの活動はこちらで紹介しています。

日本において「(正規の)学校」とは、学校教育法第1条に規定された教育機関――ですのでしばしば「1条校」とも呼ばれます――のことを指しますが、ざっくり言うと、それ以外(「正規」に認定された「学校」以外)の学びの場(教育機会)をめぐる問題を考えていこうという会です。そういう集まりはもうすでにいくつもあるわけです――試みにググると「多様な教育を考える会 東海」というネットワークがすでにあることに気づき、「類似名の会を増やしてしまってすんません(でも以後お見知りおきを!)」という思いでいっぱいです――が、私たちの会の特徴は、いまのところ、社会福祉社会保障・社会政策よりのアプローチに片方の軸を置いているところかな、という気がします。「これまでの活動」にはまだ十分反映されていませんが、外国籍児童・生徒の問題をはじめ、会の射程に入るべきテーマは山積です。今後はこれまで以上にメンバーの多様化を図っていきたいとも考えています。

★過去の備忘録
とくに秘密主義でやってきたわけではありませんが、とりたててこのブログでご紹介してきたわけでもありませんでした。ですが、2015年の夏以降は、自分の備忘録にといくつかメモをしたためてはいましたので、いくつかサルベージ。
年末につき覚え書き 2015-12-30
根本問題 2016-05-08
社会の・多様な教育機会 2016-08-06
多様な教育機会と教育費メモ 2016-08-17
「さとにきたらええやん」をみにきたらええやん 2016-09-10
矛盾の解決 2017-07-19

すでに上のエントリのいくつかで「佐々木輝雄」という職業教育・職業訓練研究者の名前と、そのひとの文章が引かれています。職業訓練という対象じたいがすでに「多様な教育機会」の射程に入っているわけですが、それ以上に、佐々木が職業教育・職業訓練を論じる「発想」が、いま私たちが「多様な教育機会」を考える際の重要な道標になる気が(個人的には)しております。その佐々木輝雄に関連して数年前のいくつかのエントリから。
佐々木輝雄と「教育の機会均等」・序 2010-06-23
続・佐々木輝雄論集 2010-06-24
続・佐々木輝雄と「教育の機会均等」――備忘メモ 2010-07-03
「僕達の職業訓練」とは何か――佐々木輝雄講義録より 2010-07-20
捩じれの思想家(?)・佐々木輝雄 2010-07-24

上記「「僕達の職業訓練」とは何か」と同じ佐々木のテクストを参照しながら、しかし、その読みの「素朴さ」からは距離をとり、当該テクストを「ポストモダン教育学・教育思想」の可能性(と限界)の所在を示すものとして読み込むという力業(?)を駆使した稲葉振一郎氏の「斜めからみる「日本のポストモダン教育学」」もついでにサルベージ。稲葉さんは本会のメンバーではありませんが(少なくともいまのところ)、ちょっと他では読めないような独自の論考でありますので、あわせてここでご紹介。

私たちが今後、軽々に「オルタナティブ」と口走りそうになったときには、

しかしそれは決して近代学校教育に対するオルタナティブなどではない。それはあえて言えば、近代学校教育の下位システムであり、補完物である。(稲葉(2011)前掲

との稲葉さんの(佐々木評価を踏まえた/職業教育・職業訓練を念頭に置いた)ことばを肝に銘じておこうと思います。

(あ、「福祉と教育」というエントリもありましたが、でもこれは別研究会で指定された文献を読んだときのメモですね。)

なお、私はこの会の連絡役を務めてい(る数人のうちのひとりではあり)ますが、この会には「代表」にあたる人物はおりませんので、私も「代表」ではありません。私の見解は私個人の見解であって、この会の見解ではありませんので、これも念のため。

