矛盾の「解決」

リンク先引用文末尾、「生活」と「能力」のアポリア

それは賃金制度が解決すべき「分配の正義」と「交換の正義」のダブルバインドの、現代における特殊日本的な現われだとひとまずはいえる。

賃金は労務の対価として市場における「交換の正義」に従うべきであるが、他方で労働者が生計を立てる原資として「分配の正義」にも従うべきである。「働きに応じて」、同時に「必要に応じて」。だが「働き」と「必要」とは多くの場合矛盾する。「働き」の乏しさと「必要」の大きさとは、しばしば同じ要因の帰結だからである。これが賃金制度が普遍的に直面するダブルバインドである。

賃金制度はこの矛盾を整合的に解決する必要がある。ひとつは欧米の職務(ジョブ)型社会が導出した解である。すなわち、あくまで賃金は市場における「交換の正義」に従わせ、「職務」の対価として位置づける。同一労働同一賃金の原則である。労働市場の集団的プレイヤーとしての労働組合は、「交換の正義」を充たす賃金を「分配の正義」にかなう水準にまで引き上げようと試みるが、それでも賄いきれない部分は福祉国家(による公的扶助などの給付)を通じて純粋に「分配の正義」にもとづき補う。

だが日本では、一部の経営者も労働者の自発的結社たる労働組合も、賃金は第一義的に「分配の正義」に従うべきだと位置づけ、「交換の正義」の追求を否定した。それにより電産型賃金体系に象徴される生活給制度が確立するが、その後、経営側がその「合理化」をめざすなかで「能力主義管理」が発明される。経営側による「能力」査定の結果を、右肩上がりの賃金カーブの「角度の差」として定式化する賃金制度である。

ここで生起したことは、(外部労働)市場での「交換の正義」の追求を否定し、企業内部での「分配の正義」の実現をめざして構築した生活給を、「能力」(=どんな職務についても「働き」を発揮しうるポテンシャル)の対価として(内部労働)市場における「交換の正義」に従うものだと読み替え、正当化するという事態である。賃金カーブの上がり方の差が「能力」の差なのだとしたら、「右肩上がり」そのものは「能力」の開発・増大の結果だというわけだ。

どちらも賃金制度のダブルバインドを統一しようと導出された解決策だが、注目すべきは、前者(欧米)では2つの正義の矛盾が維持されたままであるのに対し、後者(日本)ではそれが解消・消滅してしまっていることだ。

前者では賃金はまずもって「交換の正義」に従う。可能な限り「分配の正義」も追求するが、それは究極的には無理だろう(=矛盾の解消ではなく維持)。だからこそ、賃金(制度)では取りこぼしてしまう「分配の正義」を実現するために、たとえば福祉国家を通じた公的給付は絶対に必要であり、追求されなければならない。そう論じる道具立てが残る。

だが後者は、「分配の正義」を追求して構築したものを「交換の正義」で読み替えて(=正当化して)しまった。だからもう「2つの正義の間の矛盾」などない。解消・消滅である。だからといって「交換の正義」に従う賃金(の実態)がつねに「分配の正義」にもかない、すべての者の生活の必要を充たすと期待などできないことは上述した通り(「両者は多くの場合矛盾する」)。

にもかかわらず、「分配の正義」を論じる根拠はもはや存在しない。日本ではそれは「能力」を対価とする「交換の正義」によって上書きされてしまっているからだ。年齢と性別を問わない非正規化の進行する日本社会が「交換の正義で掬えない分配の正義を正面から論じる道具を見失った」というのは、このことだ。

したがって、「生活」と「能力」のアポリアとは、「生活(給)」(=分配の正義)を「能力(給)」(=交換の正義)で上書き(読み替え/正当化)してしまうことで、2つの正義を2つながら追求する道筋を見失い、立ち至った行き詰まりだといえるだろう。

それは端的には、正規労働者と非正規労働者の間の著しい待遇格差の是正、とくに後者の生活保障をいかに実現していくかの方途をめぐる合意が成立しがたい事態として浮上している。これを解決するためには、あらためて2つの正義のダブルバインドを整合的に統一しうる賃金制度を再構築しなければならない。

まずは「生活」と「能力」とを切り離し、この「能力」をより客観的で労働者による検証も可能な別の指標に切り替えたうえで、「交換の正義」を優先するのであればそれが最大限「分配の正義」とも両立しうるための条件を構築・維持するとともに、それでもなお後者の実現から零れ落ちてしまう対象を正しく掬いあげる方策をも同時に用意し強化する。これだけの課題が折り重なった困難であると言い換えることもできる。