というわけなので、メンバーのおひとり金子良事さんのブログからも、本会立ち上げ準備に入ったあたりのエントリから独断で勝手にサルベージ。
社会政策と教育についての覚え書き 2015年12月25日 (金)
社会政策と教育についての覚書(2) 2015年12月30日 (水)
岩田正美『社会福祉のトポス』を読む 2016年02月25日 (木)
評価制度と質? 2016年04月12日 (火)
志賀信夫・畠中亨編『地方都市から子どもの貧困をなくす』旬報社 2016年06月11日 (土)
第25回大原社会政策研究会の告知、教育と福祉に関心のある方へ 2016年08月21日 (日)
教育と福祉の覚え書き 2016年09月09日 (金)
吉田久一シンポジウム 2016年11月15日 (火)
東海ジェンダー研究所編『資料集名古屋における共同保育所運動』日本評論社、2016年 2016年12月16日 (金)
『子どもの貧困を問う』シンポジウムのお知らせ 2017年07月14日 (金)

たぶん関連エントリはまだ遡ればいくらでも掘り出せると思いますので、ご関心の向きはぜひ。というか、もうめんどくさいので本人と直接お話ししにきてください。

さて、最後にもうおひとかた、澤田稔さんのブログから。澤田さんといえば、あのマイケル・アップルの薫陶を受けた批判的教育研究、カリキュラム・教育方法論がご専門の教育学者です。このエントリに辿り着いた方であればきっと、Michael W. Apple & James A. Beane, (Eds.). Democratic Schools: Lessons in Powerful Education (2nd ed.). Portsmouth, NH: Heinemann, 2007. の翻訳マイケル・W・アップル, ジェームズ・A・ビーン編、澤田稔訳、『デモクラティック・スクール――力のある学校教育とは何か(第2版)』上智大学出版・ぎょうせい、2013年)と、この第2版巻末に置かれた有用・超弩級の「解説」でご存じでしょう。

過去のエントリ一覧を見ると、『デモクラティック・スクール』関係、マイケル・アップル関係の記事などももちろんなのですが、個人的には(本会立ち上げ準備前の記事ではありますが)、

ソーシャル・マジョリティ研究会セミナー2014 2014-08-24

などは本会がらみで、一読されてよい記事かなあと思います。

ということで、なんやかやゆうておりますけれども、以後、お見知りおきを。

よろしくお願いいたします <(_ _)> 。

デモクラティック・スクール 力のある教育とは何か

デモクラティック・スクール 力のある教育とは何か

  • 作者: マイケル・W.アップル,ジェームズ・A.ビーン,James A. Beane,Michael W. Apple,澤田稔
  • 出版社/メーカー: ぎょうせい
  • 発売日: 2013/10/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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地方都市から子どもの貧困をなくす 市民・行政の今とこれから

地方都市から子どもの貧困をなくす 市民・行政の今とこれから

矛盾の「解決」

リンク先引用文末尾、「生活」と「能力」のアポリア

それは賃金制度が解決すべき「分配の正義」と「交換の正義」のダブルバインドの、現代における特殊日本的な現われだとひとまずはいえる。

賃金は労務の対価として市場における「交換の正義」に従うべきであるが、他方で労働者が生計を立てる原資として「分配の正義」にも従うべきである。「働きに応じて」、同時に「必要に応じて」。だが「働き」と「必要」とは多くの場合矛盾する。「働き」の乏しさと「必要」の大きさとは、しばしば同じ要因の帰結だからである。これが賃金制度が普遍的に直面するダブルバインドである。

賃金制度はこの矛盾を整合的に解決する必要がある。ひとつは欧米の職務(ジョブ)型社会が導出した解である。すなわち、あくまで賃金は市場における「交換の正義」に従わせ、「職務」の対価として位置づける。同一労働同一賃金の原則である。労働市場の集団的プレイヤーとしての労働組合は、「交換の正義」を充たす賃金を「分配の正義」にかなう水準にまで引き上げようと試みるが、それでも賄いきれない部分は福祉国家(による公的扶助などの給付)を通じて純粋に「分配の正義」にもとづき補う。

だが日本では、一部の経営者も労働者の自発的結社たる労働組合も、賃金は第一義的に「分配の正義」に従うべきだと位置づけ、「交換の正義」の追求を否定した。それにより電産型賃金体系に象徴される生活給制度が確立するが、その後、経営側がその「合理化」をめざすなかで「能力主義管理」が発明される。経営側による「能力」査定の結果を、右肩上がりの賃金カーブの「角度の差」として定式化する賃金制度である。