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「制度を構想、設計し、再編する」というときに、私たちはつい複数の理念・正義のあいだの「矛盾」を「解消」してしまおうと発想する。あるべき望ましい未来設計に「矛盾」などあってはならないのだと。優等生の発想だ。そうではなく、「矛盾」に定位するのだというときに、今度はそれを「敵対」する理念・正義のあいだの「闘争」関係とのみとらえてしまう思考法へとあまりに容易に裏返る。反逆者然とはしているものの、これもまた裏返しの優等生にすぎない。

そのいずれでもなく、矛盾と対峙する。矛盾の「解決」は、解消であってはならない(解消などできないのだから)。矛盾を解消するのではなく、保持しつづけること、そして「発展」させること。

「公教育」のことを念頭に。何度でも引用しよう。戦後直後の単線型学校体系と労働の場での技能者養成とを単位制クレジットによってつなげようとする技能連携制度の構想(教刷委第一三回建議)に言及しつつ、「教育の機会均等」理念を論じた佐々木輝雄から(引用中の太字は原著傍点)。

第一三回建議の「学校でないけれどもクレジットを与える」、つまり技能連携制度化提案は、学校教育法の体制下において追及された「教育の機会均等」概念あるいは教育制度観とは異質なものを提起している・・・。この異質なものとは何であろうか。この疑問を解明するためには、・・・学校教育法体制下において追及された「教育の機会均等」概念あるいは教育制度観が、いかなるものであったかを吟味し、そしてそれと比較しなければならない。


(中略)


学校教育法体制下の高等学校教育への「教育の機会均等」の内実・・・・・・は、学校制度内教育の機会均等であった。


かかる「教育の機会均等」概念は、教育基本法の「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。」(第二条)、「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。」(第七条第一項)と比較する時、極めて限定的な概念であった。しかし、教育基本法は「家庭教育及び勤労の場所その他において行われる教育」、つまり社会教育の普及を、国民の教育機会の拡大の見地から規定したにもかかわらず、しかしこれ等の社会教育を「教育の機会均等」の視座から、学校教育と如何に関連づけるかについては、何等具体的に規定することはなかった。


教刷委第一三回建議の「教育の機会均等」概念、「学校でないけれどもクレジットを与える」の狙いは、まさにこの課題に答えようとするものであった。そこでは、「教育の機会均等」の保障は、学校教育法体制下にみられる、いわば学校制度内教育の機会均等の追及と、教刷委第一三回建議の技能連携制度化案にみられる、いわば学校制度外教育の機会均等の追及のパラドックスによって,はじめて実現するものと捉えられたのである。


(中略)


新学制下の「教育の機会均等」概念は、学校制度内教育の機会均等学校制度外教育の機会均等の二つの相貌を持っていた・・・


教刷委第一三回建議は、かかる「教育の機会均等」概念を提起した結果、その教育制度理論においても学校教育法体制下のそれとは、異質なものを構想する。


教刷委第一三回建議第三項の意図は・・・、「技能者養成所」等での教育に、「単位制クレジットを与える措置を講ずること」によって、これ等学校制度外教育施設で学習する勤労青少年に、「高等学校,更には大学へ進みうる」道を開くことにあった。


同建議はかかる意図を実現するために、これ等教育施設に高等学校の単位制クレジットの授与条件として、これ等教育施設を高等学校に認定すること、換言すれば機関指定を前提としないことを構想した。つまり、そこでは個々の教育行為それ自体の実質が重視され、その教育行為が学校制度下の教育であるか否かは、余り問題視されなかったのである。


かかる教育制度観は、学校教育法体制下において追及された教育制度観と著しい差異を示す。と云うのは、高等学校制度外の「教育の場」を是認し、しかもその教育に高等学校のクレジットを授与することは、教育制度上、高等学校の多様化を図り、いわゆる「袋小路」を作るかのように見えるからである。文部省が第一三回建議に反対したのも、この理由からであった。


しかし、建議の教育制度観によれば、「教育の機会均等」を保障する教育制度とは、個々の具体的な教育行為を取捨[ママ]した、制度的整合制[ママ]を持ったシステムにあるのではなく、個々の教育行為それ自体の実質を重視するシステムでなければならないと捉えられた。従って、同建議が一見多様な制度あるいは「袋小路」を構想しているかのように見えても、それは個々人の教育プロセスでの多様化であり、個々人の教育ゴールでは単一な制度として、止揚されるのである。


この二つの教育制度観の対立は、組織志向による「教育の機会均等」論と、個々の教育行為志向の「教育の機会均等」論の対立とも云うべきであろう。所与の条件の下での「教育の機会均等」の保障が、勿論この対立の中に実現するものであったことは云うまでもない。


しかし、戦後教育制度改革の実施過程はこの対立を発展させるのではなく、学校制度内教育の機会均等あるいは制度的整合性の追求を中核にして展開するのである。そしてその展開過程においては、「教育の機会均等」を保障するために、個々の教育行為を排除あるいは切り捨てるという自己矛盾を犯すのである。


その結果、戦後教育制度改革は高等学校さらには大学進学率の上昇という形で、「教育の機会均等」の保障を実現しながら、しかし他方ではこの教育の大衆化の背後で学校間格差を助長し、学校教育の空洞化を拡大させることになったと云っても過言ではない。(『佐々木輝雄職業教育論集 第二巻 学校の職業教育――中等教育を中心に』多摩出版、283-5頁)

(復唱)「所与の条件の下での「教育の機会均等」の保障が、勿論この対立の中に実現するものであったことは云うまでもない。しかし、戦後教育制度改革の実施過程はこの対立を発展させるのではなく、……制度的整合性の追求を中核にして展開するのである。そしてその展開過程においては、「教育の機会均等」を保障するために、個々の教育行為を排除あるいは切り捨てるという自己矛盾を犯すのである。」

「「教育の機会均等」の保障は、学校教育法体制下にみられる、いわば学校制度内教育の機会均等の追及と、教刷委第一三回建議の技能連携制度化案にみられる、いわば学校制度外教育の機会均等の追及のパラドックスによって,はじめて実現するものと捉えられたのである。」

以上。

(告知その1)比較教育社会史研究会2017年春季例会

年度末、いろんな業界でご多忙なことと拝察しますが、日本の場合、研究業界も例にもれず、3月の週末はさまざまな研究会、講演会、シンポジウムその他の企画が重なります。ということで日程の差し迫ったものもあって恐縮ですが、身のまわり、案内の届いたものからいくつかご紹介。

まずは比較教育社会史研究会から2017年春季例会プログラムのお知らせです。

当研究会立ち上げから主要メンバーのおひとりとしてかかわってこられ、昭和堂から刊行されている『叢書・比較教育社会史』では『国家・共同体・教師の戦略――教師の比較社会史』(松塚俊三・安原義仁編、昭和堂、2006年)や『識字と読書――リテラシーの比較社会史』(松塚俊三・八鍬友広編、昭和堂、2010年)で編者としても牽引役になってこられた松塚俊三先生の定年ご退職、ということでしょうか、これまでの研究生活を振り返る講演が予定されています。

それに先立つ第1部では「犯罪者のリテラシー」というセッションが企画されています。19世紀イギリスの犯罪者のリテラシーについて、報告者のお二方が「同一の史料」から「異なる議論」を展開される、とのこと。

ほう。

たいへん興味深い。まったく別の研究会で「史料データセッション研究会」なる――ML登録だけさせてもらっていて未出席ですごめんなさいごめんなさい――議論の場も身のまわりにありますが、発想としては同系列の試みでしょうか。これまでの比較教育社会史研究会にはなかった企画ではないかと思います。内容もさることながら、史料論としても刺激的な議論が期待されます。コメンテイタも「犯罪・警察史」と「リテラシー史」の両観点から充実のラインナップ。

ご関心の向きは、ぜひ。

比較教育社会史研究会2017年春季例会


日時:2017年3月27日(月)
会場:大阪大学 豊中キャンパス 法経研究棟7階大会議室


第1部 「犯罪者のリテラシー」セッション(12:30〜14:30)
司会:岩下誠(青山学院大学
報告者:
山本千映「産業革命期イギリスの識字率―スタッフォードシャーの事例―」
三時眞貴子「19世紀前半イギリスにおける犯罪少年のリテラシー
コメンテイタ:林田敏子(摂南大学)、八鍬友広(東北大学


第2部 講演(15:00〜18:00)
司会:三時眞貴子(広島大学
スピーカー:松塚俊三(福岡大学)「研究を振り返って」
コメンテイタ:金澤周作(京都大学)、岩下誠(青山学院大学


懇親会(18:45〜)

国家・共同体・教師の戦略―教師の比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

国家・共同体・教師の戦略―教師の比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

識字と読書―リテラシーの比較社会史 (叢書・比較教育社会史)

(告知その2)「エゴ・ドキュメント/パーソナル・ナラティヴをめぐる歴史学と社会学の対話」

さて、その比較教育社会史研究会経由でまわってきたシンポジウムのお知らせ。

3月11日(土)に上智大学四谷キャンパスにおいて、オーラル・ヒストリーにかんする歴史学社会学の学際的シンポジウムが「エゴ・ドキュメント/パーソナル・ナラティヴをめぐる歴史学と社会学の対話」と題して開催されます。

日本オーラル・ヒストリー学会主催とありますが、比較教育社会史研究会と深いかかわりのある大門正克さん(横浜国立大学)と長谷川貴彦さん(北海道大学)が、それぞれ司会と報告者としてご登壇、ということで案内が届いたようです。