ここで生起したことは、(外部労働)市場での「交換の正義」の追求を否定し、企業内部での「分配の正義」の実現をめざして構築した生活給を、「能力」(=どんな職務についても「働き」を発揮しうるポテンシャル)の対価として(内部労働)市場における「交換の正義」に従うものだと読み替え、正当化するという事態である。賃金カーブの上がり方の差が「能力」の差なのだとしたら、「右肩上がり」そのものは「能力」の開発・増大の結果だというわけだ。

どちらも賃金制度のダブルバインドを統一しようと導出された解決策だが、注目すべきは、前者(欧米)では2つの正義の矛盾が維持されたままであるのに対し、後者(日本)ではそれが解消・消滅してしまっていることだ。

前者では賃金はまずもって「交換の正義」に従う。可能な限り「分配の正義」も追求するが、それは究極的には無理だろう(=矛盾の解消ではなく維持)。だからこそ、賃金(制度)では取りこぼしてしまう「分配の正義」を実現するために、たとえば福祉国家を通じた公的給付は絶対に必要であり、追求されなければならない。そう論じる道具立てが残る。

だが後者は、「分配の正義」を追求して構築したものを「交換の正義」で読み替えて(=正当化して)しまった。だからもう「2つの正義の間の矛盾」などない。解消・消滅である。だからといって「交換の正義」に従う賃金(の実態)がつねに「分配の正義」にもかない、すべての者の生活の必要を充たすと期待などできないことは上述した通り(「両者は多くの場合矛盾する」)。

にもかかわらず、「分配の正義」を論じる根拠はもはや存在しない。日本ではそれは「能力」を対価とする「交換の正義」によって上書きされてしまっているからだ。年齢と性別を問わない非正規化の進行する日本社会が「交換の正義で掬えない分配の正義を正面から論じる道具を見失った」というのは、このことだ。

したがって、「生活」と「能力」のアポリアとは、「生活(給)」(=分配の正義)を「能力(給)」(=交換の正義)で上書き(読み替え/正当化)してしまうことで、2つの正義を2つながら追求する道筋を見失い、立ち至った行き詰まりだといえるだろう。

それは端的には、正規労働者と非正規労働者の間の著しい待遇格差の是正、とくに後者の生活保障をいかに実現していくかの方途をめぐる合意が成立しがたい事態として浮上している。これを解決するためには、あらためて2つの正義のダブルバインドを整合的に統一しうる賃金制度を再構築しなければならない。

まずは「生活」と「能力」とを切り離し、この「能力」をより客観的で労働者による検証も可能な別の指標に切り替えたうえで、「交換の正義」を優先するのであればそれが最大限「分配の正義」とも両立しうるための条件を構築・維持するとともに、それでもなお後者の実現から零れ落ちてしまう対象を正しく掬いあげる方策をも同時に用意し強化する。これだけの課題が折り重なった困難であると言い換えることもできる。

**********

「制度を構想、設計し、再編する」というときに、私たちはつい複数の理念・正義のあいだの「矛盾」を「解消」してしまおうと発想する。あるべき望ましい未来設計に「矛盾」などあってはならないのだと。優等生の発想だ。そうではなく、「矛盾」に定位するのだというときに、今度はそれを「敵対」する理念・正義のあいだの「闘争」関係とのみとらえてしまう思考法へとあまりに容易に裏返る。反逆者然とはしているものの、これもまた裏返しの優等生にすぎない。

そのいずれでもなく、矛盾と対峙する。矛盾の「解決」は、解消であってはならない(解消などできないのだから)。矛盾を解消するのではなく、保持しつづけること、そして「発展」させること。

「公教育」のことを念頭に。何度でも引用しよう。戦後直後の単線型学校体系と労働の場での技能者養成とを単位制クレジットによってつなげようとする技能連携制度の構想(教刷委第一三回建議)に言及しつつ、「教育の機会均等」理念を論じた佐々木輝雄から(引用中の太字は原著傍点)。