一方で、もうひとりの報告者には社会学から、移民・エスニシティ研究がご専門で新進超絶気鋭の社会学者・朴沙羅さん(神戸大学)、討論者には同じく社会学から(数年前には私と同じ職場で働く間柄でもあった)好井裕明さん(日本大学)が登壇されます。朴沙羅さんには多くの優れた研究業績がありますが、ここではアレッサンドロ・ポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社、2016年)の翻訳を挙げるに留めておきます。

このシンポジウムがあること自体は、後者の社会学界隈ネット経由ですでに知っておりましたが、上記のような縁で比較教育社会史研究会経由でも私のところにお知らせメールが舞い込みました。

これは私にとってたいへん印象深い出来事です。

というのも、このブログで比較教育社会史研究会の例会の告知を続けてきてもうそろそろ10年近く――前にも書いたかもしれませんが、私がブログを始めたのはこの研究会の告知をだすというのが初発の動機です――、その営みが「社会学業界」ネットワーク経由の情報とクロスしたのは、じつにこれが「初めて」の経験だからです。これまでこの研究会と「教育」社会学とがコラボないしクロスすることはきわめてしばしばありましたが、「教育」のつかない「社会学」がその位置にくるのは私の記憶では初めてのことです。

考えてみれば、叢書所収の論文のなかには――たとえば『識字と読書』所収の酒井順子「口述文化と文字世界――シティ・オヴ・ロンドンに見られた労働文化の伝達」のように――ふつうに社会学/人類学系オーラルヒストリー/ライフヒストリーの論考はあるわけです。ここで多くは論じませんが――厳密に論じきるだけの力量が私にありません――、日本_の_社会学における口述生活史/オーラルヒストリー/ライフヒストリー/ライフストーリー、、、等々の語が指し示す圏域を支配していた磁場の極点が移行しつつあることの反映なのかしらん、という気がしないでもありません。気のせいだとも言えますが。

たとえばこれがもっぱら「対話的構築主義」の範域内に生じた問題意識であったなら、そのシンポジウムの知らせが比較教育社会史研究会を経由して私のもとに届いてくる、といったことの生じる余地はなかっただろうと思います。だからどっちがいいとか悪いとかの話をしているのではなく、ただ「クロスしなかっただろう」ということです。と同時に、これは兆候的なことではなかろうか、と感じたことも事実です。

そんなわけで私のなかで勝手にエポック・メイキングなお知らせです。2017年3月17日(土)13:30〜17:30、上智大学四谷キャンパス2号館5階508室、申込不要・入場無料とのことですので、ご関心の向きは、ぜひ。

なお、これと関連してその3日後、3月14日(火)には一般社団法人社会調査協会の公開研究会「ライフストーリーとライフヒストリー――『事実』の構築性と実在性をめぐって」も開催されるそうです。こちらはガチで社会学業界の「中」のお話しになりましょうか。登壇者は西倉実季さん(和歌山大学、報告「ライフストーリー論におけるリアリティ研究の可能性」)、朴沙羅さん(神戸大学、報告「何が対話的に構築されるのか」)、岸政彦さん(龍谷大学、報告「物語/歴史/人生――個人史から社会を考える三つの方法」)、司会に 三浦耕吉郎さん(関西学院大学)ということのようです。開催地は大阪、関西学院大学・梅田キャンパス1405教室。詳細は上のリンク先をご覧ください。

オーラルヒストリーとは何か

オーラルヒストリーとは何か

(告知その3)天野郁夫『新制大学の誕生――大衆高等教育への道』合評会

ところが、だ。

いや、ところが、ってこともないんですが、3月11日(土)にはこれまたこのブログで継続的に告知してきております「教育の歴史社会学コロキウム」において、天野郁夫『新制大学の誕生――大衆高等教育への道』合評会も開催されてしまうのです。

「されてしまう」ってこともないんですが。

天野郁夫といえば言わずと知れた日本高等教育史/論の泰斗、齢70を超えてから『大学の誕生』(上下巻(上:帝国大学の時代、下:大学への挑戦)、中公新書、2009年)、『高等教育の時代』(上下巻(上:戦間期日本の大学、下:大衆化大学の原像)、中公叢書、2013年)、そして今回の『新制大学の誕生』と、明治初期から戦後に至る日本高等教育史3部作を立て続けに刊行されております。今回の書評対象作はこの3部作完結編。

思えば3部作の口火を切った『大学の誕生』では不肖わたくしの企画・司会により合評会を開催した模様も若干ブログでご紹介したわけですが、そこをご覧いただければお分かりのように、その合評会の時点で「いやじつはぼくもう次の本書いたんだけど(1600枚)」とのたまって場を揺るがせた台詞はつまりその時点で2作目『高等教育の時代』を書き終えていたということを意味しており、この折りの懇親会の席では3部作構想がきっちり語られていたわけであります。