第一三回建議の「学校でないけれどもクレジットを与える」、つまり技能連携制度化提案は、学校教育法の体制下において追及された「教育の機会均等」概念あるいは教育制度観とは異質なものを提起している・・・。この異質なものとは何であろうか。この疑問を解明するためには、・・・学校教育法体制下において追及された「教育の機会均等」概念あるいは教育制度観が、いかなるものであったかを吟味し、そしてそれと比較しなければならない。


(中略)


学校教育法体制下の高等学校教育への「教育の機会均等」の内実・・・・・・は、学校制度内教育の機会均等であった。


かかる「教育の機会均等」概念は、教育基本法の「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。」(第二条)、「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。」(第七条第一項)と比較する時、極めて限定的な概念であった。しかし、教育基本法は「家庭教育及び勤労の場所その他において行われる教育」、つまり社会教育の普及を、国民の教育機会の拡大の見地から規定したにもかかわらず、しかしこれ等の社会教育を「教育の機会均等」の視座から、学校教育と如何に関連づけるかについては、何等具体的に規定することはなかった。


教刷委第一三回建議の「教育の機会均等」概念、「学校でないけれどもクレジットを与える」の狙いは、まさにこの課題に答えようとするものであった。そこでは、「教育の機会均等」の保障は、学校教育法体制下にみられる、いわば学校制度内教育の機会均等の追及と、教刷委第一三回建議の技能連携制度化案にみられる、いわば学校制度外教育の機会均等の追及のパラドックスによって,はじめて実現するものと捉えられたのである。


(中略)


新学制下の「教育の機会均等」概念は、学校制度内教育の機会均等学校制度外教育の機会均等の二つの相貌を持っていた・・・


教刷委第一三回建議は、かかる「教育の機会均等」概念を提起した結果、その教育制度理論においても学校教育法体制下のそれとは、異質なものを構想する。


教刷委第一三回建議第三項の意図は・・・、「技能者養成所」等での教育に、「単位制クレジットを与える措置を講ずること」によって、これ等学校制度外教育施設で学習する勤労青少年に、「高等学校,更には大学へ進みうる」道を開くことにあった。


同建議はかかる意図を実現するために、これ等教育施設に高等学校の単位制クレジットの授与条件として、これ等教育施設を高等学校に認定すること、換言すれば機関指定を前提としないことを構想した。つまり、そこでは個々の教育行為それ自体の実質が重視され、その教育行為が学校制度下の教育であるか否かは、余り問題視されなかったのである。


かかる教育制度観は、学校教育法体制下において追及された教育制度観と著しい差異を示す。と云うのは、高等学校制度外の「教育の場」を是認し、しかもその教育に高等学校のクレジットを授与することは、教育制度上、高等学校の多様化を図り、いわゆる「袋小路」を作るかのように見えるからである。文部省が第一三回建議に反対したのも、この理由からであった。


しかし、建議の教育制度観によれば、「教育の機会均等」を保障する教育制度とは、個々の具体的な教育行為を取捨[ママ]した、制度的整合制[ママ]を持ったシステムにあるのではなく、個々の教育行為それ自体の実質を重視するシステムでなければならないと捉えられた。従って、同建議が一見多様な制度あるいは「袋小路」を構想しているかのように見えても、それは個々人の教育プロセスでの多様化であり、個々人の教育ゴールでは単一な制度として、止揚されるのである。


この二つの教育制度観の対立は、組織志向による「教育の機会均等」論と、個々の教育行為志向の「教育の機会均等」論の対立とも云うべきであろう。所与の条件の下での「教育の機会均等」の保障が、勿論この対立の中に実現するものであったことは云うまでもない。


しかし、戦後教育制度改革の実施過程はこの対立を発展させるのではなく、学校制度内教育の機会均等あるいは制度的整合性の追求を中核にして展開するのである。そしてその展開過程においては、「教育の機会均等」を保障するために、個々の教育行為を排除あるいは切り捨てるという自己矛盾を犯すのである。


その結果、戦後教育制度改革は高等学校さらには大学進学率の上昇という形で、「教育の機会均等」の保障を実現しながら、しかし他方ではこの教育の大衆化の背後で学校間格差を助長し、学校教育の空洞化を拡大させることになったと云っても過言ではない。(『佐々木輝雄職業教育論集 第二巻 学校の職業教育――中等教育を中心に』多摩出版、283-5頁)