そして今回の合評会が開かれるこの時点においてもまた、中公新書から次著『帝国大学――近代日本のエリート育成装置』の刊行が決定しておられるわけでありまして。それもこの3月にですよ。

どないやっちゅうねん。

そういえば「帝国大学について書いている」ってゆうてたもんなあ。たしかもう一個なんか書く構想を語っておられたような。ただ強いて言うなら次のやつはさすがに上下2巻本ではないようです、よかったですありがとうございました。

ところで上記懇親会の席上での私の記憶によれば、戦後改革時に総理大臣諮問機関として設置された「教育刷新委員会」(1946年8月設置、その後1949年6月には教育刷新審議会に改称)で交わされた議論を読み込むことの重要性をしきりと強調しておられました。その言葉どおり、今回の2巻本は『教育刷新委員会・教育刷新審議会会議録』全13巻の解読をひとつの焦点として、一方にその前段として戦時期に再燃する学制改革論議との連続性を、もう一方に文部省と戦後「新制大学」に結実する各学校史に視点を置いた実際の移行・昇格の過程を視野に入れつつ、「明治10年(1877)の最初の近代大学・東京大学の創設から数えて140年に満たないわが国の大学・高等教育システムの歴史の中で、最も重要な転換点であったといってよい、その新しい大学の制度と組織が、どのような経緯を経て誕生したのか」(1頁)、この新制大学誕生の物語が紡がれていくわけです。

評者には、天野先生と同世代の「教育の歴史社会学」の泰斗・菊池城司先生、高等教育(史)研究からは教え子世代にあたる吉田文先生、そして新進気鋭の戸田理先生と、世代を異にしつつたいへん充実したメンバーが揃いました。交わされる議論の中身にいまから期待が高まります。

例によって、教育の歴史社会学に関心のある方なら、だれでも気軽に参加できます。学部生の方も歓迎です。いつもと開催場所は変わって早稲田大学ですのでお間違えのないよう。なお、これはいつも通り、参加希望の方は前日までに教育の歴史社会学コロキウム事務局の佐々木啓子先生までご連絡を。連絡先をご存じない方は私に問い合わせてください。

教育の歴史社会学コロキウムも、もう3周年だそうですね。早い。

というわけで、ご関心の向きは、ぜひ。

第12回 教育の歴史社会学コロキウム


日時:2017年3月11日(土)13:30〜17:00
場所:早稲田大学16号館7F−710(演習室)


プログラム:天野郁夫『新制大学の誕生』(上下巻、名古屋大学出版会、2016年)合評会


書評報告(各30分)
1.戸村理氏(國學院大學
2.吉田文氏(早稲田大学
3.菊池城司氏(大阪大学名誉教授)


(休憩20分)


リプライ(40分)天野郁夫氏(東京大学名誉教授)
討論(40分)

懇親会(食事会)自由参加 17:30〜



連絡先:教育の歴史社会学コロキウム事務局
    電気通信大学 共通教育部 佐々木研究室

新制大学の誕生【上巻】――大衆高等教育への道

新制大学の誕生【上巻】――大衆高等教育への道

新制大学の誕生【下巻】―大衆高等教育への道―

新制大学の誕生【下巻】―大衆高等教育への道―

帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)

帝国大学―近代日本のエリート育成装置 (中公新書)

(告知その4)二次分析研究会・成果報告会「高度経済成長期における福祉の計量社会史」

さて、今年度も東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブ研究センターの二次分析研究会・課題公募型研究「戦後日本社会における福祉社会の形成過程にかんする計量社会史」の成果報告会が3月28日(火)に予定されています。タイトルは、「高度経済成長期における福祉の計量社会史」となっています。

昨年度からの継続です。1960年代前半に東京大学社会科学研究所(氏原正治郎グループ)が神奈川県民生部の委託により実施していた複数の社会調査を対象に、原票のデジタル復元&データセットの作成&その分析、を実施するプロジェクト。詳細は上記リンク先をご参照ください。今回は「福祉資金行政実態調査」です。プログラムの詳細はこちら(PDF、下記に転記しました)

プログラムの行間からすでに渡邉さんの獅子奮迅ぶりが伝わってくるものと確信しますが、実際の入力・データセット構築作業において発揮されたそれは、その比ではありません。たいへんな労力と才覚とがあって初めてこの短期間でなせるわざだと思います。これは強調して強調しすぎることは決してありません。

橋本健二さん(早稲田大学)の研究グループから継承されている、社研・氏原グループによる戦後労働・社会保障調査の個票を対象としたデジタル化・復元作業は、そのどれもがそれぞれに超弩級の難しさを抱えるものでした。そのなかでも今回の「福祉資金行政実態調査」は、調査個票のなかに、世帯と個人のダイナミックな相互関係が_のちの分析段階における操作的な分節化の方途を必ずしも明確に想定・設計しないまま_埋め込まれている、という性格が強く、たいへん興味深いデータであると同時に、変数化・コード化等の処理の点で、これまでの諸調査と比較しても出色の困難があっただろうと拝察します。これはたいへんな作業です。

この調査は「低所得階層を対象として実施されている母子福祉資金及び世帯更生資金の貸付制度を採り上げ、・・・その行政効果についての実証的研究を行な」ったものです(『昭和37年度福祉資金行政実態調査報告』(神奈川県民生部、1963年)、1頁)。母子福祉資金制度は「事業(開始/継続)」「住宅」「修学」の各資金、世帯更生資金制度は「生業」「住宅」「療養」の各資金、この――「扶助」でも「給付」でもなく――貸付による「効果」、という以前にその利用の「実態」を把握しようとしたものです。ですので、貸付(借受)時点と調査時現在との2時点における世帯状況の変化――このなかに個人の「移動」の反映も埋め込まれているわけですが――と、その「要因」ならびに「帰結」と解釈できそうな情報とが詰め込まれているわけです。一枚(!)の調査票のなかに。

何を言ってるかわからないと思いますが「わかりたい」と望まれる方は、当日第1部における渡邉さんの報告を聞きにいらしてください。

某所のメモより。

ある個人が「生業の世界」と「職業の世界」のどちらに属するのかについての判断自体が文脈依存的に揺らぐ現実、ある個人の労働状況と市場状況とが生家である世帯の経営状況やライフサイクル状況に依存する関係性を生きているなかから〈自律的な個人〉が析出されたり、逆に包摂されたりするダイナミズムの具体的現象が「移動」なのではないだろうか。・・・家族/世帯がその「市場原理」と「組織原理」とを調整しながら戦略的に再生産を図っていくなかで個人が外部に析出されたり内部に包摂されたりする。・・・

もうひとつ、これが3つ目になる氏原グループ・社会保障調査データ(「福祉資金行政実態調査」(1962年実施)、「老齢者生活実態調査」(1963年実施)、「団地居住者生活実態調査」(1965年実施))を繋げて解く鍵のひとつは、おそらく「住宅」なのだろうと思います。とくにこの「福祉資金行政実態調査」では焦点になるのではないかと。これは下記プログラム中の佐藤さんや、今回のプログラムにお名前はありませんが、同じくメンバーの祐成保志さんらによって、当日議論になるところかもしれません。

私はあとに続く具体的なデータ紹介・記述分析の報告の露払いの役を果たすだけですが、まったく別の研究会系列でも戦後日本社会における「自営業社会から雇用社会へ」、「教育と労働と福祉」、「生活構造」、「移動」といった問題群をまとまりを欠きつつ考えてはきているので、そのあたりを少し自分のなかで整理しておきたいと思います。

全体としてややマニアックな話になりますし、「成果(に至る途中経過の)報告会」という性格になると思いますが、自分への備忘まで書き記しました。ご参考まで。

[二次分析研究会2016 課題公募型研究 成果報告会]
高度経済成長期における福祉の計量社会史


日時:2017年3月28日(火)14:00〜16:30
場所:東京大学本郷キャンパス)赤門総合研究棟5階549センター会議室


【第1部】データ復元の概要(14:00〜15:00)
司会:佐藤香東京大学)、コメンテイター:香川めい(東京大学


・「社会調査データの復元による計量社会史の試み」:森直人(筑波大学


・「社会福祉資金実態調査の概要と復元作業」:渡邉大輔(成蹊大学


・「これまでに復元した三調査の比較」:渡邉大輔(成蹊大学


【第2部】福祉資金調査の記述分析(15:15〜16:30)
司会:佐藤香東京大学)、コメンテイター:香川めい(東京大学


・「世帯」:石島健太郎(日本学術振興会


・「修学支援」:白川優治(千葉大学


・「住宅」:佐藤和宏東京大学大学院)


・「困窮」:渡邉大輔(成蹊大学


【総括討論】

(告知・番外)宮下奈都 & 岸政彦トークイベント @ オヨヨせせらぎ

最後は研究の話とはうって変わり、来月のことなのですが、金沢で友人がやっている古本屋のオヨヨ書林せせらぎ通り店という場所で開催されるトークイベントの宣伝です。社会学者で先ごろ小説『ビニール傘』が第156回芥川賞候補となったことでも話題の岸政彦さんと、『羊と鋼の森』にて2016年本屋大賞を受賞された福井市出身・在住の作家、宮下奈都さんのトークイベントです。