(復唱)「所与の条件の下での「教育の機会均等」の保障が、勿論この対立の中に実現するものであったことは云うまでもない。しかし、戦後教育制度改革の実施過程はこの対立を発展させるのではなく、……制度的整合性の追求を中核にして展開するのである。そしてその展開過程においては、「教育の機会均等」を保障するために、個々の教育行為を排除あるいは切り捨てるという自己矛盾を犯すのである。」

「「教育の機会均等」の保障は、学校教育法体制下にみられる、いわば学校制度内教育の機会均等の追及と、教刷委第一三回建議の技能連携制度化案にみられる、いわば学校制度外教育の機会均等の追及のパラドックスによって,はじめて実現するものと捉えられたのである。」

以上。

(告知その1)比較教育社会史研究会2017年春季例会

年度末、いろんな業界でご多忙なことと拝察しますが、日本の場合、研究業界も例にもれず、3月の週末はさまざまな研究会、講演会、シンポジウムその他の企画が重なります。ということで日程の差し迫ったものもあって恐縮ですが、身のまわり、案内の届いたものからいくつかご紹介。

まずは比較教育社会史研究会から2017年春季例会プログラムのお知らせです。

当研究会立ち上げから主要メンバーのおひとりとしてかかわってこられ、昭和堂から刊行されている『叢書・比較教育社会史』では『国家・共同体・教師の戦略――教師の比較社会史』(松塚俊三・安原義仁編、昭和堂、2006年)や『識字と読書――リテラシーの比較社会史』(松塚俊三・八鍬友広編、昭和堂、2010年)で編者としても牽引役になってこられた松塚俊三先生の定年ご退職、ということでしょうか、これまでの研究生活を振り返る講演が予定されています。

それに先立つ第1部では「犯罪者のリテラシー」というセッションが企画されています。19世紀イギリスの犯罪者のリテラシーについて、報告者のお二方が「同一の史料」から「異なる議論」を展開される、とのこと。

ほう。

たいへん興味深い。まったく別の研究会で「史料データセッション研究会」なる――ML登録だけさせてもらっていて未出席ですごめんなさいごめんなさい――議論の場も身のまわりにありますが、発想としては同系列の試みでしょうか。これまでの比較教育社会史研究会にはなかった企画ではないかと思います。内容もさることながら、史料論としても刺激的な議論が期待されます。コメンテイタも「犯罪・警察史」と「リテラシー史」の両観点から充実のラインナップ。

ご関心の向きは、ぜひ。

比較教育社会史研究会2017年春季例会


日時:2017年3月27日(月)
会場:大阪大学 豊中キャンパス 法経研究棟7階大会議室


第1部 「犯罪者のリテラシー」セッション(12:30〜14:30)
司会:岩下誠(青山学院大学
報告者:
山本千映「産業革命期イギリスの識字率―スタッフォードシャーの事例―」
三時眞貴子「19世紀前半イギリスにおける犯罪少年のリテラシー
コメンテイタ:林田敏子(摂南大学)、八鍬友広(東北大学


第2部 講演(15:00〜18:00)
司会:三時眞貴子(広島大学
スピーカー:松塚俊三(福岡大学)「研究を振り返って」
コメンテイタ:金澤周作(京都大学)、岩下誠(青山学院大学


懇親会(18:45〜)

国家・共同体・教師の戦略―教師の比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

国家・共同体・教師の戦略―教師の比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

(告知その2)「エゴ・ドキュメント/パーソナル・ナラティヴをめぐる歴史学と社会学の対話」

さて、その比較教育社会史研究会経由でまわってきたシンポジウムのお知らせ。

3月11日(土)に上智大学四谷キャンパスにおいて、オーラル・ヒストリーにかんする歴史学社会学の学際的シンポジウムが「エゴ・ドキュメント/パーソナル・ナラティヴをめぐる歴史学と社会学の対話」と題して開催されます。