宮下奈都 & 岸政彦トークイベント、4月15日(土)18時より、会場はオヨヨ書林せせらぎ通り店、料金は1,500円で要予約(定員50名)です。連絡先は上記リンク先をご参照ください。

ふとしたきっかけで実現できた企画です。わたし自身そこにちょこっとかかわれたことをうれしく思います。金沢近辺在住の方も、そうでない方も、いまは北陸新幹線というイカしたやつが走ってますので、この機会にぜひ。わたくしも諸事調整のうえ、足を運ぼうと思います。金沢在住でない私の知り合いで、この機会にちょっくら金沢まで行ってみっか、という方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。むこうで飯食って酒飲みましょう。ご案内します。

あと来てくれたらうれしいな、と思うのは、金沢(近辺)在住で文学・音楽好き(まあここに「社会学」好きが混ざり込んでも可)の高校生、ぐらいのお客さんかなあ......
あ、トークイベントのお題は「音楽」だそうです。

なんというかな、いまどうなのか知らないんですが、私が高校生だった頃には学生服でぶらっと入れる(ちょびっと緊張するんだけど)、なんつうかなあ、カルチャー? アート? 系みたいな? そういうお店って市内中心部にいくつかありましたよね。地方都市のくせに(「くせに」ってのもひどい言いぐさですが)、美大金沢美術工芸大学)のある街ですし。いまどうなんだろう。というかせせらぎ通り周辺はまだしも竪町あたりの様子をみるとちょっとねえ、、、

大学生も働いている人ももちろん大歓迎なんだけど、個人的にはここ「高校生」というのがポイントでね。まあぶっちゃけ学校さぼることもあるやん? こういうこと書くと怒られるだろうけど。いや、さぼっちゃダメですよ。さぼっちゃダメなのでまあ学校帰りとかね、学校早めに切り上げたときとかね(←)、そういうときにふらっと古本漁りに立ち寄るとかね。たぶん「ひとり」が好きなんでね。んでまあ1,500円って高校生にとってだいぶハードル高いとは思うんだけど、でもこういう機会に「ほんもの」の人が実際にしゃべる声とか身振りとか雰囲気、アウラとかね、「謦咳に接する」っつうの? おおげさに言えば。そういう場所にオヨヨせせらぎがなれたらいいなあと思うよね。

だれ目線やねんオレ。

昔あの街に「レコード・ジャングル」っていう中古・輸入盤のレコード屋さんがあったと思うんだけど(って書いていまググったら今もちゃんとあります! ありますよみなさん!)、そこでなんんん……んも音楽のことなんか知らんままの高校生が学校早めに切り上げてひとりでレコードぼーっと見てたら、もう恥ずかしいので誰の何とか一切書かないけど、たまたまちょっと気になって安かったし買おうと思ってレジに持ってった2枚のレコードがシカゴ・ブルースのやつだったみたいでして、こっちはぜんぜんそういうの知らんのやけどたまたま。ほんっとたまったまやったんですけど、そしたらなんかそれっぽいオシャレしたレジのお姉さんが「あっ、きみ、こういうの好きなん? いいでしょう? ちょうど今日入ったの、これ。そしたらねえ、この本とか読むといいよ(レジ前にはたしかにシカゴ・ブルースの本が置いてあった)、歴史がすごいわかる。あと今セールやってるし2枚買ってくれたら3枚目もっとディカウントできる。もうちょっと選んでみる?」ってすごい勢いで勧めてくるし、そのへんのジャンルの歴史もすごい親切にかいつまんでレクチャーしてくれるし、そっか安くなんのかーいま小遣いちょっと潤沢やしなあと思ってもう一回レコード漁りに行ったら、サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』が目に入ったわけ。「あ、これ知っとる。シカゴブルースとかそんなん言われてもなあん知らんけどこれは見たことある。有名なやつや。あ、安くなるし買えるわ。これ買おう」つってそれ持ってレジ行ったら、さっきあんな前のめりになって親切にあれこれ話しかけてくれてたお姉さん、チラともこっち見ないで冷やかに一言「はい、ぜんぶで○○円になります」ゆうてすっごい「あ、これじゃなかったんや、ちがうんや」感はんぱなかった。レコード3枚抱きしめて逃げるように店出たわ。

ビギナーズ・ラックゆうやつですわ。(違

つうかどさくさにまぎれてサイモン&ガーファンクル disんなやこら。いいアルバムですよ。

いやそんなことはどうでもよくて、オヨせせ(←だんだん省略が激しく)ではこうしたトークイベントのほかにも、音楽のライブとか映画の上映とか、いろいろ各種アート/カルチャー系?イベントを開催しておりますので、とくに金沢近郊在住のみなさまはぜひ定期的にチェックしてみてください。

なお、金沢に「オヨヨ書林」なる古本屋さんは「せせらぎ通り店」以外に「シンタテマチ店」があります。というか、「シンタテマチ店」が本家です。そこんとこよろしく。

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みなさま、どうかよろしくお願いします。

何のために実践を見るのか

某日、シクレルの読書会に参加した。たいへん有意義だった。再読となった文献もさることながら、シクレルのもとで勉強された某先生が何気なく漏らされる(昔の)お話をとても興味深く拝聴した。これまで欠席が続いたことを悔いた。世話役の方のご都合により、この読書会ももうすぐ終わるようである。残念だ。

当日読んだのは Language Use and School Performance から K. Leiter によるCh.2 “Ad hocing in the school: A study of placement practices in the kindergartens of two schools” である。これは竹内洋の『日本のメリトクラシー:構造と心性』(東京大学出版会、1995年)第1章の先行研究レビュー(34-38頁あたり)に引かれているので知られているだろう。1974年の論文。

竹内のライター批判は、ほぼ Karabel & Halsey(1977) を踏襲しており、(マクロな(?))「社会構造と関連づけられていない」のがダメだという。教育社会学では比較的見なれた光景だが、わざわざ(それほど目立ってもてはやされたわけでもないだろう論考を)取り上げて論評しているのだから高く評価しているともとれる。

実際、あらためてライターの論文を読み返してみると、冒頭でこそ「エスノメソドロジーの視角を採用する」と宣言されているが(「が」ってこともないが)、伝統的(?)な教育社会学とも「通じ合う」余地の多い研究、というか今ならふつうによくできた学校エスノグラフィとして読まれそうな感じの書きぶりである。

教師が子どもとのやりとりを通じて、彼ら/彼女らをいくつかの社会的類型に振り分けていくことが、子どもの出自(インプット)と達成(アウトプット)、つまり選抜と配分の帰結を媒介している――というぐらいに読まれたのだろうと思うがそんなのは読む方の勝手な期待の投影であって、実際にはそんなことをやるとはライターは言っていないし、実際に行われているのも教師が「どのように」子どもをクラスに振り分けているかの実践の記述であってそれのみである(記述の精度はいまエスノメソドロジーとして読まれるものの精密さには遠く及ばない)。

教師がなにか学校や教室のなかでやっていること――実践――が、選抜と配分(インプット‐アウトプット)の結果(階級や民族などの出自による不平等)をもたらす重要な要因――スループット――として効いているよ、そこのところがこれまで「ブラックボックス」になっていたからちゃんと実践をみよう、というオーソドックスな教育社会学の研究方針は「実践をみる(記述する)」という自ら設定したはずの課題をあらかじめ裏切ることになる。

これまでのオーソドックスな教育社会学は、つまるところ社会化と選抜・配分という「(学校)教育の(社会的)機能」を問うてきた。それはまず、永々とつながる実践のつらなりをどこかで「切断」し――その切断は「メンバー」によるそれに準拠することもあれば「観察者」が「恣意的」に持ち込むこともあるだろう――、切り分けられたAと別に切り分けられてあるBとを「メンバーの方法」とは違ったやりかたで接続させる/関連づける記述の実践だと言ってよい。AとBとは前もって「切断」されているので、そのかぎりで「別もの」である。別のものの接続/関連づけが行われるには、A/B双方を包括する同一の地平が仮構される必要がある、というか滑り入り込んでくる。

教育社会学で求められる/高く評価される記述とは、意外で(=「メンバーの方法」とは異なり)_かつ/だけれども_理解可能な記述、ということになる。そういうルールのゲームである。話には「オチ」が必要だというわけだ。それは必然的に――と言ってしまってよいと思うが――、AとかBそのもの(AとかBがいかに可能になっているのか)の記述には焦点化しない。あらかじめ、その課題からの離脱が約束されている。なにせAとBを「接続させる/関連づける」ことが主眼のゲームなのだ。そういうゲームの世界では、AとかBそのもの――AとかBの実践がいかに可能になっているのか――の記述への志向は、「オチがない!ヽ(`Д´)ノプンプン」と怒られてしまうか、そうでなければ「なにがしたいのかわからない (゚Д゚?)」と当惑されるはめになるだろう。

知らんけど。

さて、ここからもう少し書くことがあったのだが――そのために書き始めたはずなのだが――、疲れているのでこの辺で切り上げる。つまり、このエントリにもオチはない。

思わせぶりなタイトルでごめんなさい。<(_ _)>

Language Use and School Performance

Language Use and School Performance

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