日本オーラル・ヒストリー学会主催とありますが、比較教育社会史研究会と深いかかわりのある大門正克さん(横浜国立大学)と長谷川貴彦さん(北海道大学)が、それぞれ司会と報告者としてご登壇、ということで案内が届いたようです。

一方で、もうひとりの報告者には社会学から、移民・エスニシティ研究がご専門で新進超絶気鋭の社会学者・朴沙羅さん(神戸大学)、討論者には同じく社会学から(数年前には私と同じ職場で働く間柄でもあった)好井裕明さん(日本大学)が登壇されます。朴沙羅さんには多くの優れた研究業績がありますが、ここではアレッサンドロ・ポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社、2016年)の翻訳を挙げるに留めておきます。

このシンポジウムがあること自体は、後者の社会学界隈ネット経由ですでに知っておりましたが、上記のような縁で比較教育社会史研究会経由でも私のところにお知らせメールが舞い込みました。

これは私にとってたいへん印象深い出来事です。

というのも、このブログで比較教育社会史研究会の例会の告知を続けてきてもうそろそろ10年近く――前にも書いたかもしれませんが、私がブログを始めたのはこの研究会の告知をだすというのが初発の動機です――、その営みが「社会学業界」ネットワーク経由の情報とクロスしたのは、じつにこれが「初めて」の経験だからです。これまでこの研究会と「教育」社会学とがコラボないしクロスすることはきわめてしばしばありましたが、「教育」のつかない「社会学」がその位置にくるのは私の記憶では初めてのことです。

考えてみれば、叢書所収の論文のなかには――たとえば『識字と読書』所収の酒井順子「口述文化と文字世界――シティ・オヴ・ロンドンに見られた労働文化の伝達」のように――ふつうに社会学/人類学系オーラルヒストリー/ライフヒストリーの論考はあるわけです。ここで多くは論じませんが――厳密に論じきるだけの力量が私にありません――、日本_の_社会学における口述生活史/オーラルヒストリー/ライフヒストリー/ライフストーリー、、、等々の語が指し示す圏域を支配していた磁場の極点が移行しつつあることの反映なのかしらん、という気がしないでもありません。気のせいだとも言えますが。

たとえばこれがもっぱら「対話的構築主義」の範域内に生じた問題意識であったなら、そのシンポジウムの知らせが比較教育社会史研究会を経由して私のもとに届いてくる、といったことの生じる余地はなかっただろうと思います。だからどっちがいいとか悪いとかの話をしているのではなく、ただ「クロスしなかっただろう」ということです。と同時に、これは兆候的なことではなかろうか、と感じたことも事実です。

そんなわけで私のなかで勝手にエポック・メイキングなお知らせです。2017年3月17日(土)13:30〜17:30、上智大学四谷キャンパス2号館5階508室、申込不要・入場無料とのことですので、ご関心の向きは、ぜひ。

なお、これと関連してその3日後、3月14日(火)には一般社団法人社会調査協会の公開研究会「ライフストーリーとライフヒストリー――『事実』の構築性と実在性をめぐって」も開催されるそうです。こちらはガチで社会学業界の「中」のお話しになりましょうか。登壇者は西倉実季さん(和歌山大学、報告「ライフストーリー論におけるリアリティ研究の可能性」)、朴沙羅さん(神戸大学、報告「何が対話的に構築されるのか」)、岸政彦さん(龍谷大学、報告「物語/歴史/人生――個人史から社会を考える三つの方法」)、司会に 三浦耕吉郎さん(関西学院大学)ということのようです。開催地は大阪、関西学院大学・梅田キャンパス1405教室。詳細は上のリンク先をご覧ください。

オーラルヒストリーとは何か

オーラルヒストリーとは何か

(告知その3)天野郁夫『新制大学の誕生――大衆高等教育への道』合評会

ところが、だ。

いや、ところが、ってこともないんですが、3月11日(土)にはこれまたこのブログで継続的に告知してきております「教育の歴史社会学コロキウム」において、天野郁夫『新制大学の誕生――大衆高等教育への道』合評会も開催されてしまうのです。

「されてしまう」ってこともないんですが。

天野郁夫といえば言わずと知れた日本高等教育史/論の泰斗、齢70を超えてから『大学の誕生』(上下巻(上:帝国大学の時代、下:大学への挑戦)、中公新書、2009年)、『高等教育の時代』(上下巻(上:戦間期日本の大学、下:大衆化大学の原像)、中公叢書、2013年)、そして今回の『新制大学の誕生』と、明治初期から戦後に至る日本高等教育史3部作を立て続けに刊行されております。今回の書評対象作はこの3部作完結編。

思えば3部作の口火を切った『大学の誕生』では不肖わたくしの企画・司会により合評会を開催した模様も若干ブログでご紹介したわけですが、そこをご覧いただければお分かりのように、その合評会の時点で「いやじつはぼくもう次の本書いたんだけど(1600枚)」とのたまって場を揺るがせた台詞はつまりその時点で2作目『高等教育の時代』を書き終えていたということを意味しており、この折りの懇親会の席では3部作構想がきっちり語られていたわけであります。

そして今回の合評会が開かれるこの時点においてもまた、中公新書から次著『帝国大学――近代日本のエリート育成装置』の刊行が決定しておられるわけでありまして。それもこの3月にですよ。

どないやっちゅうねん。

そういえば「帝国大学について書いている」ってゆうてたもんなあ。たしかもう一個なんか書く構想を語っておられたような。ただ強いて言うなら次のやつはさすがに上下2巻本ではないようです、よかったですありがとうございました。

ところで上記懇親会の席上での私の記憶によれば、戦後改革時に総理大臣諮問機関として設置された「教育刷新委員会」(1946年8月設置、その後1949年6月には教育刷新審議会に改称)で交わされた議論を読み込むことの重要性をしきりと強調しておられました。その言葉どおり、今回の2巻本は『教育刷新委員会・教育刷新審議会会議録』全13巻の解読をひとつの焦点として、一方にその前段として戦時期に再燃する学制改革論議との連続性を、もう一方に文部省と戦後「新制大学」に結実する各学校史に視点を置いた実際の移行・昇格の過程を視野に入れつつ、「明治10年(1877)の最初の近代大学・東京大学の創設から数えて140年に満たないわが国の大学・高等教育システムの歴史の中で、最も重要な転換点であったといってよい、その新しい大学の制度と組織が、どのような経緯を経て誕生したのか」(1頁)、この新制大学誕生の物語が紡がれていくわけです。

評者には、天野先生と同世代の「教育の歴史社会学」の泰斗・菊池城司先生、高等教育(史)研究からは教え子世代にあたる吉田文先生、そして新進気鋭の戸田理先生と、世代を異にしつつたいへん充実したメンバーが揃いました。交わされる議論の中身にいまから期待が高まります。

例によって、教育の歴史社会学に関心のある方なら、だれでも気軽に参加できます。学部生の方も歓迎です。いつもと開催場所は変わって早稲田大学ですのでお間違えのないよう。なお、これはいつも通り、参加希望の方は前日までに教育の歴史社会学コロキウム事務局の佐々木啓子先生までご連絡を。連絡先をご存じない方は私に問い合わせてください。

教育の歴史社会学コロキウムも、もう3周年だそうですね。早い。

というわけで、ご関心の向きは、ぜひ。

第12回 教育の歴史社会学コロキウム


日時:2017年3月11日(土)13:30〜17:00
場所:早稲田大学16号館7F−710(演習室)


プログラム:天野郁夫『新制大学の誕生』(上下巻、名古屋大学出版会、2016年)合評会


書評報告(各30分)
1.戸村理氏(國學院大學
2.吉田文氏(早稲田大学
3.菊池城司氏(大阪大学名誉教授)


(休憩20分)


リプライ(40分)天野郁夫氏(東京大学名誉教授)
討論(40分)

懇親会(食事会)自由参加 17:30〜



連絡先:教育の歴史社会学コロキウム事務局
    電気通信大学 共通教育部 佐々木研究室

新制大学の誕生【上巻】――大衆高等教育への道

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新制大学の誕生【下巻】―大衆高等教育への道―

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帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)

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